001 おもて
「なあ、『SPACE PEACS』って知ってるか?」
「なんだそれ。『宇宙の頂上』か? 聞いたこともねえよ」
「そうじゃない。P・E・A・C・Sだ」
「ますます分からねえよ、PEACSってなんだよ」
「さあな、よくは知らないんだ」
「どういうことだよ!」
「だから……その……ちゃんと説明できるほどにはなにも知らないんだよ」
「で? そのPAECSとやらがどうしたんだよ」
「さあ……」
「えっ!」
「動物でも植物でも人工知能でもない、どちらかと云えば金属の特性をもつがとても流動的なんだ、しかも意識をもっている」
「……それが、PAECSってやつか?」
「否、『SPACE PEACS』はまた別だ」
「なんだそれ……」
隣の男は入口と地続きになった、ステージからは最も遠い場所にあるカウンター席からショーを眺めている。隣の男の右隣りに掛けた男は後方から視線を辿った。舞台の中央、マイクスタンドを前にコメディアンが小噺を続けている、しかし隣の男は舞台袖近くにぽつんと据えられた誰も掛けていない木製の椅子を眺めているようだ。焦茶に塗装された木部にぷくんと膨らんだ深紅に冴える革張りの座面が収まって、その周囲、黝の金属鋲でゴテゴテと装飾されている。
洞窟の劇場。水銀朱に白の細かな曲線が幾筋も走った麗しい岩肌の紋様、カウンターとステージの間、無数の発光生物の溶け込む海が間接照明とて花紺青の目映さで。海に点在する椀型の側面をした小島、水平に断たれた海上の断面には小ぶりな円卓とステージ向きの椅子が3脚ずつ、ちょうど収まるくらいの狭さで。そこかしこでハンドベルの共鳴、余興のようにせわしなく。構わずステージ上ではショーが催され、ゴンドラは器用に小島を潜り酒や軽食を運んで。
バーテンが立つべき場所は塞がれて壁へと直に備えられたカウンター。正面の壁は同じ紋様だが金属で造られておりギラリと光沢する、滑らかな襞の凹凸の墨流、天然の岩肌と金属の肌の境界は不明瞭で見事に混ざりあって。
『……ロディ・Jは妻にこう云うんだ。「身動きひとつ取れねえんだ、せめて花瓶でいいからさ」』
どっと一斉に噴き出された哄笑はステージより更に奥まって伝いくるようで……
妻にせびられて蜘蛛を放し飼いにせざるを得なくなった寝室で目覚めた夫には雁字搦めの鋭い蜘蛛の糸……刃の如く砥がれた極細のピアノ線へ僅かに触れるだけで裂かれた傷口から血液がとろりと零れ落ちる。寝返りを打つことすらままならず、まして誤って起き上がれば骨ごとぬるり肉の断面。膀胱は腫れ小便は破裂寸前にまで膨らんだ水風船、尿瓶を要求するも妻は一向に動く素振りも見せず。
『「活ける花を探そうとしていたのよ、都合がいいわ、剥きだしにされた男根の先から薔薇の一輪挿しを出してお見せなさいな、そうしたら花瓶の口から注いでごらんなさい」そう云うとようやく妻は花瓶へと手を伸ばしていく。ロディ・Jは滝のような冷や汗を寝間着にじゅくじゅくと含ませながら必死で弾けそうな小便に向かって真紅の薔薇の一輪挿しのイメージを宿らせていった……「ぎゃあぁ……」ついに顕現させたが尿道には刺々しい茎が貫通しロディ・Jは絶叫してしまった、男根の先、ぽっと開いた真紅の薔薇の花弁……小便よりもどくどくと真っ赤な血液が花瓶を一杯に満たしてしまい、ロディ・Jは小便を注ぐ容量を失った』
爆笑が木霊となって洞窟を満たしている、男は笑うツボがわからぬようなまごついた表情でステージから視線を戻した。隣の男はにやけているが視線の先は未だ空っぽの椅子へと向けられている…………
「あれ?」
隣の男に釣られて椅子を眺める、誰もいないはずの座席、腕まくりの白シャツにサスペンダーの男。
「マッシュルーム・ポテトが立ち上がって……」
口を開いた隣の男へと視線を流す。
「はっ……」
底……
岩肌を模した水銀朱と白の墨流、紋様の曲線、隣の男の相貌は消え金属の岩肌からなる、洞窟をぎゅっと深い渓底へと結んだように穿たれた峡谷は、背景の次元へ垂下し奥まって。
