013 ヴァイオレンス 改稿前
彼方へ。
広がりへのいっぱいに、充溢は濡らす、深く見通せぬほどの気配へ、最奥まで届かんとして果てもなく、連なりの、充溢。
滑らかな。気流のうねりに擦り合う透明な官能の塊に漂えば、天界より注がれた伸びやかな金糸の数多に、[[rb:揺蕩>たゆた]]いは弾けなおも広がりを煌かせる。
空の紺碧。九天の化物が[[rb:厖>おお]]きく、口腔を開いて闇が貫けば、過ぎていく灰青の背に微塵にも物怖じせず群れ泳ぐ小鳥の艶々。遠ざかる雲は止むこともなく闇を開き、闇を食み、その一帯を暗くしていくことだろう。
去れば金は再び。小鳥は長大な帯をなし続いているので。
ずっと下方へ、地上へ向かって潜っていく……二つの体躯が見える。時折、澄みわたる青に溶け込んだ燦爛を遮るほどに、高き橋梁の線描で、巨大鳥は襲いかかって帯は素早く散りまた群れて。
「あ。見て、食べられたよ」
ふわりと風に浮上して地面へ溜まった砂塵は流れた。
すらりと伸ばされたその腕、深さにいや増す紺碧をありのまま、内奥まで届かせるほどに透きとおり、キラキラと降りた光のまばたきを屈折させては、彩り豊かな虹色に返す少女のその腕の、節たる節には不自然な継ぎ目を窪ませているが、瞳は無垢に雑じりなく、踊る指先と同じように、思いきりよく空泳ぐ鳥たちに向かっている。
頭部にこぶを携え、青緑色の鱗に覆われた愛らしい表情の巨大鳥。しかし無惨にも、小鳥という小鳥の群れ、逃げ惑う[[rb:銀>しろがね]]の光沢の連なりを執拗に追いまわしながら、逃げ切ることの適わなかった数羽のいたいけな生贄たちへ一縷の慈悲をも与えず吸い込むように、ぱくり。
「あの魚たちは死んだんだね、じゃあそれまでは生きていたんだ!」
「はぁ。またかよ」
少年は少女に苦々しい表情を向けながら呆れがちに憂える。
だが少年は、視線をひとつに固定したままで立ちつくすばかり、頬を朱に染めて見惚れているので。きゃっきゃと飛び跳ねて喜色を表す笑み、嫋やかな緑の髪は空気のふくらみに緩やかに舞い、瞳は金色、カクカクと勢いよく開閉している継ぎ目は肘や膝の位置、非現実的な姿である。
「[[rb:Φ>ファイ]]、それのどこが嬉しいんだよ?」
「トーヤには分からないよーだっ。だってさ、トーヤは私とは違うもん」
「同じだよ」
空濡らす充溢が苛烈に昂っていた、季節は夏。トーヤはじっとり隈なく汗をかいているが長袖長ズボンの恰好で手袋まで嵌めている。対照的にΦは人工的なその躰を露わにしていた。
「同じさ。同じ……だよ」
じっと見つめている。Φの左右の輝いた金。
彼女はくすり、と笑う、つま先が浮き上がり、肩へと抱きついた。
「トーヤは、優しいんだねっ」
柔らかな心地を返すように彼女の細い腰へ柔らかに手をまわす。上空には無数の鳥たちの群れ。
ここは空の底に沈んだ街、気配が、感触が、肌や膚やをつなぐ世界で。
鉱物の花青く、涼やかなひとひら、ひとひらのワルツ、下へ下へ、織りなされ連鎖の圧縮に、滲み出した香気は気高く。エッセンスはなお煮詰められて濃密なグラデーションへと、重く、深く、沈みゆく青には突如映える、白。
さらさらと細やかな白は静謐に、雄大に大地へ広げられ、見上げれば人々の触れることのない遥か外気圏、穏やかに見えて止めどない、まばらにはためく天幕の畝たる畝の変容の影うつす。囁き、互い侵食し響かせあう毒の息吹と交感が、光と影、戯れの揺らめきをよそに、廻る夜つゆの夢幻に痺れては、掠奪に宿る血潮の性交、シルエット。じわじわと流れる大気に撫でられ、しずしず肉付いてゆく稜線が街の地平から遠い地平へと、這い進んでいく盛衰のそのうごめきは、緩慢に。絶え間なくギラギラと、くすぐられ続ける風紋覆うように、沈められた煉瓦の上をトーヤは自転車で漕ぎ進む。
