005 プロローグ
「慎二……慎二……」
鈍色に光る軌条。金糸雀の目映い生地に稲妻形の柘榴色の印を中央に走らせたスニーカーが、吸いついたように捕らわれて。進路は出し抜けの暴虐に閊えて……足を取られ躓いた少年……凄まじい速度! 柔らかな花萌葱にのっとりと塗られた鋼鉄を引き寄せ条鋼の深みに嵌まる足は脱ぐことをすでに諦めた様子、放心する視線は斜交いを見上げて。
KYUUUUUUUUUUUUUUNNN!
……少年の体躯は……!
「慎じぃぃぃぃぃ……!」
焦点が激甚な押し強さにより一挙に引かれ、酷薄なる光景の像の全体が裂かれるほど極端に歪ませてぼやけた挙句、瞬間的な闇は差し挟まれて。直後視界を焼き尽くす白に満ち、すべては白、に綯い交ぜられ煙とて消えて!
グニョっと弛んだ……小波を湛えながら視界は徐々に、鮮明へと落ち着いていき……罵声が飛んでヒリヒリと緊迫した空気が漲って……青白い照明……蛍光灯のもたらす冷ややかな艶を帯びた室内、立ち現われた皮肉っぽい表情が中年男性を方形に取り囲んで並び、鋭く射るようにそれぞれが見つめて。正面に陣取った初老の男性が口を開くと堪忍から解かれたように一斉に噴き出された哄笑が狭い一室を満たす。
会議中、突然の痴態。憑かれたように立ち尽くして中年は、じわじわと状況を悟っていき蒼白の顔面を益々青白く曇らせて。
「ここ数日振る舞いがおかしいらしいな、アレ、ただの偶然じゃなかったんだろう?」
会議室で痴態を演じた中年の正面に掛けていた初老の上司、気にかける様子だが憐れみの眼差しを無遠慮に注いでいる。
「お前このままじゃ噂が広まってここにはいられなくなっちまうぞ」
上司は矢庭に背広のポケットへ手を、直後彼に差し出した。
半分に折り畳まれた水色の小さな広告。
「出社している時急に腹が痛くなってな、コンビニに寄ったんだ、用を足して外に出たら若い男が声を掛けて来た、そいつはただのバイトらしいんだがある心療内科の広告らしいよ、『必要ない』、そう云いかけたんだが急にお前の話を思い出してな」
手渡された広告には『カンナギ心療内科』とあった。
「お前も知ってるだろう、近頃テレビでよく見かけるあの女の著名な病院だよ。予約制で混み合っているらしいが初診ならば案外空きはあるらしい、午前中は初診のみらしくてな、まあいずれにしろ勧誘みたいなものさ、なにせ熱心なあの女のことだ、熱狂的である種の宗教じみている代物だからな、先々の信者にとっての裾野を広げることが何よりだ、ってな算段らしい、確かに胡散臭いことを部下に押しつけるのも気が引けないこともない、でもな、お前のアレを目の前にしてしまった以上ほっとけないのも心情ってやつだ、今のお前は藁にでも縋ったほうがいいんじゃないか? 遅出にしてやるから予約が取れ次第行ってこい」
オフィス街のビルの合間合間を雑貨屋や骨董屋や洋品店や菓子屋や……様々な個人商店の存在感を見せつけようと、イルミネーションに美しく彩られて明滅している。もうすぐクリスマスだった。街路樹を飾る統一された青白の明滅とは裏腹、それらの明滅は色とりどりで。
駅ビルの正面、時計台の傍に掛けられた大型のモニタを見上げる人々がパラパラと。
テレビの生番組が流されて。
一人掛けのソファがカメラ向きに斜に構えて向き合っている、左手には真紅の派手なドレスに身を包んだ美人が掛けている、腰のあたりまで伸ばされた黒髪がなければ、まさしく高級クラブのチーママであるような趣き。向いの女はカッチリとした霧青灰のスーツに横分けの穏やかな茶髪、美人であるが堅い雰囲気である、バインダーを片手にメモを走らせていた。
『くれぐれも皆さん、白昼夢を見ても追いかけることは控えてください』
赤いほうの美人が警告を促す。
『しかし巫部さん、それでは我が子の死んでいく有り様を見過ごしなさい、という意味合いに捉えられてしまいます、実際統計が出ています、危機から逃れた方々も少なからずいらっしゃいますから』
『幻覚を追ったほとんどの方々は死亡されていますね、私はそれが危険だと考えているのです。幻覚を追わずこの世に留まった方々は確かに心が崩壊されかけてます、だから私共がケアをしなければならないのです』
『でも……確かに死亡という最悪の結果になるかもしれません、その代わりに犠牲を払った方々のお子様たちは皆、謎の失踪から帰還されていますよ。その件についてはどう説明されるのでしょう』
