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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
# 第1章:学院の秘密と心核漏出(ハートブリード)

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第4節:陰謀の全容

## 第4節:陰謀の全容



 それから数日、三人は密かに調査を進めた。


 マルクスは学院中央魔導書庫の管理室に籠り、エリカとリブシェは日常を装いながら情報を集めた。レティシアの行動、取り巻きたちの動き、そして学院内で起きている不審な出来事——すべてを記録し、突き合わせていく。


 調査の中で、ある事実が浮かび上がった。


 レティシアが、学院の外で誰かと接触している。


 それも一度や二度ではない。定期的に、人目を避けるようにして。



 ある夕暮れ時。


 マルクスは、新市街の大通りを歩いていた。


 質素なローブの上に、目立たぬ灰色の外套を羽織っている。旧市街の職人か、引退した魔法使いにでも見えるだろう。長年の経験が、彼にそうした術を身につけさせていた。


 石畳の道に長い影が伸びる。春とはいえ、日が落ちれば肌寒い。


 前方に——レティシアの姿があった。


 侯爵令嬢らしく、堂々と大通りを歩いている。いつもの取り巻きはいないが、その足取りには迷いがない。絹のドレスが夕日に輝き、すれ違う市民たちが道を譲っていく。


 マルクスは、三十歩ほど後ろを保ちながら、さりげなく後を追った。



 首都アルカ——アルカ川が市街地を南北に流れ、川には五つの石造りの橋が架かる。丘の上には壮麗なアルカ城塞が聳え、連邦政府と魔法研究院の本拠地となっている。


 レティシアは、新市街の目抜き通りを抜け、川沿いの道へと向かっていた。


 その先には、アルカで最も古く美しい橋——「聖者の橋」が架かっている。


 春の夕暮れ、川面が茜色に染まっている。対岸には城塞区の高い塔が聳え、その輪郭が夕日に浮かび上がっていた。


 レティシアは、橋のたもとにある建物へと入っていった。


 ——「黄金の白鳥(ウ・ズラテー・ラブチェ)」。


 聖者の橋を望む一等地に建つ、高級カフェだ。貴族や裕福な商人たちが集う社交場として知られている。テラス席からは橋と川、そして対岸の城塞区が一望できる。


(なるほど——ここか)


 マルクスは、少し離れた場所で足を止めた。


 カフェの入口には、燕尾服の給仕が立っている。一見の客が気軽に入れる店ではない。


 だが——マルクスには、別の方法があった。



 カフェの隣には、古い書店があった。


 店先には、埃を被った古書が山と積まれている。マルクスはその店に入り、窓際の棚で本を物色するふりをした。


 窓からは、「黄金の白鳥」のテラス席が見える。


 レティシアは、川に面したテラスの一角に座っていた。白いパラソルの下、優雅にティーカップを傾けている。いかにも、夕暮れのひとときを楽しむ令嬢——そう見えた。


 だが、マルクスの目は、別のものを捉えていた。


 レティシアの背後——ひとつ後ろのテーブルに、一人の男が座っている。


 黒髪を短く整え、地味な服装に身を包んでいる。古物商か、あるいは旅の商人に見えなくもない。顔立ちは整っているが、どこか印象に残らない——意図的にそうしているのだろう。目立たぬよう、記憶に残らぬよう。


 二人は、背中合わせに座っていた。


 一見、何の関係もない客同士に見える。


 だが——マルクスは見逃さなかった。


 レティシアの唇が、かすかに動いている。声は聞こえない。だが、何かを囁いているのは明らかだった。


 男も、本を読むふりをしながら、小さく頷いている。


 背中合わせのまま、会話を交わしているのだ。


 マルクスは、古書を手に取りながら観察を続けた。


 やがて——レティシアが、椅子の脇に置いていた革のハンドバッグを、さりげなく後ろへ押しやった。


 男が、自分の足元に置いていた同じような革鞄を、前方へ——レティシアの椅子の方へ滑らせる。


 ほんの一瞬の動作だった。


 給仕が通りかかり、視界を遮る。その間に、二人の鞄は入れ替わっていた。


 レティシアは何事もなかったかのように、新しい鞄を椅子の脇に置いた。


 男は、レティシアの鞄を足元に引き寄せた。中身は何だろう。金貨か、それとも——盗み取った情報を記録した転写水晶か。あるいは、その両方か。


(やはり——か)


