七、
朝になって全校遠足当日。
空の色が黒から薄暗い紺へ変色する頃、スマホからけたたましいアラームが鳴った。章子は眉間に皺を寄せながら即座にアラームを止め、布団の中に潜り込む。至福の時を奪われる感覚には未だに慣れずにいた。
「しょーこー! 朝だよー! 早く起きてー!」
階下から渚の柔和だが明瞭な声が聞こえてくる。
一階にいる渚はきっと、早朝から章子のために起きて、全校遠足の際の弁当を作ってくれているのだろう。章子はその想いを汲み取ると、懸命に布団から這い出た。
階段を下りて居間に入ると、渚がご飯と味噌汁と茶碗蒸しを食卓の上に並べてくれる。章子は急いで朝食をかきこむと、慌ただしく私服に着替えた。全校遠足のしおりに記載されている持ち物を全部リュックサックに詰め込んで背負い、スニーカーを履いて、玄関の引き戸を開けた。
抜けるような青空が広がる快晴だった。外の澄明な空気を深く吸い込むと、ファスティングでデトックスでもしたかのように、気持ちが晴れやかで清々しい。昨晩正を言い負かしたからだ、と章子は思った。
普段通り、近所の八百屋の横で待っていると登校班のメンバー達が集まってくる。今日は、みんな手提げ鞄ではなくショルダーバッグやリュックサックを持っている。
全員そろうと、章子は先頭になって、付き添いの保護者に見送られながら横断歩道を渡り歩き始めた。低学年生の小さな足取りを慮った歩幅で、神社、駄菓子屋、個人経営の居酒屋を通り過ぎてゆくと、小道を何回か曲がって進んだ先に銭湯が見えてきた。
ある日、渚と会話をした時に、
「章子は誕生日が十一月二十六日だから良い風呂の日だね」
と言う話になって、それ以来何度か通ったことのある銭湯だった。
銭湯を過ぎると公園があり、幼稚園があり、千春市役所がある。その先へ行くと、立派な椿を育てている民家がある。椿は梅雨時になると、毛虫を大量発生させ章子を怖がらせた。
そこから、更にしばらく歩くと、ようやく千春専門学校へとたどり着く。
登校班は校門をくぐったところで解散した。
章子は、そのままの足で縦割り班のメンバーが集まる予定の教室へ向かった。教室に入ると、既に十の机が寄せ合うような形で幾つか並べられており、章子がその内の一つに着席して人見知り故に俯いていると続々とメンバーが集結してゆく。教師が、出発時間が近付いたため生徒たちに廊下に並ぶよう指示を出し、縦割り班ごとに校庭へ集合した。
教職員から連絡事項を聞き、校長の締めの話が終わると「行ってきます」「行ってらっしゃい」の挨拶をして出発した。
行き先は上野動物園だった。上野動物園へは全校遠足で隔年訪れており、動物はフラミンゴ、キリン、ゾウ、パンダ、などが飼育されていてすっかり見慣れたものだった。
章子は一年生の女児の手を繋ぎ、縦割り班の先頭として前を歩いた。繋いだ手は、温かくて湿っていた。
歩き始めて少しして、鼻水をすするずるずるとした音が隣から聞こえてきた。女児は繋がれた手をほどき、度々手を鼻の方へ持っていき何かをやっている。再び女児が手を差し出し、章子が掴んでまた手を繋いだ。女児の手は全体的に湿っているが、部分的に濡れているような気がする。章子は急に、女児は鼻水を手で拭っているのではないか、と思い始めた。しかし、それならば、なぜ手を繋いでいないもう片方の手で鼻水を拭わないのか、という疑念が沸く。
章子は前屈み気味になって、さっと視線を横に走らせると、女児のもう片方の手はピンク色の糸紐を握りしめることで既に使われていた。糸紐を辿った先には可愛らしいキャラクター柄の巾着袋がぶら下がっており、中には小振りな弁当箱が入っていることが窺える。
章子は、心の奥に闇だけが引き立つほどの陰惨な光が灯るのを感じた。途端に、今繋いでいる女児の手が汚ならしく気持ち悪く思えてきた。その思いは、どんどん章子の胸の内でかさを増し抑えがたくなっていった。
女児がまた手をほどこうとする。章子の口からは注意の言葉が出て来れない。暗く背徳感のある後ろめたさを背景に、醜い感情だけが主役のように募ってゆく。
章子は再び口を開け、声が出て来れないと再認識するや、離れて行こうとする女児の手を強く握り締めた。これ以上、新しい鼻水がつくことを許したくなかった。二人の片手が相反する動きをし、もぞもぞと動く。章子は繋いだ手を頑として離さない。その行為からは、弱者に対する優しさや想像力は垣間見れない。ただ自分自身の欲求と抗いようのない宿命のなすがままだった。しばらくすると、女児の手は活きの良かった魚の命が絶えたかのように、ぴたりと動きを止めた。章子は汚ならしくも温かい手をずっと繋ぎ続けた。
上野動物園へ入園すると、すぐにピンク色の羽毛に片足立ちをしたフラミンゴが章子達を出迎えた。
章子は女児の手を離し、縦割り班のメンバーと共に動物達を見て回った。体の大きなゾウや首の長いキリンを見ても、誰一人として年相応の無邪気で明るい笑顔を浮かべてはいない。どのメンバーからも漏れなく“見せられている”感が漂っている。
すると、
「班長さん、二年生がいない」
ちょうどカンガルーをみんなで見ていた時のことだった。同じ縦割り班の五年生の男児が、声変わりをまだ済ませていない中性的な声を揺らしながら章子を見つめている。
「えっ」
章子は突然の緊急事態に気が動転して辺りを見回した。ところが、見当たらない。