「そっか、もうΦとは別れたんだった」
阿弥陀に組まれた赤や茶の色彩の差異が次々に迫り果てには通過している。漕ぎながらも器用に、手袋を脱ぎ袖をまくる、腕にはじっとりと、汗。
速度は暫時充溢の空中に軋みを生み出す。
影覆う、埋まれた際立つコントラストの様々も、周囲は暗がりひとつに奪い去られている。立ち塞いだ巨大さへ隣接したスペースに影法師は送り込んでは、遮蔽へと近づいていく。
影の向こうへ、壁面に沿って上り上ったようやくその高み、見下ろせばくすんだ地面の人影は豆粒に縮こまるほどの高みには、切り立つ面に唐突な陥穽へと横溢している天よりの金。照らされた[[rb:瓦礫>なかみ]]の晦冥はなおも不分明に、闇鍋を返したような乱暴な有り様で、得体の知れぬ、泥濘の練り物にて奥のおくまで密集している。ビルは壁面の所どころに穿たれた穴ぼこから、大気のゆりかごに止められては、ふうわりと瓦礫の噴射をあちこちから遂せていた。高所から倒壊したそのビルは、下方を、果てしなく葬りさっているような無軌道な仕種を矢継ぎ早、延々と続けて、伸び上がっていく直線的フォルムとは対照的に、地面をつなぐはいびつな山肌の散乱で。すっと伸ばされた四肢をそれぞれに噛ませて、がっしり抱え込みながら、大気の浮力を活かし影は、瓦礫の壁面へと四つん這いになりよじ登っていく。
煤のような泥のようなそれとも、灰。暗がりの少年が黒い[[rb:汚穢>おわい]]をまとわせながら掘り返しては浮上する。やがて、練り物より分けられて、ぼろぼろになった皮財布を発掘した。広げるとくしゃくしゃと収まっていた日本円の紙幣のいくつかが風にさらわれてしまい瓦礫の渦のどこかしらへ、吸い込まれ消えていった。
「くそっ!」
手を伸ばしても届かない……。やがてあきらめて地上までの道程を後ずさりの格好のままに下りていくので。
煉瓦の道。
少年の漕ぐ自転車から見えている光景は、残骸ばかり。空っぽになった家が立ち並び、倒壊したり、完全に朽ちてしまっているものまで。それらがしつこいばかりに連続している。
小道を外れて大通り、うっすら積もる白が走行の勢いに舞い上がって、横倒しになった電柱や街灯が計ったようなリズミカルさで地面を遮っている、そのいずれも空気より浸食され、触れてしまえば瞬時に崩壊してしまいそうなほど危うげな限界の淵にてその面影をとどめているようで、遠い昔の、道路の姿を現している。障害物を躱しつつ蛇行していく。
しばらく道なりに走ったところで停車する、地下鉄の駅の入口、ひと気のない古びきったかつての駅だ。
少年は懐から懐中電灯を取り出しスイッチを押す、反応のない筒を手のひらにぶつけて何度となく繰り返す、柔かな灯りがともり始める。
こつこつと固い靴音、地下への階段を下りていく。
「リャンおじさん。金を持ってきたぞ」
忙しなく行き交う光が薄暗い闇をぼんやりと写すランタンを捉えてピタリと止まる。人間の腕、脚の形に組まれた機械のパーツがごろごろと無造作に転がっている、ホームはガラクタにひしめいて。
火花は散り金属の削れる不快な音響が生まれては枕木を順に踏み鳴らすように遠くまで伝い伸びていく。溶接用のヘルメットを上げて男が振り返る、滴の付着した丸眼鏡を外し少年を直に眼差して溜め息。
「トーヤ、またお前か」
「約束は三百万円だろ? あといくらだよ」
「いいや、五百万円に吊り上げだ」