 マルクスの目が、鋭くなった。


 疑惑が、確信に変わった。レティシア嬢は、表立ってはできない取引に手を染めている。あの男が、情報漏洩の糸を引いている人物に違いない。


 周囲の客は誰も気づいていない。二人が知り合いだとすら思っていないだろう。


 しばらくして、男が先に席を立った。


 本を小脇に抱え、何食わぬ顔でカフェを出ていく。足元の革鞄は、自然な動作で持ち上げられていた。


 レティシアは、まだティーを楽しんでいる。


 マルクスは、一瞬迷った。


 レティシアを追うか、男を追うか。


 ——男だ。


 レティシアは学院に戻るだろう。だが、あの男の正体を突き止めなければならない。


 マルクスは古書を棚に戻し、静かに書店を出た。


 男は、聖者の橋を渡り始めていた。



 聖者の橋は、アルカの象徴とも言える石造りの橋だった。


 全長は三百歩ほど。欄干には、歴代の聖人や英雄の石像が並んでいる。夕暮れ時ともなれば、橋の上を散策する市民や、絵を描く画家、恋人たちの姿が見られる。


 マルクスは、二十歩ほど後ろを保ちながら、橋を渡った。


 夕日が川面を照らし、橋全体が黄金色に輝いている。観光客や散策者の姿があり、怪しまれることはなかった。


 男は、迷いなく橋を渡っていく。何度も通った道なのだろう。



 対岸は、城塞区に近い高台になっていた。


 石段を上ると、古い教会の尖塔が見える。その向こうには、アルカ城塞の壮麗な姿が聳えていた。


 男は、迷いなく石段を上っていく。


 マルクスは、二十歩ほど後ろを保ちながら追った。


 高台の道は狭く、入り組んでいた。古い貴族の邸宅や、歴史ある商会の建物が並んでいる。かつては城塞に仕える者たちが住んでいた地区だ。今は裕福な商人や引退した役人が暮らしている。


 男は、その一角にある古い建物の前で立ち止まった。


 三階建ての石造りの建物。看板には「金の鍵亭(ウ・ズラテーホ・クリーチェ)」古美術商と記されている。


(古美術商——か)


 マルクスは、路地の影から建物を観察した。


 一階は店舗になっているようだ。窓には厚いカーテンが引かれ、中の様子は窺えない。二階と三階の窓には明かりが灯っている。


 男は店の表口ではなく、建物の脇にある細い路地へと消えていった。


 裏口だろう。


 マルクスは、それ以上追うことはしなかった。


 今日はここまでだ。相手の拠点は押さえた。これ以上深追いすれば、こちらの存在を気取られる恐れがある。


 マルクスは、踵を返した。


 城塞の高台から、緩やかな坂道を下る。やがて、古い教会の鐘楼が見えてきた。城塞の麓——古い貴族屋敷や役所が立ち並ぶ界隈だ。


 古い居酒屋の看板が、夕暮れの風に揺れていた。


 「黒猫亭(ウ・チェルネー・コチュキ)」——古い木の看板に、黒猫の絵が描かれている。城塞の麓でも古い部類に入る居酒屋だ。地元の職人や商人が集まる店として知られている。


 マルクスは、店の中に入った。



 「黒猫亭」の店内は、夕方の穏やかな喧騒に包まれていた。


 天井は低く、梁が剥き出しになっている。壁には古い絵や狩猟の道具が飾られ、年季の入った木製のテーブルが所狭しと並んでいた。


 マルクスは、窓際の席に腰を下ろした。


 初老の給仕が近づいてくる。顔に刻まれた皺と、すり減った革靴。長年この店で働いてきたのだろう。


「何になさいます?」


「アルカの黒を一杯。それと、グリロヴァナー・クロバーサ(焼きソーセージ)を」


 給仕が頷いて去っていく。


 やがて、黒ビールと**グリロヴァナー・クロバーサ**(焼きソーセージ)が運ばれてきた。


挿絵(By みてみん)