どうやら、二年生の男児は一人で単独行動を取ったようだった。
「どうする?」
五年生の男児は未だに章子を見つめてくる。
章子は表情を変えず無言で立ち尽くした。
「俺、探しに行ってくる」
すると、四年生の男児が声を上げ動物園の元来た道を走り出した。
「俺も行く」
五年生の男児も四年生の男児のあとを追うように駆け出した。
章子は二人の帰りをひたすら待つしかなかった。
章子は無責任だった。全校遠足を通じて下級生に対する思いやりを育てることが目的だとしても、全然目的通りにいかなかった。鉛のように重い自らの体は決して動かさず、他力本願で傍観者に徹するような冷淡さが章子にはあった。それは家にいる時ではなく、千春専門学校にいる時に顕著にあらわれた。最初一人いなくなったと聞いた時は、驚きながらも突然のハプニングに心が浮いたが、今やこの待ち時間が面倒で仕方がない。章子には親譲りの多面性があるが、多面性のない人間は恐らく存在しないだろう。
しばらく待ち続け、十分が経過しただろうか。章子はいつ三人が戻ってきても良いように、さも案じて待っていたと言わんばかりの表情を作り、いい加減見つかってくれないと暇疲れしてしまうとその場で軽く足踏みをしていた。
すると、こちらに駆けてくる三人の姿が見えた。二年生は四年生の男児に手を引かれている。三人ともくたびれた様子で息を切らしていた。
「はんちょー、疲れた~」
弱さを見せ甘えてくるような声を出して、こちらへ向かってくる五年生の男児に章子の心情は、女心と秋の空の如く急速に心変わりしていった。
「ありがとう。どこにいたの?」
「ゾウのところにいたよ」
「良かった。少し休んだらまた動物を見に行こうね」
章子は、なるべく優しい口調で優しく聞こえるように言葉を紡ぐ。それは本心に近かったが、なぜかわざわざ演技をしなければそういった声を出せなかった。
章子は三人を休ませ、各々が持参した水筒の中身を飲んで水分補給を済まさせると、次々と檻の中にいる動物達を見て巡った。どの動物達もドキュメンタリー番組で見た野生動物達とは違い、過酷な生存競争がないため時間の流れる速度が穏やかだ。ゆっくり、のびのびと生きている。
定められた時間になると、レジャーシートを敷いて弁当箱を広げみんなで昼食をとった。章子の弁当の中身は、渚の作った卵焼き、肉団子、鶏の唐揚げ、ふりかけのかかったご飯、そして、ほうれん草のおひたしだった。
章子はマイペースに黙々と弁当を平らげると、空になった弁当箱を布で包んでリュックサックの中へしまった。周囲を見渡すと、縦割り班のメンバーの中には未だ弁当を食べている者がいる。それを確認すると、章子は体育座りをして目線を下にし俯いた。
すると、人間より遥かに短命な運命を背負う黒くて小さな蟻が一匹、地面を歩いているのが見えた。章子は、人間では想像もつかないくらい、ごくわずかな足取りで懸命に歩を進めてゆく蟻をひたすらに見つめた。かつては、蟻の巣に大量の水を流し入れたり、無慈悲に指の腹で押し潰したりして遊んだ過去がある。蟻の命を散々に弄んだ挙げ句、亡き者としたのだ。蟻と人間を比較すれば、蟻は圧倒的な弱者だ。守られなければ、簡単に死んでしまう。それなのに、そのことを知ってか知らずか、蟻は生きづらそうな器で健気に懸命に生きている。
ついに、蟻は一度も休むことなく歩き続けると章子の視界から消えた。
弁当箱を片付ける音がする。章子が音の方へ顔を向けると、縦割り班のメンバー達は全員弁当を食べ終えたようだった。
「次どこに行きたい?」
章子が問いかけると、
「まだ『夜の森』行ってないから行きたい」
四年生の男児が、そう答えた。
章子はリーフレットの地図を見ながら縦割り班を誘導して歩いた。
夜の森は薄暗い洞窟のような作りになっている。中に入ってゆくと、照明が落とされた空間の中で夜行性の動物達が飼育されていた。章子はミーアキャットやフェネックギツネの可愛さに目が釘付けになった。スマホで何枚も写真を撮った。
一通りすべての動物達を見終えると、集合時間になった。章子達は出入り口付近の受付前に集まった。点呼を取って全員そろっていることが確認されると、再び長い列をなして、章子は女児と手を繋ぎ上野動物園をあとにした。
章子は帰りの道中でも女児がまた手で鼻水を拭うので、手を繋ぎながら要所要所で手に力を込め、しようがないことをしているんだと自分自身に言い聞かせた。
全校遠足の行列は途中、坂を上って白津神社を通り抜け、千春専門学校へと帰ってきた。
校長が校門まで出迎えて、
「おかえりなさい」
とみんなに手を振っている。
中には、
「ただいま帰りました」
と返事をする者もいるが、ほとんどの学生達は返事もせずに素通りするだけだった。
校庭へ全員が整列すると教職員が壇上に立ち、数名が入れ替わって、一人ずつマイクを通して話をする。聞いている全校生徒達は皆、一様に疲れを顔に滲ませている。体調不良によりその場にしゃがみ込んでしまう児童まで現れた。
長いだけの校長の話がようやく終わると、教師が拡声器で順番に列ごとに校門から帰るよう指示を出した。声が籠りながら大きく校庭の隅から隅へ響き渡る中で、章子も少し疲れが出ており、両腕が重く、疲労が増す度にリュックサックが強く肩に食い込んだ。