「はぁあ? 大変なんだからな、前史の金なんてそうやすやすと手に入らないんだぞ!」
「へぇ。お前はいくら値を吊り上げても懲りないな」
「当たり前だ。俺はΦと同じでなきゃいけないんだ!」
「機械娘にまだご執心か。機械になりたいだなんてトンだ変わり者だよ」
「リャンおじさんだって身体の半分は機械に替えちゃってるじゃないかよ」
恰幅のいい男の体躯の左半分は滑らかな金属、ゴツゴツした部品に造られた機械のボディだった。
「まあな。わしだってな、機械になればいいと思ってはいたさ」
のしのしと大股で部品棚へと。棚の奥からは写真立てが取り出されていた。くっきりとした目鼻立ちの美しい女性が写っている。
「わしは、身体はこの通り、ふてぶてしいほどに丈夫だよ。だけども、妻がいなくなることになど耐えられるはずもなかった、心の弱さは妻とは正反対だったのさ」
彼は留め金を外して写真の裏に挟み込んだマイクロチップを取り出した。
「これは。彼女の記憶を書き出したメモリチップだ」
「おじさんは、その人を助けたかったんだろ?」
「ああ。だけど妻を助けたいという気持ちじゃなかったんだ。妻にいつまでも自分の傍にいて欲しいと願った単なるエゴだったのさ」
再び写真立ての中へと。肖像に息づいた彼女を眺めたあと、彼は自分のボディをしばし見つめているので。
「俺にはそんなの分からねえよ」
「今は分からないかもしれない。けれど、そのうち――」
「分かったら死んじまうんだろ? 機械の躰がなかったら、俺はいつか、じじいになって死んじまう。俺は、あいつひとりになってほしくない」
「お前は、Φがずっと夢の中を生きているとでも思っているのか?」
重々しく放たれた背中に対して強い視線を返している。
「彼女は、魚が好きだろう」
しゃがみ込んで部品棚のいちばん下の段から、オイルサーディンの缶詰を取り出した。缶を開け、中身を手でほぐして、宙に泳がせた。香味の効いた油が空気中に散らばって油滴はもわもわと拡がり漂っていく。かぐわしいその匂いは隠れていた鳥を誘き出しているので。黄色い、松ぼっくりのようななりをしたずんぐりとしたその鳥たちは、一羽、二羽と増えていき、漂う肉を突っつきあっている。
「俺は魚なんて嫌いだ」
「どうしてさ、可愛いもんじゃないか」
「こいつらは自分が死ぬなんてこと、分かっちゃいないんだろ。そんなやつらに笑われているなんてとても腹立たしい」
「人は死から逃れることだけを必死に考えているとき、目が死んでしまっているんだ。妻にそう指摘されてね。以来、機械の躰を手に入れるための研究は進まなくなっちまった。そのかわり、妻が最期を迎えるまで、わしは隣りに寄り添った。妻は、感謝してくれた」
「だから死んじまったんだろ。研究さえやめなけりゃ、今だってきっと」
「妻は、それを望まないさ」
リャンは落ち着いた声を滲ませていた。
「分かるかよ、そんなこと。生きていることが全てで、死には何の意味もない」
トーヤは皮財布を作業台へと乱暴に置いた。
「つけておいてくれ」
「また吊り上げるかも知れないぜ」
トーヤはすでに出口の階段を上りかけている。
「いくら吊り上げたって同じことさ、金は集めるよ。俺は、あいつを失うのも、あいつの中で俺が失われるのもごめんなんだ」
トーヤは振り返らずに階段を上り切っているので。
速度が通過している。宇宙の闇夜を染めながら貫かれた金の軌道は今しがた、天幕を破り地平を分かつ境界の向こうへ、[[rb:自転周期>サイクル]]は柔かな銀の無数に散らされた黒を降らせるばかり。