 焼きソーセージは悪くない。皮がパリッと香ばしく、中から肉汁が溢れ出る。付け合わせのザワークラウトは程よく酸っぱい。クシェン(西洋わさび)を少し添えると、鼻を抜ける辛みがきりりと引き締まる。ビールによく合う。


 マルクスは、給仕が戻ってきた時、銀貨を一枚、さりげなくテーブルに置いた。


「……これは?」


 給仕が眉を上げる。心付けにしては、少々多い額だ。


「この辺りは初めてでね。少し教えてもらいたいことがある」


 マルクスは穏やかに微笑んだ。


「旅の者でしてな。古物商をやっている。この辺りに良い店があると聞いたのだが——坂の上の、古美術商。『金の鍵亭』とか」


 給仕の表情が、わずかに曇った。


「……ああ、あの店ですか」


「何か問題でも?」


 給仕は周囲を見回し、声を潜めた。


「あの店の主人、外国人でしてね。グレゴールとかいう名前だそうで。悪い噂は聞きませんが……」


「だが?」


「妙な客が多いんですよ。夜中に出入りする連中とか。それに——」


 給仕は言葉を切り、銀貨をそっとポケットにしまった。


「偉い方々が、時々お見えになるそうで」


「偉い方々?」


「城塞区の……その、あまり詳しくは。ただ、馬車で乗り付けてくる紳士がいるとか」


 マルクスは頷いた。


「なるほど。ありがとう。美味い飯だった」


 給仕は一礼して去っていった。


(城塞区の偉い方——か)


 マルクスは、ビールを飲み干した。


 まだ、点と点だ。線で繋がっていない。


 だが——糸口は掴めた。



 翌日から、マルクスは本格的な調査を開始した。


 学院での講師の仕事を終えると、城塞の麓を歩き回り、「金の鍵亭」周辺の様子を観察した。


 高台の古美術商は、表向きは普通の店だった。古い魔導書や魔法道具、美術品を扱っている。客も時折訪れ、商売は順調に見える。


 だが——裏では、別の商売が行われているようだった。


 マルクスは、店の周辺を何度も観察し、出入りする人物を記録した。


 深夜に訪れる怪しげな客。頭巾を被った人物たち。重そうな荷物を運び込む男たち。


 そして——数日の観察で、あるパターンが見えてきた。


 グレゴールは、週に一度、城下街の高級店へ向かう。


 決まって、日没の刻。



 その高級店は、城下街の一角にあった。


 「銀の鈴亭(ウ・ストジーブルネーホ・ズヴォンク)」——城塞に仕える高官や、裕福な商人が集う店だ。重厚な石造りの建物。磨き上げられた窓ガラス。店先には、魔法の照明が上品な光を放っている。


 一般人が気軽に立ち寄れる場所ではない。


 マルクスは、店の向かいにある古い建物の陰から、しばらく観察を続けた。


 やがて——グレゴールが姿を現した。


 そして、店の中へ入っていく。


 しばらくして、一台の馬車が店の前に止まった。


 降りてきたのは、初老の紳士だ。仕立ての良い上着。銀色の髪を後ろに撫でつけている。どこかで見た顔だ——


(あれは——)


 マルクスの目が細くなった。


 ヘルムート・フォン・ブレンナー公爵。元老院の重鎮であり、民会が押して選出された首席代表ズデニェク・ノヴァークの政敵として知られている男だ。


(なぜ、あの男がグレゴールと……)


