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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
# 第1章:学院の秘密と心核漏出(ハートブリード)

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第1節:学院の日常と出会い

神詩協定歴4118年、春。


アルカ・ポリス連邦主要国アルカの首都の朝は、まだ冷える。


アルカ総合学院の女子寮、三階の一室。  窓から差し込む光が、余計な装飾のない質素な部屋を切り取っていた。机の上には、昨夜遅くまで読み耽っていた古い魔法書が開かれたままになっている。


 エリカ・ダルジェントは、寝台から身を起こした。  腰まであるプラチナブロンドの髪が、シーツの上をさらりと流れる。  枕元の銀縁眼鏡を手に取り、慣れた手つきでかけた。視界がクリアになるのと同時に、その青緑色の瞳に理知的な光が宿る。  寝起きであっても、背筋はピンと伸びている。スレンダーな肢体に纏う空気は、どこか張り詰めていた。


 エリカは寝台を出ると、何よりも先に机の上の「杖」へと手を伸ばした。  何の変哲もない、オーソドックスな木の杖だ。  今どきの学生が持つような、きらびやかな最新型魔導書対応焦点具ではない。焦点具としては、化石に近い代物と言っていい。  それでも、実家から送られてきた唯一の魔法道具であり、エリカにとっては片時も手放せない相棒だった。


 柔らかい布で、丁寧に拭き上げる。  木目が、朝の光に鈍く艶めいた。手入れは決して怠らない。それが、エリカの流儀だった。


 ダルジェント男爵家は、いわゆる貧乏貴族だ。  実家は借金を抱えている。エリカがこの名門学院に通い続けられるのは、ひとえに奨学金のおかげだ。優秀な成績を維持できなければ、その時点で未来は閉ざされる。


 だから、必死だった。


ノックの音。


「エリカ?起きてる?」


親友リブシェの声だ。


「起きてるわ」


扉が開く。栗色の短い髪、明るい笑顔。平民出身の優秀な学生、リブシェが入ってきた。


「また徹夜してたでしょう」


リブシェが呆れたように笑う。


「...ちょっとだけ」


エリカは素直に認めた。


机の上の魔法書と、羊皮紙に書かれた設計図。二人で進めている共同研究の資料だ。


「でも、見て。昨日の夜、また一つ気づいたことがあるの」


エリカが羊皮紙を指す。


「実家の古い魔法書を読んで気づいたの。古いけどこの魔法陣は無駄がなくて、少ない魔力で動く」


「それをスキルシステムに応用できれば...」


リブシェが目を輝かせる。


「最新の魔導書がなくても、高度な魔法が使えるわね」


二人の研究テーマ——「古い焦点具や魔導書でも実践可能な軽量スキルセットフレームワーク」。


古い道具しか持てない人でも、最新の魔法を使える。そんなフレームワークを作りたい。


それが、二人の願いだった。


「この研究、本当にすごいと思う」


リブシェが言う。


「でも、あんまり無理しないでね。今日も授業あるんだから」


エリカは頷いた。


二人は身支度を整え、学院の食堂へと向かう。



アルカ総合学院。


連邦でも有数の名門校だ。


広大な敷地に、石造りの校舎が並ぶ。魔法陣が刻まれた塔、蔵書数万冊を誇る図書館、最新の魔法道具を備えた実習室。


様々な種族や人種が集まる、実力主義の学院。


貴族も多いが、優秀な平民や留学生も多数在籍している。才能があれば、出自は問わない。それが、この学院の方針だった。


近年、スキルシステム学科が人気を集めている。


スキルシステムが実用化されたのは、およそ四十年前のこと。複数の魔法陣を組み合わせ、魔導書にインストールするだけで高度な魔法を行使できる——その革新的な技術は、魔法の世界を根底から変えると期待された。


しかし、過度な期待は裏切られる。


協定歴4090年代。スキルバブルの崩壊。期待されたほどの汎用性はなく、多くの魔法ギルドが倒産した。魔法技術氷河期と呼ばれた時代だ。


だが、研究は止まらなかった。


氷河期から二十年近く。地道な改良を重ね、スキルシステムは着実に進化した。かつての欠点は克服され、今では実用に耐える主流技術となっている。エリカたち若い世代は、その恩恵を当然のものとして享受していた。氷河期の苦難など、歴史の教科書でしか知らない。


その影響で、スキル依存率は上がる一方だ。


最新の焦点具と高性能な魔導書さえあれば、魔力を扱うコツさえ掴めば高度な魔法を扱える。基礎理論を学ぶ必要など、どこにあるだろうか?