澄明な藍の宇宙。安息の[[rb:呼吸>リズム]]の素描とて、広がる大気、湛えられた黒地を縫うように、粉雪の光輝のはらはらと沈む閑やかな細流に結ばれて、浮き上がる。写された天体は[[rb:月白>レゴリス]]に蝕ばまれ、絶妙な半円を描くので。
整然と均された球面へ近づいていけば、様々な図形に切り出された[[rb:鱗片>スパンコール]]の連なりで滑らかな湾曲のホログラフ乱れ咲いて。更なる接近に、ぴったり貼り合わされたはずの極微の間隙より顕れ出すは肉の壁、なおも潜入の先へと広がるは微視的世界の肉の海、数多に穿たれた口腔より肛門へのトンネルの束――気流は行きつ戻りつ、穏やかな寝息の満ち引きに永らえている。
遠景よりしずしずと。忽然と伸び上がり、夜気を透かした[[rb:紺青>こんじょう]]の塔聳え立ちて、その内奥より銀の燦爛滲み出しては程なく妖艶な光沢とて纏わせている。首元から垂らされたオペラカーテンの[[rb:紅玉>ルビーレッド]]は鮮やかに、玲瓏の膚の青へと対比を生んで。
すらりと下ろされた腕にて鍵は差し込まれ扉は開かれた。
「ただいまー」
薄明りを真っ直ぐに横切った影が上方を引くと天井に下がる裸電球にはぼんやりと温かな灯り、球体の内部の隅へと柔かに行き渡っている。
呼び寄せられて一羽の鳥。胴部から尾部にかけて白金属のような滑らかで均一な白地へ、クッキリと黒の縞、ぐるぐると螺旋状に這い、頭部だけは奇抜な黄。口をぱくぱくさせながらΦの指先をつついて甘えた素振り。
「あはは、くすぐったいよ。ジャン」
サテン地の赤をはためかせながらひらり、ひらりと軽やかに舞う。
「私が出かけている間も元気にしてたかしら?」
強く注がれる金色の視線に、ジャンは唇を少しだけ下げた。つぶらな金はやや光沢を濁らせる。
「もしかして、悲しいことでもあった?」
脚下をかーんと硬さが鳴らしている、大仰な鋏が二つ、白地の体に赤い斑点を散らした派手派手しい蝉が金色を見上げて、しゃがみ込んでは黒真珠のまなこを見返した。
「ランドール、どうしたの? もしかして、ローラのこと?」
ピンと張られていた触角が、だらりと垂れた。
ゆっくりと、ランドールの背後へと見やっていく、床の上には固くなった鳥が一羽。ジャンと同様の姿態である。微動だにしないそれの瞳からは輝きが失われ濁るばかりで。
「ローラ、お疲れさま」
鱗を優しく指で撫で、しばらく、寝つかせるように慈悲のそよ風とて。
「大丈夫。ローラは幸せだったと思うよ」
ゆっくりと両手は掬い上げて、そして立ち上がる。
「私、ローラを埋めてくるね」
しかし進路でジャンは口をパクつかせ背後からはランドールの触角が少女の脚をつついた。
「そう、連れていってほしいのね」
少女が手を差し伸べると、蝉は継ぎ目のある腕をよちよちとよじ登って、肩へちょこんと収まった。ジャンは変わり果てた同朋の隣りへと掌を潜っていった。
銀は降りる、ひしめき、結ばれながら満ち溢れては明暗の、深まりを相交えて、青。深奥の晦冥までも、雄大に広げられた[[rb:嵌画>モザイク]]の滑らかな透き目に流れては、緩やかに。
[[rb:深深>しんしん]]と、零れる銀の空を縫い、不意に浮び上がるは骸のごとき白木の群れ。銀は宿らせ今しがた骸の生気のしらしらと。小高い丘を埋め聳え、裏手にはあちらこちらの明滅、僅かに鱗片の煌きは届いて、立ち並ぶ斑紋を見下ろすかたち。
複雑な交叉生んで脈打つ白枝の迷路へと、なおも縫い、伝う銀は衰微しつつもひっそりと伸び、不気味に笑う、溶け合い闇混ぜた群青は濡羽色にて。
朽ちて骸に穿たれた所どころの陥穽には、鳥や蝉が隠れ住み、覆い込んでは、蛭やシダ植物が群生する。空に沈んだ森の暗がりを躰へと染ませては、幽かな銀の艶めきと[[rb:紅玉>ルビーレッド]]の揺らめきが。