 二人の関係を確かめなければならない。


 だが、あの店に入るのは難しい。一見の客が入れる場所ではない。


 マルクスは、しばらく考えた。


 そして——ある策を思いついた。



 翌日の夕方。


 マルクスは、「銀の鈴亭」の前を通りかかった。


 くたびれた旅装。肩には、使い込まれた道具袋。どこから見ても、流れの修理職人だ。


 店の前で立ち止まり、軒先の照明魔道具を見上げた。


 上品な細工の燭台型照明。魔力石を使った、高級品だ。


 マルクスは、懐から小さな焦点具を取り出した。


 ほんの一瞬——術式が発動する。


 照明魔道具の魔力回路に、微細な乱れを送り込む。


 明かりが、ちらちらと瞬き始めた。


 やがて——ぷつん、と消えた。


 店の扉が開き、店員らしき若い男が出てきた。


「おや、照明が……」


「どうかされましたかな」


 マルクスが声をかける。


「ああ、旅のお方。この照明が急に……」


「魔道具の修理なら、少し心得がありますが」


 店員の顔が明るくなった。


「本当ですか? 助かります。実は今夜、大事なお客様がお見えになる予定で……」


 マルクスは道具袋を開き、照明魔道具を「調べる」ふりをした。しかし実際には店で使われている他の魔道具を確認している。最後に自分で仕込んだ乱れを解除した。


「ふむ……魔力石の接触不良ですな。よくあることです」


 数分の「作業」の後、照明が再び灯った。


「おお、直りましたか! ありがとうございます」


「いやいや、大したことではない」


 マルクスは、謝礼を渡そうとする店員を断りながら、さりげなく尋ねた。


「大事なお客様とおっしゃいましたな。この辺りは、偉い方々が多いのですかな」


「ええ、まあ……城塞区ですからね」


 店員は、少し得意げに胸を張った。


「元老院議員の方も、よくお見えになりますよ。今夜も、いつものお客様とお食事の予定で」


「ほう。いつものお客様?」


「ええ。外国の古美術商の方です。東方渡りの良いものが手に入ったとか」


「なるほど。では、また何かあれば声をかけてくだされ」


「ありがとうございます。お名前は?」


「流れの修理屋ですからな。名乗るほどの者ではありませんよ」


 マルクスは穏やかに笑い、その場を去った。




 その夜。


 マルクスは再び「銀の鈴亭」の近くにいた。


 店から少し離れた路地の影。そこから、店の様子を窺っている。


 ただ見ているだけではない。


 マルクスは、懐からワンド(焦点具)と小さな魔導書を取り出した。


 OSL——大陸標準の秘匿通信スキル。その脆弱性「心核漏出ハートブリード」は、通信だけでなく、OSLを使用しているあらゆる魔道具に影響を及ぼす。


 店で使われている、店員呼びの魔道具。客が店員を呼び出すときに用いるありふれた道具だ。


 だが——この呼び鈴も、OSLで保護され接続されている。店内の他の魔道具と連携するためだ。


 マルクスは、小さく息を吐いた。


 自分が発見した脆弱性を、自分が悪用する。皮肉なものだ。


 だが——今は、それしか方法がない。


 ワンド(焦点具)を構え、術式を発動する。


 ハートブリード。OSLの欠陥を突き、本来見えないはずの情報を覗き見る技法。


 呼び鈴の魔道具を経由して、店内の音が——マルクスの耳に届き始めた。



 いくつかの呼び鈴の魔道具を乗っ取り、その中から、ようやく目的の声を探し出す。


「——学院での実験は順調だ。この脆弱性は、予想以上に使える」


 グレゴールの声だ。


「どれくらいの情報が盗めた?」


 別の声。低く、威圧的な声だ。


「学生の研究論文、教師の私信、試験問題——あらゆるものだ。OSLを使っている限り、すべてが筒抜けになる」


「素晴らしい。次は行政機関だな」


「ああ。アルカ城塞内部の通信システムも、同じOSLを使っている。脆弱性を突けば——」


「連邦の機密情報も手に入る」


 低い笑い声が響いた。


「それだけではない」


 グレゴールの声が続く。


「学院の研究成果も、いくつか目をつけている。特に——『軽量スキルセット・フレームワーク』という研究が面白い」


 マルクスの目が、鋭くなった。


「軽量スキルセット?」


「古い焦点具や魔導書でも動く軽量なスキル体系だ。開発したのは貧乏貴族の学生二人だが——これを闇市場で売れば、相当な金になる」


「なるほど。高い装備を買えない魔法使いは山ほどいるからな」


「そういうことだ。正規のルートでは手に入らない技術を、我々が提供する」


 低い笑い声が、再び響いた。


 マルクスは、静かに拳を握りしめた。


(エリカたちの研究を……)


