第2節:小さな嫌がらせと情報漏洩の疑い
数日後。
学院の大図書館は、午後の静けさに包まれていた。
高い天井。壁一面を覆う書架。古い羊皮紙による魔法書や魔導書のインクが混じり合った、独特の匂い。そして図書館の奥——「学院中央魔導書庫」への接続ブースが並ぶ一角に、エリカとリブシェの姿があった。
魔導書庫とは大容量魔導書を複数内包する大型の魔道具である。本来、個人が持ち歩く事のできる魔導書には容量に限界がありるため、この書庫にアーカイブして必要なときに魔導書に読み込み利用するためのものだ。
だが、魔法陣や呪文以外でもレポートや文書なども保存可能なため、魔法使いを支える重要なインフラとして整備される運びとなった。
学院中央魔導書庫は学院が管理する巨大な魔法情報保管機構だ。学生支援のために魔導書のアーカイブ。OS魔法陣共有。学院の学生は、自分に割り当てられた領域に研究成果を保存することもできた。容量の少ない魔導書しか持てないエリカにはありがたい存在だ。
さらに、各地の学術機関や魔法ギルドと接続され、研究データや魔導書の写本が集積されている。
据え付けられた転送専用焦点具と自分の魔導書の接続を解除したエリカがつぶやく
「よし、これで第一稿のアップロードは完了ね」
リブシェも魔導書から手を離し、肩の力を抜いた。
「ありがとう、リブシェ。あなたの解析がなければ、ここまで形にならなかったわ」
エリカは隣の親友に微笑みかけた。
二人の共同研究——「古い焦点具や魔導書でも実践可能な軽量スキルセット・フレームワーク」。その第一稿が、ようやく形になったのだ。
学院の魔導書庫のパーソナルスペースへの保存は、OSL(Open Secret Lock)によって自動的に暗号化される。大陸標準規格として広く普及した秘匿通信スキルだ。学生にとっては当たり前の日常作業であり、二人も特に意識することなく手続きを終えた。
「研究発表会は来週だっけ」
「ええ。それまでに、もう少し詰めたいところがあるの」
エリカは手元の羊皮紙を見下ろした。そこには、軽量化のための最適化案がびっしりと書き込まれている。
「でも、まずは一区切り。今夜は少しゆっくり休みましょう」
「そうね」
二人は荷物をまとめ、接続ブースを後にした。
*
同じ頃。
接続ブースから少し離れた閲覧席で、レティシア・フォン・クラウゼンベルクは優雅に魔導書を操作していた。
傍目には、ただ課題に取り組んでいるように見える。だが、彼女の手元——最新鋭の『アストラル・ロッド・モデルX』には、通常の学生が持たない機能が追加されていた。
(通信解析機能……接続中)
レティシアの瞳が、冷たく光る。
この機能を教えてくれたのは、闇魔法商人グレゴール・シャドウだ。表向きは希少な魔法道具を扱う商人だが、裏では情報売買を生業にしている男。レティシアの父——クラウゼンベルク侯爵の「取引相手」の一人でもあった。
(あの貧乏貴族が、中央魔導書庫と通信していたわね)
レティシアは、先日の教室での光景を思い出していた。あの地味な特別講師と、熱心に話し込むエリカの姿。「軽量スキルセット・フレームワーク」という言葉が、耳に残っている。
(古い焦点具でも動く軽量ライブラリ……貧乏人向けの技術なんて、興味はないけれど)
だが、それを「自分の研究成果」として発表すれば、話は別だ。
(グレゴールに教わった『特別な合言葉』(エクスプロイト)……試してみましょうか)
レティシアは、魔導書に向けて密かに術式を起動した。
(来たわ……何か大量の文字が流れ込んでくる)
レティシアの魔導書に、見覚えのない文章が表示された。
「——『軽量スキルセット・フレームワーク 第一稿 エリカ・ダルジェント リブシェ共著』」
瞬間、レティシアの唇が、三日月形に歪んだ。