「どうした、夢でも見てんのか?」
「はっ」
隣の男は相貌を戻していた。
「底…………」
「はっ! それがどうしたんだ」
「否……」
男は正面の壁を見やった、隣の男に宿った峡谷と同じ岩肌を鏡のように写している。しばらく眺め天板へ視線を移す、木目からメープルの一枚板だとわかる、薄塗りだが気高いほど白いはずのメープル材をわざわざテカテカとした黒の塗装にしているのが印象的で、光沢が強く鏡面加工とさえ云える、うっすらと木目を透かして岩肌の墨流を反射させていた。
天板と岩肌の継ぎ目には浅い溝、男から隣の男の向きへ勾配があるその溝を先ほどから何度も認めていた、グラスの露がコースターから溢れて天板を奥へと少しずつ伝っていき、落とされた水分がするすると艶のない銀色の凹面を流れていく。
「これは何のためにあるんだろう」
「ああ、これか…………」。隣の男はしばらく口をつぐんだ。
「飲み残したグラスを傾けるとか?」
「ははははっ。そんなことしちまったら」。隣の男の足下を指差してみせた、カウンターの端には溝と同素材の管が下がっていた。
「変なもん海に注いじまったらイケねえや」
男は言葉に釣られて海を振り返る。
VOOOOOOOOOONNN
怒号、付近への落雷のような衝撃。洞窟全体が楽器の如く鳴り渡り肌へと圧が迫るような。花紺青の発光が海面を騒がせていく。
「凄い音だな」
「ああ」
VOOOOOOOOOONNN
VOOOOOOOOOONNN
「サスペンダーの男はどこだ?」
「ん? マッシュルーム・ポテトか……」
「さあ、名前までは知らない。曲芸師だよ、椅子に現れ、消えた」
「舞台袖に逃げちまったのさ、水を飲みにいったんだろう、なにせ汗だくだった」
「……汗だく……には見えなかったぞ」
「……ああ」
VOOOOOOOOOONNN
「何者なんだ、一体……」
「さあな……。水でも飲んでるんだろうよ」
「……ああ」
…………。
二人の男の沈黙と呼び合うようにいつともなく劇場は怒号を失していた。
静寂が流れていた。
スケートリンクを滑るように大股の一歩で三歩分は進んでいるだろう、無音の洞窟の舞台上に突然姿を現したマッシュルーム・ポテトは超速かつ一切の無駄を削いだムーンウォークを決め込んで中央へと瞬く間に移動してしまった。
「はぅ……」。男がカウンターに伏せる間際朧げな呻き声が漏れた、頭頂部から側頭部にかけて頭蓋骨はザックリと裂け、どくどくと勢いよく血液が噴き出していく……自らの粘り気に速度を緩めながらも金属の岩肌の墨流に光沢する黒の上面を滑りながら赤、濡らしては占めていく、溝に届いて赤、銀を染めては勾配を下りて。下方にごぼごぼとくぐもった音。
隣の男の相貌すでに底方無く奥まった墨流の峡谷で。
なだらかな形状ながら張りついた体躯は押されて歪んだ、金属質の凹凸、裏側より体躯を圧迫されている。男は峡谷の岩肌に張りついて動くことはなくて。仰向けでやや首を起こした状態、体躯の後方にベタリと吸いついた墨流の肌。
伏せたまま見つめる前方は果てしない闇、青ざめ首を荒く逆側へ振った、かなりの高所から光が差し込んで。鮮やかに花紺青は明滅を入り乱せて強烈な星空のように降り注いだ。
岩山が岩漿を噴き出している。引きの焦点へ向かわせようやく全貌が見え始めた。巨大な金髪をもじゃりと生やした火山は巨大化した男自身の屍だった。完全に血の気は引いて取り乱し立ちあがる、刹那、岩肌の引力から解放され代わりに闇に引きずられ消えてしまった…………
誰もいないテーブル、無人のゴンドラは揺蕩いに激しく揺れている。ステージからコメディアンは消えていた、ただ、中央をマッシュルーム・ポテトが陣取っているだけで。