基礎理論学科は「古臭い」と敬遠されがちだ。若い学生たちは、最新のスキルによって実現できる高度な技術に夢中だった。


アルカ総合学院の卒業生は、大手魔法商会(ベンダー)や大規模ギルド(SIer)への就職を目指す者が多い。スキル開発の最前線で働くこと——それが、今の若者にとっての「成功」だった。


食堂へ向かう回廊は、朝の講義を終えた学生たちで溢れかえっていた。

あちこちから漏れ聞こえるのは、最新の流行についての話題だ。


「なぁ、ゼノス商会の新作スキルセット『ブレイズ・バースト v4.0』、もう導入したか?」


「ああ、昨日の夜に魔導書へ突っ込んだよ。あれは最高だ。詠唱プロセスを意識せずに、トリガー一発でドカンだ」


「マジか。俺の環境だと『v3.5』との依存関係が解決しなくてさ」


「古いのは全部アンインストールしちゃえよ。容量の無駄だし。どうせ基礎理論バックエンドなんて、俺たちが知る必要ないんだから」


「違いない」


「それよりも次の魔物討伐実習のために出力あげないと」


彼らは笑い合いながら、魔導書のマニュアルを雑にめくっている。


なぜ炎が出るのか。どうやってマナを変換しているのか。


その「中身」には一切興味を示さず、ただパッケージ化された便利さだけを消費している。腰のホルスターに、そっと手が触れる。そこに収まっているのは、実家で埃を被っていた古い魔導書だ。


使い込まれ、革の表紙は擦り切れている。彼らが「古い」と切り捨てた『v3.5』でさえ、エリカにとっては高嶺の花だった。  


彼女の持つ旧式の魔導書では、その並列展開はおろか、インストールすることさえままならない。無駄に肥大化した最新の術式構造は、この魔導書の貧弱な容量キャパシティを瞬く間に飽和させ、古い杖も魔力のオーバーフローを引き起こしてしまうからだ。


エリカは唇を真一文字に引き結び、視線を足元に落としたまま歩き続けた。彼らの言葉が、まるで自分の存在そのものを否定しているかのように聞こえてくる。


基礎理論は、もう要らない。


そんなはずはないと信じていても、時代の流れは残酷なほど速い。



食堂を出て、講義棟へ向かう回廊の角を曲がった、その時だった。


「あら、ごきげんよう。エリカさん」


甘く、しかし凍てつくような声が、二人の行く手を遮った。


そこには、取り巻きを従えた侯爵令嬢、レティシア・フォン・クラウゼンベルクが立っていた。


豪奢な縦ロールのブロンド。サファイアのような瞳。制服の着こなしひとつとっても、隙がない。だが、何より目を引くのは、その手にあるものだ。白銀の金属と、魔力を増幅する大粒のルミナイト。最新鋭の魔導書対応焦点具——『アストラル・ロッド・モデルX』。南のノヴァ・ステラ勇魔国産のルミナイトを工業国ゴルン=アンヴィルで制作された一級品。その輝きは、エリカの持つ古びた木の杖とは、文字通り次元が違った。


 レティシアは扇子のようにロッドを揺らしながら、エリカの全身を——正確には、その手にある「木の杖」を、値踏みするように見下ろした。


「相変わらず、可愛らしいものをお持ちですこと。……枯れ木、でしたっけ?」


 くすくす、と取り巻きの令嬢たちがさざめく。


「それ、博物館の展示品ではありませんの? 今の時代、そんな『レガシーデバイス』を使っているのは、使用人でも見かけませんわよ」

「…………」

「マナの転送レートも、処理速度も、何もかもが低スペック。そんな骨董品で授業を受けようなんて、他の方々の学習効率スループットを下げると思いませんこと?」


もっともらしい理屈で、尊厳を踏みにじってくる。  彼女にとって、装備の差は人間の価値の差そのものなのだ。


「身の程を知るというのも、貴族の嗜みですわ。貧しい男爵家の方には、少々難しい概念かしら」


レティシアが、わざとらしく溜息をつく。  その瞳に映っているのは、敵意ですらない。道端の石ころを見るような、無関心と侮蔑だ。


エリカの拳が、白くなるほど握りしめられた。言い返したい。道具が全てではないと。工夫次第で、戦えるのだと。だが、今の自分には、それを証明する「結果アウトプット」がない。