『確かにその点は説明に困ります……しかし、幻覚を見ている方々は皆が皆お子様が失踪された訳ではありません』
『いずれ……失踪してしまうという報告もありますが?』
『ええ……。しかし、逆の例もあります、大事なことは生きていくことです。私共の心療プログラムを受けていくうちに、突然、幸いにも謎の失踪から帰還されたという例もあるからです』
『その例は割合としてどれほどなのでしょう』
『それをここで明かす訳にはいきません』
『どうしてでしょうか! それではあなたの発言の信憑性が薄れてしまいます、むしろここで明言された方が得ではないのですか』
『ええ、それも一理あります。しかし、その例にある本人が、それを明かすことを拒まれているのです』
『本当でしょうか? 俄かに信じがたい発言ですが』
『私が嘘を吐いているとでも? あり得ません。私共の来談者は例え白昼夢であるとは云えお子様方の死に遭遇されているのです。下手をすれば何度も……何度も……。あなたは見殺しにしてしまった苦しみを理解できないのですか? これは本当にデリケートな問題なのです、その割合をメディアで発表していいものでしょうか? そんな訳ありませんよ、しかしこれだけは明言しておきましょう、白昼の悪夢を乗り越えて、お子様方が無事に生還されたご家族が少なからず存在している、ということを』
『しかしそのご家族にしても…………』
身につまされる情景へと見入っていた中年はふと我に返り、ぶるっと身震いをした、そそくさと構内へ向かう……
KYUUUUUUUUUUUUUUNNN!
線路の軋轢。中年は脅えた表情で、しかし幻覚を見ているような虚ろさではなくて。眉間に皺が寄っている、訪れた車両へ、他を押しのけるようなガサツな素振りで足早に向かって行った。
郊外の住宅街、ランニングには不似合いな鞄を片手、スーツにコートを羽織った革靴の出で立ちで走り過ぎていく中年男。
マンションの5階、裏道から回り込むことすらせずにセキュリティカードを落ち着きなく何度か失敗させつつかざして、裏手の螺旋階段を上っていった。
「慎二!」
明るい室内、駆け込んだリビングのガラス扉をぞんざいに開け放ち、テーブルに掛けて宿題を広げていた少年は怪訝な表情ながらも「おかえり、父さん」と一声。
紅玉と黒のルームシューズが立て掛けられた中から黒を選んで懸巣の清潔感のある色彩のカーペットを進んでいく。同じく水平線淡青に統一された内装が自ずと安穏を誘うようで。カウンセラールームからは背を向け通された待合室は広い空間をそれぞれ間隔が置かれて椰子茶の一人掛けの角ばったソファが並んであるようで、黒に金の幾何学模様の描かれた衝立に仕切られてあった。ソファの前には銀サッシのガラスの円卓が据えられている、ガラス張りの奥には広い庭が明るい印象で。色彩豊かな小さな花弁が沢山、風に揺れ並んでいる。
貝殻淡紅色に金縁の磁器のカップには、淡い黄金色のハーブティが注がれていた。銀色の腕時計を首の辺りにかざして中年はやや落ち着かない様子、呼び出された隣の席の来談者がカウンセラールームに向かう様子を一瞬振り返って、さっと正面に向き直した。来談者の女性は生成色の抱っこひもをしたままだった。
時間が過ぎてようやく呼び出される。
水平線淡青の壁面に施されたチーク材の扉が印象的で。
風光明媚なロビーと打って変わって室内はやや暗い照明だった、大きな筒型の間接照明は天井の高さに迫るほどで大小数多の半透明の青い球体がぷかぷかと下から上へと次々に流れては消えて。チークの板張り、ハイバックの黒の革張りのオフィスチェアに掛けて壁向きになったデスクで走り書きをしている、クルリとチェアの向きを回転させ足を組んだまま向かい合った。白衣の内側を檸檬色のトップスと藤色のミニスカートを着こなしてかなり扇情的で。組まれた上部の右脚の先にピンと上向きに西洋木蔦緑のピンヒールが伸びていて、エナメルの光沢が妖美であり。
穏やかに笑顔を造りテレビで見せる冷徹で強気な表情とは全く異なった柔かな印象で。
「始めまして池波さん、巫部美紗希です、当院の代表かつ主治医をしています。これから長いお付き合いをしていければ幸いですわ」
玄関を出て身震いをする、正午も近く晴天であったが肌寒い日和である。池波はフラフラと駐車スペースからは離れていき、隣の敷地まで歩いていった。木造の建物だった、風に運ばれて調理場から食欲をそそるようないい匂いが届いていた。小洒落たカフェらしい。池波は躊躇する様子もなく店内へ進んでいった。