地面に届いてまた骸。転がったいくつもの兵士の屍はぼんやりと鈍色の地肌を浮ばせて、しかしほとんどは、煤け、のみならず銃弾に貫かれ蜂の巣にされ。
「私が生まれる少し前、大きな戦いがあった。そのときに使われたロボットの兵隊さんたちよ。奥に行けばもっといっぱいあるの」
開けた空間にて歩を休める、中央には石碑が。大文字のアルファベットと数字の組み合わせからなる厖大な名が刻まれ、最上部には『ここに眠る』とある。
「彼らを弔うのは、それを託されたあたしだけ。でも、死なない私が、弔いなんてできるのか。正直、分からないわ」
慰霊碑を囲うような残骸の山を見つめ、そっと瞳を閉じて。ゆっくりとローラの亡骸を寝かせた。ジャンがローラをつついている、しばらくすると横たわるローラを見つめるだけになった。
「ジャン、ランドール。あなたたちを連れてきて良かったかも知れない。私が誰かの死に真に立ち会うなんてできやしないもの」
地面に穴を掘りゆっくりと底に沈める、土を戻せば目を閉じて重々しげに合掌していた。
ばちん……ばちん。
大きな音が鳴った。Φは驚き後ろを振り返る、その後ろには大きな鋏を打ち鳴らすランドールが。
「そう……弔砲なのね」
今一度、[[rb:打擲>ちょうちゃく]]に耳を澄まして手を合わせた。
「おやすみなさい、ローラ」
うら高き天幕の麓へ。満ちた大気の混ぜられて渦は生まれ。去れば貫き高みより、藍なる充溢を、分け、攪乱に舞う[[rb:汞>みづがね]]の失墜の、薄明に染めあげし大いなる広がりに浮かぶは、渦巻く銀河とて。
ふたたび空を昏くして旋回に[[rb:埋>うず]]まった巨大な[[rb:翳>かげ]]を震わせる。
雨……。
どろどろに凝った赤褐色がしと、しと、降りている。次第に生まれ落ちていく、おびただしい球体とは無縁であるような素ぶりにて悠々と泳ぐ、雲。
トーヤは、濡れた地面に轍をくぐらせ駆けていく。重々しく麻袋を背中へくくりつけて、必死に漕いでいく。がちゃりがちゃり、と金属のぶつかり合うような音が忙しない。
「森に隠れよう」
森の入口に立つ大樹へと自転車を立てかけた。
降り注ぐ球体は、森の木肌へ達すればするすると滑り下りて、地面を覆う腐葉土のすき間へと滑り込んでは層を接着するように沈んでいく。踏みしめては再び空中へと逆流して、濁った赤褐色が眼前に広がる、やがて緩やかに降りていき地面へと還ってしまう。
しばらく歩き続けていたトーヤはしかし疲れ果てた様子で木の幹にもたれかかってへたり込んだ。
「泡宿りしている時間なんてないのになあ」
不満げな表情でしばらく小声で悪態をつく。大きなため息を最後に担いだ麻袋をごそごそと漁りはじめ、中身を次々取り出していく。電子回路の残骸、無惨に配線の飛び出している機械などのスクラップ品。
「使えなくてもいいとは言っていたけど、こんなもので足しになるかよ」
赤、黒、青緑。色とりどりの錆を手で払い落としてはしかめっ面。
「リャンおじさんも信用ならないな」
少年は再び深々とため息をつく。錆を払落したものを麻袋の中へ戻した。
雨の止む気配はない。枯れた枝のすき間から傘も持たない少年の背中へ濡らすばかりで。立ち上がった少年、しばらく無言のまま立ちつくしては、再び歩き始めた。
「ロボットの腕だ」
シダ植物に飲まれゆく死んでしまった森の中において、ひときわ目立つ美し部品が転がっている。少年の持ち物に比べると雲泥の差であるような状態の良い代物だった。