「……行きましょう、エリカ」


強張る体を、リブシェが強く引いた。二人は無言で、その場を離れる。 背中に浴びせられる高笑いは、いつまでも耳にこびりついて離れなかった。



教室は、開講を待つ学生たちの熱気と、そこはかとない倦怠感で満ちていた。


「今朝の全校集会、聞いた?」

「ああ、学院長が紹介してた特別講師だろう? 古典魔法理論だってさ」

「退屈な時間になりそうだな」

「単位のために座ってるだけだよ」


エリカとリブシェが席に着くと同時に、チャイムが鳴った。扉が開く。一人の男が入ってきた。


白髪混じりの髪に、中肉中背の体躯。纏っているのは、装飾を極限まで削ぎ落とした質素なローブだ。華美な刺繍も、高価な魔石の飾りもない。ただ、その灰色の瞳だけが、静かな湖面のように教室を見渡していた。


「マルクス・アッシュベルクです」


低く、よく通る声だ。


「今日から、古典魔法理論の特別授業を担当します」


学生たちの間に、失望のさざ波が広がる。


「誰だ?」

「聞いたことない名だな」


 窓際の席で、レティシアが扇子で口元を隠した。


「どうせ、時代遅れの三流魔法使いでしょう。まともなスキルも使えないから、理論にしがみついているのよ」


その囁きは、あえて聞こえるように発せられたものだった。だが、マルクスは眉一つ動かさない。静かに黒板へ向かい、チョークを手に取る。


コツ、コツ、コツ。硬質な音が、静まり返った教室に響く。描かれたのは、一切の歪みがない円と、幾何学的な線。無駄がない。美しい図形だった。


「今日は、魔法陣の基礎構造について話します」


 マルクスが振り返る。


「君たちには申し訳ないが、最新スキルなどは当分出てこないぞ」


 教室の空気が凍りついた。


「は? スキルなし?」

「今どき手書きで魔法を組めって言うのか?」

「ついていけるわけないだろ」


 困惑と反発の声が上がる中、エリカだけが背筋を伸ばし、黒板を凝視していた。


(スキルを使わない……魔法陣の前段階、魔導図形ソースから記述するつもりなの?)


マルクスが、淡々と講義を始める。


「魔法陣の基本は、三つの要素から成り立っている」


チョークが走り、図形に注釈が加えられていく。


「第一に、魔力リソースの割当。第二に、焦点具を使った世界構造への干渉。そして第三に、干渉のための術式配置」


その説明は、簡潔にして論理的だった。  エリカの手が、ノートの上を走る。  初めて聞く講義のはずなのに、内容は驚くほど頭に入ってきた。


(この説明……実家の古い魔法書と同じだわ)


周囲の学生たちは、頭を抱えている。


「全然分からん」

「たかが『明かり(ライト)』の魔法一つに、なんでこんな記述が必要なんだ?」

「『ライト・スキル』なら、一つで発動するのに」


彼らにとって魔法とは、インストールして使う「製品」に過ぎない。その中身がどう動いているかなど、考えたこともないのだ。


だが、エリカは違った。実家から送られてきた、ボロボロの古い魔法書。それを何度も読み返し、独学で基礎理論を叩き込んできた。だから——分かる。マルクスの説明が、古い知識と現在の魔法を繋ぐ架け橋になっていく。


(そうか……この『三重循環の構造』は、今の『マナフロー定義スキル』の原型なんだ)


古い魔法陣こそが、現代スキルの源流。ブラックボックスだと思っていたスキルの「中身」が、透けて見えるようだった。エリカは震える手で、必死にペンを走らせた。


マルクスの説明は続く。図解は美しく、論理は明快。基礎を積み重ねれば、応用への道はおのずと開ける。


(この人……魔法への理解度が、桁違いだ)