(これは……あの貧乏貴族の研究論文? なんて間抜け。大切なデータを、こんなに簡単に漏らすなんて)
レティシアは素早く内容を転写し、痕跡を消した。
優雅に席を立ち、図書館を後にする。
その足取りは、獲物を仕留めた捕食者のそれだった。
*
一週間後。学院の研究発表会。
大講堂は、学生や教員で埋め尽くされていた。毎学期恒例の催しだが、今回は優秀な発表には学院長賞が授与されるとあって、例年以上の盛況だ。
「次の発表は、レティシア・フォン・クラウゼンベルク嬢。『古い焦点具における効率化アルゴリズム』です」
司会の声に、会場がざわめいた。侯爵令嬢の発表だ。注目が集まるのは当然だった。
レティシアが壇上に立つ。
白い手袋をした指が、優雅に魔導書を操作する。空中に浮かび上がったのは、美しく整理された図表と術式。
「——このアルゴリズムにより、旧式の焦点具でも最新スキルの七割の効率を実現できます」
流暢な説明。自信に満ちた態度。
会場からは感嘆の声が漏れた。「さすがクラウゼンベルク家」「侯爵令嬢は才能も一流」。
だが——
客席の隅で、エリカは凍りついていた。
「……嘘」
声が、喉に張り付いて出てこない。
壇上に映し出されている図表。術式の構造。最適化の論理。
それは——自分たちが書いた研究と、一字一句同じだった。
「エリカ……あれ、私たちの……」
リブシェが、蒼白な顔で囁く。
「どうして……先日、アーカイブに保存したばかりなのに……」
エリカの手が、椅子の肘掛けを白くなるほど握りしめた。
発表が終わり、拍手が起こる。レティシアは優雅に一礼し、壇上を降りた。
気づけば、エリカは席を立っていた。
「待って」
廊下に出たレティシアを、エリカが呼び止める。
「何かしら、ダルジェント嬢」
レティシアが振り返る。その顔には、勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
「……それは、私たちの研究です」
エリカは、震える声で言った。
「私とリブシェが、何ヶ月もかけて作り上げたもの。あなたに渡した覚えはありません」
「まあ、大胆な言いがかりですこと」
レティシアが扇子で口元を隠し、くすくすと笑う。
「証拠は? 中央魔導書庫のタイムスタンプは、私の方が早いはずよ。だって、私が先に登録したんですもの」
「それは——」
「むしろ、あなたたちこそ、私の研究を盗み見したのではなくて? 貧乏貴族には、他人の成果を横取りする以外に出世の道がないのかしら」
周囲に集まってきた学生たちが、ざわめく。
「クラウゼンベルク様が、そんなことするわけない」
「ダルジェント嬢、言いがかりはみっともないわよ」
レティシアの取り巻きたちが、エリカを冷たい目で見つめる。
「……っ」
エリカは唇を噛んだ。
証拠がない。タイムスタンプは改竄されている。どう訴えても、「侯爵令嬢への嫉妬」としか受け取られないだろう。
「行きましょう、エリカ」
リブシェが、エリカの腕を引いた。
「ここで言い争っても、何も変わらない」
二人は、嘲笑う視線の中を、逃げるように立ち去った。
*
その夜。女子寮、エリカの部屋。
「どうすればいいの……」
エリカは、机に突っ伏していた。
何ヶ月もの努力。夜を徹しての研究。実家の古い魔法書から得た着想。すべてを、あの女に奪われた。
「でも、どうやって……?」
リブシェが、眉を寄せて考え込む。
「私たちがアーカイブに保存したのは、発表の一週間前よ。レティシアのタイムスタンプが先になるなんて、おかしい」
「魔導書庫の内容が盗み見られたのかしら」
エリカが顔を上げる。
「中央魔導書庫に、誰かが侵入して?」
「でも、あそこのセキュリティは連邦でも最高水準のはず。学生風情が破れるとは思えないわ」
「じゃあ、どうやって……」
沈黙が落ちる。
やがて、リブシェが口を開いた。