夢中になってトーヤが手を伸ばす。だが、もう一方の手が正面から同時に近づいているので。少年は思いもかけぬ素振りを見せながら手を引っ込めてしまった。
「な、なんでこんなところにいるんだよ。Φ」
彼女の瞳が濁る。白黒の縞をした奇抜な黄の頭部を持つ一羽の鳥、ジャンが少女の前でひらりと舞った。足下には白地に赤い斑点の大きな鋏を持つ蝉のランドールも少女の後を付くように歩いている。
「ジャン、ランドール。ありがとう」
トーヤはΦたちの様子を眉間に深い皺をつくりながら睨んでいた。視線に気づいた彼女は「あ」と声を漏らすので。
「名前を付けているのか?」
「ト、トーヤ。隠してて、ごめん」
「言ったよな。生き物とは関わるなって。生き物は、お前を置いていってしまうんだよ、ひとりぼっちにしてしまうんだって」
「トーヤだって、一緒でしょ?」
「一緒じゃないっ!」
少年は森を揺らすほどの大声を出した。肩を荒く上下させては、激しく息を出し入れさせて。
「俺は、お前をひとりにはしない! どんなに時間が経っても、お前の傍にいたいんだっ!」
「ありがとう」
彼女は静かに頷いた。だが、やがて口を歪めているので。
「もう……。嘘は付かなくてもいいんだよ」
トーヤは一瞬にして血の気を失ってしまい、しかし真っ直ぐに彼女を見すえていることは止めなかった。
「トーヤは、人間で、私とは違う」
「今は違うかもしれない」
トーヤは、手袋の裾をまくった。
彼女はその白い肌を見て、目を細め、掴んで引き寄せて、頬ずりをした。
「私と違って、生きていて、大好きな命の香りがする」
「なんで……。いつか終わる命を肯定できるんだよ。俺は……、お前を置いて死にたくなんかないのに」
「でも。……それが自然の、理だもの」
「俺は嫌だ。Φをひとりにしたくない」
トーヤは乱暴に彼女の腕を振りほどく。それを受けて、金の瞳は奥深く気配を湛えては、柔かい眼差しで少年へと返しているばかりだった。
「トーヤは、生きることをやめたいの?」
「違う! 俺はΦと同じになって、同じだけ生きたい」
「それは生きることをやめることと同じだよ。命は、いつか死ぬんじゃうからこそ生きてるの。終わりがあるから、今を感じられる。私にはその感覚がなくて……。トーヤには、それがあるはず」
金色の矢を真っ直ぐ見つめるトーヤは、苦しげに口を歪め、やがてぎりぎりと歯を軋ませてしまった。
「なんでだよ! なんでみんな、そんな諦めたことを言うんだよ! お前も、置いていかれる苦しみは分かっているんだろ?」
「分かっているよ」
彼女は、トーヤとの中央に置き去りの、ロボットの腕を拾い上げる。
「私を残して動かなくなってしまった機械も、死んでしまった生き物も、たくさん知っている。辛いことだけど、私はそれを否定したくない。私は金剛石で作られていて、死ぬことも、錆びることや朽ちることさえ知らないわ。だけど。……終わりを知らない存在は、今を大切にできない。それは、本当に悲しいことなの」
彼女は死んだ部品を拾い上げ、ひとところに集めていた。死んでいった機械たちを弔うための石碑の前。ローラの死体を埋めた場所へと。
「私はそこに、ロボットの腕を納めるつもりだった。トーヤはどうするつもりだったの?」
Φは首を傾げ、トーヤのうつむいた顔を覗き込む。トーヤは身を屈めるや否や、彼女の手からロボットの腕を奪い取ってしまった。
「お前がどう思ったって。嫌なものは嫌だ! これは、俺が使いたいように使わせてもらう」
言い放ちトーヤは、雨の降り続ける森のその向こうへ側へと消えていった。
「バカ……」
ぼそり、と呟く彼女の声が、青の中に反響していた。