エリカの青緑色の瞳が、尊敬の念を帯びて輝いた。


やがて、終了のチャイムが鳴る。  学生たちは、解放されたようにぞろぞろと教室を出ていった。


「わけわかんねぇ」

「時間の無駄だったな」

「食堂行こうぜ」


 不満を口にしながら去っていく背中を見送りながら、エリカは席を立てずにいた。  胸の奥が熱い。  本物に触れた高揚感が、体を支配していた。


 隣で、リブシェが心配そうに顔を覗き込む。


「エリカ? 今の授業、分かったの?」

「……うん」


 エリカは、噛み締めるように深く頷いた。



学生たちの波が引くと、教室に静寂が戻った。

マルクスは教壇で、手元の資料を無造作に揃えている。エリカは小さく息を吸い、その背中に歩み寄った。


「先生」

「……ん」

マルクスが手を止め、半身で振り返る。穏やかな、しかし全てを見透かすような灰色の瞳だった。エリカは姿勢を正し、単刀直入に切り出した。


「一つ、お尋ねします。実家の古い魔法書にある『三重循環の陣』は、現在の『マナフロー定義スキル』の原型プロトタイプにあたるものでしょうか」


 マルクスの眉が、わずかに動いた。


「君の名は?」

「エリカ・ダルジェントと申します」

「ダルジェント……ああ、なるほど」


マルクスは得心がいったように頷き、口元を緩めた。


「よく気づいたな。その通りだ」

「やはり……!」

「最近の学生は、出来合いのスキルを使うばかりで『中身』を見ようとしない。君は、原典ソースコードを読んでいるのかね」

「はい。実家に古い魔法書がありまして……基礎理論に関しては、今の教科書よりも詳細ですので」

「結構なことだ」


マルクスが資料を鞄に収める。その所作には、一切の無駄がない。


「昔は便利なライブラリなどなかったからな。我々は基礎図形を組み合わせ、手作業で術式を組んだものだ」

「その、手作業のことで……」


エリカは一歩、前へ出た。


「現在、友人と共同で『軽量スキルセット・フレームワーク』を研究しています」

「ほう?」

「古い焦点具や魔導書でも動作する、軽量化されたライブラリです。無駄な処理を削ぎ落とし、最小のリソースで最大の効果を出す。それを目指しています」


マルクスの手が止まった。じろりと、エリカを見る。だが、その目に険しさはなかった。あるのは、同好の士を見るような温かみだ。


「最小のリソースで、最大の効果を」

「はい」

「……まさに、職人の発想だな」


 エリカの頬が、わずかに紅潮した。


「続けてみなさい。基礎を理解していれば、効率化の本質も見えてくる」

「はい! 本日の講義で、バラバラだった知識が繋がりました。ありがとうございました」


エリカは深々と頭を下げ、教室を辞した。



 廊下に出ると、壁に寄りかかっていたリブシェが顔を上げた。


「どうだった?」

「……本物よ」


 エリカは短く答えた。


「あの先生は、本物の実力者だわ」

「へえ、エリカがそこまで言うなんて」


 リブシェが口笛を吹く。二人は並んで、午後の食堂へと歩き出した。



教室の隅。 レティシア・フォン・クラウゼンベルクは、扇子の陰からその光景を睥睨へいげいしていた。


(あの貧乏貴族、何を媚びているのかしら)


内心で舌打ちをする。あの難解な講義を理解できたと思しきエリカと講師の間にある、知的な関係。それが、どうしようもなく気に入らなかった。


だが——  ふと、レティシアの耳に、エリカの研究内容が入る。


(あら……)


何か、良からぬごときを思いついたのか。  レティシアの唇が、三日月形に歪んだ。それは、獲物の致命的な隙を見つけた、捕食者の笑みだった。

彼女は踵を返した。  カツ、カツ、と。  ヒールの音が、不穏なリズムを刻みながら遠ざかっていった。



同じ頃。学院長室。


 フリードリヒ・ヴァイスハウプトは、革張りの椅子の背に深く身体を預けていた。  白髪の老魔法使い。長年にわたり、この巨大なシステム——アルカ総合学院を運用してきた管理者トップである。


「マルクスさん。ご苦労様でした」 「いえ」


 執務机の前に立つマルクス・アッシュベルクは、短く答えた。  先程の講師としての柔和な顔つきではない。冒険者ギルド『ストジーブルナー・ルーナ』から派遣された、熟練の魔法技術顧問としての顔だ。