「とにかく、しばらくは中央魔導書庫を使うのはやめましょう」
「……そうね」
「重要なやり取りは、直接魔導書同士の秘匿通信でする。暗号化された通信なら、途中で盗み見されることはないはずよ」
エリカは頷いた。
二人は、研究の続きを秘匿通信で進めることにした。
*
数日後の深夜。
エリカとリブシェは、それぞれの部屋から秘匿通信で会話していた。
『盗まれた案には、実は欠陥があるの』
エリカの文字が、リブシェの魔導書に浮かび上がる。
『魔力循環の部分よ。あのままだと、長時間使用で効率が落ちる』
『どうすればいいの?』
『三重構造に改良すれば解決するわ。実家の魔法書にヒントがあった』
『さすがエリカ! それなら、もっと良いものが作れるわね』
二人は、深夜まで改良案について話し合った。
誰にも聞かれない、暗号化された通信。安心して、研究の核心に踏み込める——はずだった。
魔導書間の秘匿通信接続維持のため、魔導書の一部が「脈動」している。二人にとってはあまりにも当たり前の光景がそこにはあった。
*
翌日。
研究発表会の追加セッション。
レティシアが再び壇上に立った。
「先日発表した研究に、改良を加えましたので、ご報告いたします」
会場に映し出されたのは——魔力循環を三重構造にする最適化案。
「この改良により、長時間使用でも効率低下が抑えられます」
エリカは、椅子から崩れ落ちそうになった。
「……どうして」
声が震える。
「昨日の夜……誰にも聞かれない通信で、話しただけなのに……」
隣のリブシェも、顔面蒼白だった。
「私たちの部屋に、盗聴魔法が……? いや、でも、通信の中身まで……」
二人は原因が分からなかった。
OSLは大陸標準規格だ。連邦中の魔法使いが、当たり前のように使っている。まさか、それ自体に問題があるなど——夢にも思わない。
ただ、何をしても漏れる。どこにも逃げ場がない。
その絶望だけが、重くのしかかった。
*
それから数週間。
学院内で、奇妙な噂が広まり始めた。
「なあ、聞いたか? ヴァルター先輩の研究、レティシア様に先を越されたらしいぜ」
「俺も聞いた。レポートが、なぜか漏れてるって」
「この前の試験、なぜかレティシア様と取り巻きだけが完璧に対策してたって話もあるぜ」
被害は、エリカたちだけではなかった。
試験情報。研究のアイデア。恋愛の相談まで——あらゆる「秘密」が、なぜか漏洩している。
そして、その恩恵を受けているのは、決まってレティシアとその取り巻きだった。
「おかしいだろ。魔導通信は全部暗号化してるはずなのに」
「教授に相談したけど、『証拠がない』『考えすぎだ』って相手にされなかった」
学生たちの間に、不信感と諦めが広がっていく。
だが、声を上げる者はいなかった。
相手は侯爵令嬢。証拠もない。訴えたところで、潰されるだけだ。
エリカとリブシェもまた、沈黙を強いられていた。
*
同じ頃。学院中央魔導書庫の管理室。
深夜の薄暗い部屋で、マルクス・アッシュベルクは一人、焦点具を魔導書庫本体に接続していた。壁一面を占める巨大な魔道具——学院中央魔導書庫の心臓部だ。
潜入捜査の一環として、学院中央魔導書庫の保守管理を任されている。表向きは「特別講師が魔導書庫の管理も兼任」という体だ。
だが、今夜のマルクスの目は、通常の保守作業を見ているのではなかった。
(また、だ)
マルクスは、友人と作成した調査魔法を起動していた。学内ネットワークを流れる魔法の動作を、高速で記録・分析するスキルだ。
その記録の中に——不自然な挙動があった。
OSLの秘匿通信。接続維持のための「脈動」——接続が生きているかを確認するだけの、単純な処理のはずだ。
だが、その返答データが、時折、異常に大きくなっている。
(おかしい……脈動は『生きている』と返すだけのはず。なぜこんなに大量のデータが……?)