 怒りが、腹の底から湧き上がってくる。


 だが——今は抑えなければならない。


 マルクスは、さらに耳を澄ませた。


「レティシアという学生は、まだ使えるか?」


「ああ。あの娘は単純だ。少し煽ててやれば、何でもやる」


「使い捨てにできるな」


「もちろんだ。脆弱性が発覚しても、すべてあの娘のせいにすればいい。我々の手は汚れない。クラウゼンベルク侯爵には悪いがな」


 冷たい笑い声が響いた。


 マルクスは、十分な情報を得たと判断した。


 静かに、その場を離れる。


 ——証拠は揃った。


 あとは、この陰謀を暴くだけだ。



 翌日。


 マルクスは、学院の管理室でエリカとリブシェに調査結果を報告した。


 机上に、調査資料が広げられていた。エリカとリブシェが、その向かいに座っている。


「まず、全体像を説明します」


 マルクスは、資料の一枚を示した。


「今回の事件には、三人の人物が関わっている。それぞれ目的が異なる」



「一人目——グレゴール・シャドウ」


 マルクスの灰色の瞳が、冷たく光った。


「闇情報を扱う魔法商会の代理人です。表向きは古物商として各地を回っていますが、裏では——盗まれた研究成果、機密情報、時には禁術の売買まで手がけている」


 エリカの顔から血の気が引いた。


「そんな人間が、学院に……」


「グレゴールの目的は二つ。一つは、OSL脆弱性『心核漏出ハートブリード』を使った情報窃取だ。学院はその実験場テストケースに過ぎない。ここで成功すれば、次は行政機関、商会、ギルド——やがては連邦全体に手を広げる計画だ」


 マルクスは指を一本立てた。


「もう一つは——君たちの研究だ」


 リブシェが息を呑んだ。


「『軽量スキルセット・フレームワーク』。古い焦点具でも動く軽量なスキル体系。正規のルートで売れば、多くの人を救える技術だ。だが、グレゴールはこれを闇市場で売りさばく計画を進めていた」


「私たちのライブラリを……」


「高い装備を買えない魔法使いは山ほどいる。そこに目をつけたんだ」



「二人目——ヘルムート・フォン・ブレンナー公爵」


 エリカが眉をひそめた。


「元老院の重鎮ですよね。なぜそんな人が……」


「ブレンナーは、現首席代表ズデニェク・ノヴァークの政敵だ。ズデニェクは平民出身、民会の支持を受けて首席代表に選ばれた。元老院の貴族たちにとっては、目の上のたんこぶというわけだ」


 マルクスは苦い表情を浮かべた。


「ブレンナーの目的は、政敵の情報を握ること。グレゴールから機密情報を買い、ズデニェク代表を失脚させようとしている。OSL脆弱性の被害が広がろうと、知ったことではないのだろう」



「三人目——レティシア・フォン・クラウゼンベルク」


 マルクスの声に、わずかな憐憫が混じった。


「彼女は——グレゴールにとってもブレンナーにとっても、使い捨ての駒に過ぎない」


 リブシェが眉をひそめた。


「どういうことですか?」


「グレゴールにとって、レティシア嬢は脆弱性の『評価者』だ。学院でどれだけの情報が盗めるか、どんな種類のデータが漏洩するか——それを試す実験台として利用している」


 マルクスは指を折った。


「ブレンナーにとっては、学院の情報網への入口だ。レティシア嬢は侯爵令嬢として学院内で顔が利く。彼女を通じて、学院関係者の弱みや機密を集めているのだろう。政敵を攻撃する材料としてな」


「でも、レティシアは自分が利用されているって……」


「おそらく、分かっていない。レティシアの実家、クラウゼンベルク侯爵家の現当主の妻は、ブレンナー公爵家の出身だ。親戚筋のブレンナーが、グレゴールを紹介したのだろう」


