仮面の男
リディア州は帝都の北東に位置している。荒野に覆われた不毛の土地だ。
常備軍は四千。しかし平和な土地であるため、あまり精強とは言えない。水が少ないため農業も振るわず、劣悪な環境であるため商人の行き来も少ない。しかし、荒野の中には有用な鉱石を産出する鉱床が点在してるため、いくつかの都市が発達している。
要するに、中堅ではあるがぱっとしない州なのだ。
エドワード皇子のクーデターにはほぼ相互不干渉。リディア州に接する帝都周辺は未だ教団の支配下にあるからだ。
総督の居城では、政務に携わる政治家たちがひっきりなしに動いている。さして大きな州とは言えないリディアであるが、それでも総督としての仕事はあふれるほどに存在する。
秘書は報告書に目を落とした。内容を総督に報告するためだ。
執務室の簡素な椅子に腰かけるのは、州総督のハワード。キツネの仮面を身に着けているため、その表情を推し量ることは難しい。
秘書はハワードに仕えて二十年以上たつ古参の部下だ。しかし、彼とは仕事以外の言葉を交わしたことがない。
秘書だけではない。この州の誰もが、ハワード総督と親しくなどしていない。彼と自分たちとの間には、何か決定的な壁があるような気がしてならない。
「何をしている、早く報告しろ」
ハワードからの辛辣な命令。秘書は慌てて書類を読み上げる。
「申し上げます。パティ・マキナス率いるグランヴァール州軍は、邪神を名乗るカイという男に破れました。また、ツヴァイク州軍はオールヴィ州軍によって退けられました。どちらも反乱軍が勝利です」
「皇子と皇女はどうなったんだ?」
「パティ皇女は敵に捕らえられたとのことです。エドワード皇子はそもそも戦争地には訪れておらず、セレスティア州にこもり遺跡を漁っているようです」
「は? 遺跡?」
この総督にしては珍しく、驚いたような声。
「はい。間違いありません」
「くっくっくっ、ははっはははははははははははっ!」
仮面の男、ハワードが笑う。
「皇子っ! 面白い男だ。この戦時において土いじりとはなっ!」
「は、はぁ、確かにおかしな話です。総大将として自ら出陣すれば、少なからず兵の士気は上がるでしょうに」
秘書は狼狽した。この男との付き合いは長いが、ここまで感情を表に出す姿を見るのは珍しい。
「決めたぞ」
ハワードが立ち上がった。
「俺はもう二度とこの州には戻ってこない。今後の州運営はお前たちにすべて任せる」
「はぁ……え?」
秘書は我が耳を疑った。
「聞こえなかったか? 俺は二度と戻ってこない。次の総督が誰か、さっさと決めておくんだな」
再度の通告により、彼が何を言っているのか理解してしまった。要するに、州総督としての役割を放棄すると言っているのだ。
そんなことが許されるはずがない。ハワードはずっとリディア州総督だったのだ。後任など誰もいないし、できるはずもない。
そもそも総督の任命否認は皇帝の権限である。ただの秘書である自分はもとより、総督にすらその権限はないのだ。
「お、お待ちくださいハワード総督っ! 急に何を仰るのですか?」
「…………」
無言のまま、ハワードは執務室から出て行った。後に残されたのは、茫然とその場に佇む秘書だけだった。
こうして、リディア州総督ハワードはこの地を後にした。
帝都マリネ、城の中にて。
衛兵はあくびをした。
エドワードの配下である衛兵は、とある部屋の前に立っている。『祈りの部屋』とあだ名されるこの部屋には、今、前皇帝であるローレンスが幽閉されている。
彼を軟禁するためにここに配置されているのが、この衛兵なのである。
「神よおおおおおおおお、天使よおおおおおおおおおおお」
また、部屋の中から声が聞こえる。
明らかに病んでいるのは皇帝だが、こうして彼の奇声を耳に入れざるを得ない自分もまた、心を侵されてしまいそうになる。戦争に出なくてよい、と一時期はうれしく思っていたのだが、これはこれで苦痛で仕方がない。
今度本でも用意しておこうか、などと物思いに耽っていたら、こつこつと足音が聞こえてきた。
「陛下はこちらか?」
キツネを模したお面をつけた大男が話しかけてきた。衛兵は彼に見覚えがあった。
リディア州総督、ハワードだ。
失礼のないよう、敬礼をする。
「はっ、ハワード総督。前皇帝、ローレンス様はこちらにおられます」
「入ってもいいのか? もっとも、入るなというならお前を殺してでも入るが……」
ぞくり、と衛兵の肩が震えた。あまり感情のこもっていないハワードの声であるからこそ、逆に殺してしまいそうだと思えるほどの凄みを秘めていた。
「エドワード皇帝陛下より命を受けたのは、ローレンス様のこの部屋から出さないこと。面会等の話は聞いておりません。お通しします」
「命拾いしたな」
実際、面会謝絶というわけではない。これまでの教団の関係者がローレンスと話をするためやってきている。今更だ。
ハワードは扉を開け、部屋の中に入った。再び周囲が静寂に包まれる。
「…………」
衛兵は、扉に近づき耳を当てた。
ひたすら扉番として勤しむ日々なのだ。たまに好奇心が勝ってしまうのは仕方のないこと。彼にとって、ローレンスと誰かとの会話こそが、唯一の娯楽なのだ。
「おお……ハワード」
ローレンスが嬉しそうに声を上げた。リディア州総督とはそれなりに仲がいいらしい。
「余をどう思う、ハワードよ。神に祈り、天使に縋る。情けない皇帝である……余を……」
衛兵は耳を疑った。これまで奇声をあげていたとは思えないほどに、皇帝の声が理性的だったのだ。
「ローレンス、お前は間違っていない。常に正しい行動をとっている」
「そうだ、そうなのだ。余は……正しく……。竜…………天使……」
「…………時が、……アーク……、次……」
声が低くなってしまったため、何を言っているのか聞き取れない。扉を開けるわけにはいかないから、これ以上はどうしようもない。ただ一つ驚いたことは、ハワード総督が皇帝のことを『ローレンス』と呼び捨てにしたこと。
「……俺は行ってくる」
衛兵は弾けるように扉から遠のき、直立不動で立ち止まった。直後、扉が開かれハワードが出てくる。
「…………」
仮面の奥に秘められた表情は何か、衛兵には判断できなかった。
読んでくださってありがとうございます。
この辺で王国包囲網編を終了します。
それなりに続きましたね、この章分け。