マルクスの灰色の瞳が、鋭く細められた。
原因は分からない。だが、何かがある。長年の経験が、そう告げていた。
(もっと具体的な被害事例が必要だ……)
マルクスは記録を保存し、思案に沈んだ。
*
翌週。
エリカは意を決して、マルクスの研究室を訪ねた。
ノックの音に、「入りなさい」と落ち着いた声が返ってくる。
「失礼します。エリカ・ダルジェントです」
扉を開けると、質素な部屋にマルクスが座っていた。机の上には、古い魔法書と羊皮紙が積み上げられている。その隣には——リブシェの姿もあった。
「リブシェ……先に来てたのね」
「うん。一人で話すより、二人の方がいいと思って」
マルクスが椅子を勧める。
「座りなさい。……話は、リブシェから少し聞いた」
エリカは深呼吸をして、席についた。
「先生、ご相談があるのですが……実は最近、おかしなことが続いていて」
「私たちの研究が……盗まれているんです」
リブシェが言葉を継いだ。
二人は、これまでの経緯を詳しく説明した。
軽量スキルセット・フレームワークの研究。中央魔導書庫への保存。レティシアによる先取り発表。タイムスタンプの改竄。
「それだけなら、物理的な窃盗かもしれません」
エリカが続ける。
「でも、秘匿通信で話した改良案まで、翌日にはレティシアが知っているんです。OSLで秘匿化した通信のはずなのに……」
マルクスは、静かに二人の話を聞いていた。
その灰色の瞳が、わずかに光を帯びる。
「……なるほど」
マルクスが口を開いた。
「それは、偶然ではないかもしれない」
「え?」
「私も、別の角度から調査していたことと、符合する」
マルクスは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「詳しく調べさせてもらえますか。……それと、君たちの研究——軽量ライブラリの設計も、見せてもらえると助かる」
「はい、もちろんです」
エリカは即座に頷いた。
「先生に見ていただけるなら、喜んでお見せします」
マルクスが振り返る。その表情は厳しいが、どこか温かみがあった。
「三人で、調査を進めよう。ただし——」
マルクスの声が、低くなる。
「これは、学院だけの問題ではないかもしれない。慎重に動く必要がある。誰にも口外しないように」
「はい」
「分かりました」
二人は真剣な顔で頷いた。
*
それから数日。
エリカとリブシェは、マルクスの指示のもと、被害状況の整理を進めていた。
夜。学院の大図書館。
閉館間際の静かな閲覧室で、二人は資料を広げていた。
被害を受けた学生たちへの聞き取り。漏洩のタイミング。レティシアの動向。それらを時系列で整理していく。
「パターンが見えてきたわね」
リブシェが囁く。
「秘匿通信を使った直後に、必ず漏洩が起きている」
「ということは、やっぱり通信自体が……」
二人が顔を見合わせた、その時だった。
「遅くまで、ご苦労様」
低い声。
振り返ると、マルクスが立っていた。その手には、湯気を立てるカップと、包みが握られている。
「先生……」
「これを」
マルクスが、二人の前にカップと包みを置いた。
カップの中身は、温かいグヤーシュスープだ。濃厚な牛肉と野菜の香りが、疲れた体に染み渡る。包みの中には、焼きたてのパンが入っていた。
「夜遅くまで大変ですね。体を壊しますよ」
「ありがとうございます……」
エリカは、カップを両手で包み込んだ。温もりが、冷えた指先に伝わる。
「先生も、調査で遅くまで……」
「私は慣れている。若い君たちは、無理をしすぎないことだ」
マルクスが、二人の向かいに座った。
リブシェがスープを一口飲み、ほうっと息をついた。
「……美味しい」
「私たちの研究……盗まれたままなんて、悔しくて」
エリカの声が、かすかに震えた。
「何ヶ月もかけて作ったのに。あの人に、全部奪われて。証拠もなくて、誰にも信じてもらえなくて……」
目頭が熱くなる。
マルクスは静かに、二人を見つめていた。
「大丈夫」
その声は、穏やかだが力強かった。
「必ず真相を突き止めます。君たちは、一人じゃない」
エリカは顔を上げた。
「先生……」
「それに、君たちの軽量ライブラリの発想は素晴らしい」
マルクスが、わずかに口元を緩めた。
「盗まれても、その本質を理解しているのは君たちだ。表面だけ真似た者には、決して追いつけない深さがある」
「……はい」
エリカは、涙を拭った。
「ありがとうございます」
温かいスープを飲み干す。玉ねぎの甘みと、パプリカの刺激。牛肉の旨味が、体の芯から力を与えてくれるようだった。
窓の外では、夜風が木々を揺らしている。
真相は、まだ闇の中だ。
だが——今夜、確かに光が見えた気がした。
(第2節 了)
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### 解説:グヤーシュ
グヤーシュ(Guláš)は、パプリカを効かせた牛肉の煮込み料理。
**材料:** 牛肉(すね肉や肩肉)、玉ねぎ、じゃがいも、そして大量のパプリカパウダー。パプリカの赤が、スープ全体を深い赤褐色に染める。
**味わい:** パプリカの芳醇な香りと、長時間煮込んだ牛肉の旨味。玉ねぎの甘みがコクを加え、キャラウェイシードがほのかな清涼感を添える。
**食べ方:** 焼きたてのパンを浸して食べるのが定番。寒い夜や疲れた時に体を温める、庶民の定番料理。