 マルクスは椅子に腰を下ろした。


「レティシア嬢自身の目的は、他の学生より優位に立つこと。ただそれだけだ。承認欲求——認められたいという願望。グレゴールは、それを巧みに利用した」


「『心核漏出ハートブリード』の悪用術式を渡して……」


「ええ。彼女は喜んで使った。他人の研究を盗み、秘密の通信を覗き見る。そうして優位に立てると信じて」


 沈黙が落ちた。


 レティシアの高慢な態度。エリカたちへの陰湿な嫌がらせ。それらすべてが、今は違う色を帯びて見えた。


「脆弱性が発覚すれば、すべてレティシア嬢のせいにされる。グレゴールもブレンナーも、手は汚れない」


 エリカの拳が、白くなるほど握りしめられた。


「許せない」


 その声には、静かな怒りが滲んでいた。


 悪用された研究。利用される令嬢。そして、すべてを操る闇商人と政治家——


 彼女もまた——犠牲者の一人なのかもしれない。



「学院長や教師たちに報告すべきでは?」


 エリカが提案した。


 だが、マルクスは静かに首を振った。


「すでに学院長には話を通しています」


 マルクスは頷いた。


「フリードリヒ学院長は、私の調査結果を信じてくれた。だが——」


 苦い表情が浮かんだ。


「今の証拠だけでは、元老院や連邦当局を動かせない。『OSLは大陸標準規格だ。テレパシア社が管理している。そんな重大な欠陥があるはずがない』——そう言われて終わりだ」


 リブシェが声を上げた。


「そんな……! 先生の調査結果を見せても?」


「見せたところで、握りつぶされる可能性が高い。何しろ相手はブレンナー公爵だ。元老院の重鎮を告発するには、言い逃れできないほどの決定的な証拠が必要になる」


 マルクスは肩をすくめた。


「学院長も同じ認識だ。下手に動けば、逆に口封じされかねない」


 エリカは唇を噛んだ。


 『標準スキルだから安全』——その思い込みは、想像以上に根深い。それは自分たちも同じだった。OSLを疑うなど、考えたこともなかった。みんなが使っているから。テレパシア社が作ったから。それだけの理由で、中身を見ようともしなかった。


「だからこそ——」


 マルクスの声が、静かに響いた。


「決定的な証拠を集めて、一気に暴く必要がある」


「私たちも手伝います」


 エリカが、真っ直ぐにマルクスを見つめた。


「手伝う、とは?」


「レティシアとグレゴールを追い詰めるのを。先生一人では大変でしょう」


 マルクスの表情が、険しくなった。


「危険です。相手は闇魔法商人だ。学生が関わるべきことではない」


「でも——」


 リブシェが立ち上がった。


「このままじゃ、みんなが被害に遭います。学院だけじゃない、連邦中の人たちが」


「それに——」


 エリカも立ち上がった。


「私たちこそ、当事者です。研究を盗まれて、悪用されようとしている。黙って見ているなんて、できません」


 マルクスは、二人の顔を見つめた。


 若い瞳に宿る決意。恐れはあるだろう。だが、それを押し殺して立ち向かおうとしている。


「私たちの研究は——」


 リブシェの声が、静かに響いた。


「貧しくても魔法を使いたい人のために始めました。高い装備が買えなくても、工夫次第で戦える。そういう世界を作りたくて」


「それを悪用なんて、させません」


 エリカの声にも、揺るぎない決意があった。


 マルクスは、しばらく黙っていた。


 やがて——静かに息を吐いた。


「……分かりました」


 二人の目が、輝いた。


「ただし、条件がある」


 マルクスの声が、厳しくなった。


「私の指示に従ってください。絶対に、無理はしないこと。危険を感じたら、すぐに引く。約束できますか」


「はい」


 エリカとリブシェが、同時に頷いた。


 マルクスは、わずかに口元を緩めた。


「では——今夜、私の宿に来てください。作戦を説明します」


 夕暮れ時。


 マルクスが借りている宿は、学院から少し離れた通りにあった。新市街の外れ、職人街に近い静かな地区だ。古い石造りの建物で、一階は小さな食堂になっている。二階に数部屋の客室があり、マルクスはそのうちの一室を借りていた。本来の住居は旧市街にあるが、学院での仕事の間はここを拠点にしている。