「授業は、滞りなく」

「学生たちの反応は?」

「大半が脱落しました。想定通りです」

「やはり、そうですか」


 フリードリヒが、さびしげに苦笑する。


「今や、基礎理論バックエンドを学ぼうとするのは、よほどの物好きか、研究職志望くらいのもの」

「ですが——」


 マルクスが言葉を継いだ。


「一人、見所のある学生がいました」

「ほう?」

「エリカ・ダルジェント」

「ああ、あの娘か。貧しい男爵家の出ですが、成績は極めて優秀だ」

基礎構造ソースを、直感的に理解している」


 マルクスの脳裏に、あの真剣な眼差しが蘇る。


「あれだけの資質は、久しぶりに見ました」


 その声に微かな熱が混じっているのを、老獪な学院長は見逃さなかった。  フリードリヒは口元を緩め、すぐに表情を引き締めた。


「さて、マルクスさん。本題に入りましょう」

「……例の調査依頼オーダーの件ですね」


 空気が、張り詰める。  マルクスは懐から、一枚の調査報告書を取り出した。


「最近、学内ネットワーク(魔力網)で観測されていた不可解な挙動ログ。調査の結果、外部からの攻撃ハッキングではないことが判明しました」

「やはり……」

内部権限アドミンを持つ何者かが、正規のルートを悪用して情報を抜き取っています。機密研究データの流出、試験結果の改竄、特定学生へのリソースの不正割り当て……」


 マルクスが淡々と事実を告げる。


「バックドア(裏口)が仕掛けられている、と」

「ええ。それもかなり巧妙に」

「魔法行政局も動き出しています。大事になる前に、膿を出し切りたい。だからこそ、外部の信頼できるギルドである貴殿らに頼んだのです」


 フリードリヒが深く頭を下げる。


「マルクスさん。引き続き、講師という立場で内部の監視をお願いしたい」

「承知しました」


 マルクスは頷いた。  特別講師というのは、世を忍ぶ仮の姿。  本職は、システムの綻びを見つけ出し、修復する「監査人」である。


「慎重に、洗ってみます」

「頼みますぞ」


 マルクスは一礼し、重厚な扉を開けた。  廊下を歩きながら、思考を巡らせる。  内部犯。それも、学院の中枢に触れられる者。  マルクスの灰色の瞳が、獲物を狙う狩人のそれに変わった。



 昼時。学院の食堂は、午後の活気に満ちていた。


 エリカとリブシェは、窓際のテーブルに向かい合っていた。盆の上には、湯気を立てる皿。 本日の献立は『アルカ名物のビーフグラーシュとダンプリング』だ。


 濃厚なブラウンソースの中で、牛肉がほろほろになるまで煮込まれている。ふわりと鼻孔をくすぐる、パプリカとキャラウェイの芳醇な香り。添えられているのは、蒸しパンのような食感の茹で団子クネドリーキだ。


挿絵(By みてみん)


エリカはスプーンを手に取ると、ソースをたっぷりと絡めた肉を口に運んだ。舌の上で、肉が解ける。玉ねぎの甘みと牛肉の旨味、そしてスパイスの刺激が、渾然一体となって口中に広がった。


「……おいしい」


思わず、吐息が漏れる。温かいスープが、講義で張り詰めていた神経を優しく解きほぐしていくようだ。


「エリカ、さっきの先生と楽しそうだったじゃない。どんな人?」


リブシェが、クネドリーキをソースに浸しながら尋ねる。


「すごく、丁寧な人だった」


エリカは、余韻を噛み締めるように言った。


「実家の古い魔法書に書いてあったことが、今のスキル体系に全部繋がっているって……あの先生の言葉で、やっと確信できたの」

「へえ!」

「私たちが作ろうとしてる軽量フレームワークの話も聞いてくれたわ。『最小のリソースで最大の効果を出す、職人の発想だ』って」

「職人、かあ。渋いねえ」


リブシェが嬉しそうに笑う。


「見た目は地味だけど、中身はすごい人なのかもね」

「うん。多分、本物の実力者ウィザードだと思う」


二人は顔を見合わせ、またスプーンを動かした。穏やかな昼下がり。窓の外では、春の風が木々の若葉を揺らしている。


 だが——  この平穏は長くは続かない。  最初の「事件」の予兆が、すぐそこまで迫っていた。


(第1節 了)


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