ビバップジャズを融合させたポップスの軽やかな音響、ほとんど満席になって賑わっている。入口のすぐ左手にバーカウンターがあり四人掛けほどの四角いテーブル席が奥までいくつも並んでいる、内装や家具も木造がほとんどだった。
通された席の向かいに腰かける女性を佇んだまましばらく見つめている、壁際でどちらも二人掛けの小さなテーブルだった。生成色の抱っこひもを外して木製のチェアの座布団にこじんまりと寝せられた乳児がすやすやと眠っている、池波と目が合うと女性は柔らかく微笑み返す、吸い寄せられるように彼は彼女たちの席へ近づいていた。
「こんにちは。どうされました?」
「あ……その……」
居た堪れない様子で無言のまま首を後ろ向きにして視線を外す、女性の表情が曇っていく……勢いよく向き直しもう一度彼女を見つめた。すると強ばっていた彼女が思わず吹き出してしまう。
「ごめんなさい……つい可笑しくって」
「いえ……。こちらこそ不信なことをしてしまい……」
笑顔の彼女、首を左右に振って見せた。
「実は、さっき病院でお見かけした方かなと考えてしまって。失礼かとは思いますが見つめてしまいました」
「病院……そこの?」
「ええ、隣の……カンナギさん……」
「そうでしたか、ええ、私もお伺いしましたわ」
「やっぱりそうでしたか。すみません、受け付けの際につい振り向いてしまいました」
「個室になってましたものね。でもよく分かりましたね」
「いえ、その……」
池波は乳児の方へ手のひらを差し出して見せる。
「ああ、抱っこひも姿で分かったのかしら?」
「実はそうなんです。すみません、失礼しました」
「いいんですよ、私も初めてのことだったし。緊張が解けたのかお腹が空いちゃって……すぐ帰れば良かったんだけど我慢できなくなって意味もなくこのお店の周りをウロウロ回っちゃったんですよ、それで……」
「ははっ。そうでしたか、実は僕なんて直行しましたよ。電灯に吸い寄せられたまるで羽虫みたいに」
「なにその例え」
彼女は無遠慮に明るく笑う。
「よかったら相席しませんか? この店忙しそうだし」
「え……」
「迷惑だったらすみません」
「い……いえ。迷惑だなんて」
朗らかな表情で池波は歩いている。普段は電車通勤であるが病院から会社に直行したため近くのパーキングに自家用車を停めていた。
オフィス街の周辺には公園やランニングコースに適した川沿いの堤防があって緑に映えていた。パーキングから公園を横切って短い橋を渡っていくと狭い路地にぶつかる。迂回すると大通りであるが徒歩であるならまっすぐ路地を進んだ方が近かった。
入り組んだ路地から出ると正面にはすぐ踏み切りがあった。
KANKANKANKANKANKANKANKAN…………
遮断機がゆったりと下りていく、白と黒で交互に塗られたバー、警報音に合わせて左右のランプの赤の点滅が行き来する。
ザワ……ザワ……と黒っぽい不穏な霧状の集合物が池波の足元をそよいでいく…………
KYUUUUUUUUUUUUUUNNN……
列車が過ぎていく……車両の上空、遮断機のランプほどの高さに不気味な暗い影が顕れて、池波はそれに気づいて見上げた、けたたましい音響が過ぎ、彼は無言のままで……。上空の黒はやがて激しく渦を巻いて回転していった……足元から何かの群れが上空へと、吸い込まれていくように凄まじい速度で次々に飛び上がっていく! 視界を過ぎる速度に気づいて視線を落とす。
KYUUUUUUUUUUUUUUNNN…………
車両はあり得ないほどの長さで線路の向こうまで続いておりいつまでも遮断機を通過し続けて。
下方から上空へ! それは池波の息子、慎二だった、慎二少年の写った写真を、バラバラに千切ったような薄っぺらい像に圧縮された少年の肉体の部位が次々と! 上空の不気味な暗い渦巻の内部へと誘われていき……それらは隈なく取り込まれてその内奥へと消えていった…………
「慎じぃぃぃぃぃ!」
幻影は消え去っていた。静寂だった、茫然と立ち尽くした中年は言葉を完全に失していた、嘘のように長蛇の車両が、何事もなかったようにすっかり消え、上空の渦もまた晴天に溶けこんで霧散しきってしまった。
KANKANKANKAN
突然喚きだした遮断機の警報はピタリとすぐに収まる、しずしずと白黒のバーが戻されて。
棒立ちになって中年は長らく時を止め動くことはなくて。