カウンターには相変わらず峡谷の相貌の男が掛けていて頭から溢れる大量の血液男に首を向けている。褐色であるがゆえに色調は似ているが、しかし隣の男の首の肉と水銀朱と白の墨流の紋様を顕現させた金属の境界は異様だ。肉質と金属質とを見事に融合させて継ぎ目は非常に曖昧だった。福寿草青に染められた絹のシャツの襟はシュールな首元を取り囲み苺色のタイがするりと臍の辺りに滑り落ちている。左の手首には金の腕時計、右の手首には正円の半球に精細にカットされた、水晶の滴一杯に孔雀の羽の斑点を溶けこませかき混ぜて出来たような複雑な幾何学模様の、オパールの極彩色の煌めきを等間隔に埋め込んだ白金のブレスレットが下がっており、高貴な色彩と光輝が黒に引き立てられて両腕は天板へと乗っていた。左右の人差し指が交互に、秒針のリズムを刻むように天板を叩く。
KOOOOOOOOOON
上下に波打ちながら移動していた無人のゴンドラが小島の側面を叩いた。弾かれた舳先への衝撃とは無関係に不自然に小島からは向こう向きへと真っ直ぐに平行移動で引きずられていきゴンドラの全長ほど進んだ、ようやく弾かれた舳先からふらりと、やがてクルクル時計回りに回転を始めていき、木製の大きな三日月型はやがて独楽のような高速になって美しい筋が浮き出るほどだった。激しい攪拌はゴンドラの周縁に波紋を広げていき、幾度も生起する伝播に生滅していく同心円状の輪の各々を花紺青の明滅が一際慌ただしく染めていた。
KOOOOOOOOOON
再び。今度は逆の小島へとぶつかって飛沫が高く舞い、舷を包むように花紺青の膜が生滅した。
凪いでいる、海面は嘘のように平らかに整い、明滅は徒に湧き起こる程度にほとんど静まっていた。
静寂のなか、天板を叩く峡谷の相貌をした男の指だけが正確なリズムで乾いた音色を洞窟に響かせて。
人体模型のようにじっと動かぬマッシュルーム・ポテトが、灼熱の砂漠の生物のような忍耐強さで、体躯各々の部位に向けじりじりと遅緩な動作を与えていく。七分に腕まくりされた白シャツ、黒のサスペンダー、灰色のスリムなカーゴパンツ、栗色の羽根革靴。それ以外の装飾はなにもなく、メイクどころか整髪料すら。芸がなければなんの変哲もない男で。
スローモーション、あり得ない角度や姿勢へと傾いて、ターンテーブルに乗るようにじわじわ回転していた。一回転。直後素早い動きで直立し、即座に両腕をピンと外向けに伸ばしてTの字を作る。
開き気味の口元はギリギリ間が抜けてはいないラインか、顔の筋肉を完全に掌握して全く不変の表情のまま目をつぶることさえない、全身は凍りついたように……。スローモーション、奇抜な振り付け、ストップモーション、いずれをとっても彼が一流のダンサーであることは一目瞭然だ。
しんと静まった洞窟の劇場、指の音だけが顕著だ、ときおり明滅する花紺青が数少ない変化で、Tの字は微動だにせず。
ふいに表情がほぐれる。マッシュルーム・ポテトはゆっくりと、驚きの表情へ、脈打つ右の手首、もう一度脈打って手首は腕を伝い肩から隣の肩、そして各部位を伝い向こう岸の指先まで、瞬く間の滑らかなうねりがピンと張られた左右へともたらされて。再び時を止める……そして突如モーションが放たれて。右から左へ伝ううねりが2度、直後左から右への復路が1度うねって戻される、これも一瞬で。
さらに再び…………
堰を切って。早くも、遅くもなく、ハンドウェーブ右から左へ、左から右へ、驚いた表情に固定されたまま、延々、単調に繰り返されていくばかりとなって。
峡谷の相貌をした男は相も変わらず左右を交互に正確なリズムで打ちつけ続け、これまた単調で。
しつこいくらいの長い出来事で。
急にピタリと動かなくなったマッシュルーム・ポテト、峡谷の相貌をした男の人差し指も同様にピタリと停止した。
完全な沈黙が洞窟の劇場に。
WOOOOOOSH
マッシュルーム・ポテトの全身を濃い灰色の煙が包み、霧散した時すでに彼は消えていた。
WOOOOOOSH
カウンター。峡谷の相貌の男もまた、濃い煙となって劇場から姿をくらました。
ざっくりと頭蓋骨を開いた男の屍だけ残された。
銀を下りて赤い血が海中へと溶けていく……花紺青の明滅が電撃の如くけたたましく沸き上がり、血の赤と墨流に混ざり合って…………