 窓からは、夕日に染まるアルカの街並みが見える。赤い屋根が連なり、遠くにはアルカ川と聖者の橋、そしてその向こうに聳えるアルカ城塞の輪郭が浮かんでいた。


 エリカとリブシェが部屋に入ると、意外な光景が広がっていた。


 質素な部屋の中央に、食卓が据えられている。その上には——湯気を立てる料理が並んでいた。


「お二人とも、まだ夕食は?」


 マルクスが、エプロン姿で調理台の前に立っていた。


「え、あの……先生が作ったんですか?」


 エリカが目を丸くした。


「ああ。重要な話の前には、まず腹ごしらえだ」


 マルクスは手際よく皿を並べていく。


 牛肉のステーキ。こんがりと焼き色がついた、分厚い肉だ。その隣には、黄金色に焼き上がったポテトのパンケーキ——ブランボラークが山盛りになっている。


「この肉は安物でね。普通に焼いたら硬くて食べられない」


 マルクスが説明した。


「だから、低温で長時間加熱した。五十八度で六時間。繊維が壊れずに、柔らかく仕上がる」


 エリカは、切り分けられた肉を一口、口に運んだ。


 ——柔らかい。


 硬いはずの安物の肉が、舌の上でほろりと崩れた。噛むたびに、じわりと肉汁が染み出してくる。塩と胡椒だけのシンプルな味付けが、肉本来の旨味を引き立てていた。


「こんなに美味しいお肉……」


 思わず声が漏れた。


「魔法で、こんなことができるんですね」


「温度管理の術式を料理に応用しているんですか?」


 リブシェが、興味深そうに尋ねた。


「そうです。戦闘魔法より、こういう使い方の方が好きでね」


 マルクスは穏やかに微笑んだ。


「魔法は戦いのためだけじゃない。人を幸せにするためにもある」


 ブランボラークを一つ、つまむ。外はカリカリ、中はもっちり。じゃがいもの甘みと、ほのかなニンニクの香りが口いっぱいに広がった。


「先生は……」


 エリカが、静かに言った。


「最小のリソースで、最大の効果を出すんですね」


 安い肉を、魔法と知識で美味しく仕上げる。高価な材料や複雑な調理器具がなくても、工夫次第でここまでできる。


「私たちの軽量ライブラリも、同じ考え方ですね」


 リブシェが、嬉しそうに言った。


「高い焦点具や最新の魔導書がなくても、工夫すれば戦える。先生の料理と、根っこは同じだ」


 マルクスは、穏やかに頷いた。


「だからこそ、君たちの研究を守りたいと思う」


 窓の外では、夕日が街並みを茜色に染めていた。聖者の橋の上を、家路を急ぐ人々の影が行き交っている。


 三人は食事を終え、テーブルの上を片付けた。


 そして——本題に入る。



「さて」


 マルクスが、真剣な表情で二人を見た。


「レティシア嬢とその黒幕を追い詰める方法だが——」


 エリカとリブシェが、姿勢を正した。


「まず君たちには、いつも通り秘匿通信で研究の話をしてもらう」


「いつも通り……?」


「ただし、内容は——」


 マルクスが、声を低くした。


 エリカとリブシェは、食い入るように聞いていた。時折頷き、時折驚いた表情を浮かべながら。


 窓の外で、夕日が沈んでいく。アルカ川の川面が、最後の光を反射して金色に輝いた。やがてその光も消え、街に明かりが灯り始めた。


 部屋にも明かりが灯り、三人の影が壁に映った。


 話し合いは、夜遅くまで続いた。


 マルクスの作戦は周到だった。エリカとリブシェは何度も頷き、質問し、確認していた。


 すべてを理解したとき——二人の目には、静かな決意が宿っていた。


「先生」


 エリカが言った。


「必ず、成功させましょう」


「私たちの研究は、奪われないし、悪用もさせない」


 リブシェも力強く頷いた。


 マルクスは、二人の顔を見つめた。


 若さと情熱。そして、確かな覚悟。


「……ああ」


 静かに、だが確信を込めて答えた。


「必ず」


 窓の外では、春の夜空に星が瞬き始めていた。アルカ城塞の塔に、夜警の明かりが灯る。聖者の橋の上には、恋人たちの影が寄り添っている。


 美しい夜だった。


 だが、その美しさの裏で、陰謀は静かに進行している。


 嵐の前の静けさ——だが、三人の心には、揺るぎない決意が灯っていた。


(第4節 了)


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