六、
居間の引き戸が開く音がして章子はその方へ目を遣ると、そこにはひどく疲れたといった表情をした渚が立っていた。手に持っている膨らんだビニール袋には、ごぼうと長ねぎが数本大きくはみ出して刺さっている。
「おかえりなさい」
章子は待ってました、とばかりに立ち上がって渚の元へ近付いてゆくと、食品の詰まったビニール袋を奪い手に持った。そのままシルバーの冷蔵庫の前へ行き、食材を冷蔵室、冷凍室、野菜室の三つへ仕分けして入れてゆく。「肉はすぐに使わないから冷凍室にお願いね」と前々から渚に言いつけられている通り行動したが、章子はふとその手を止めた。
「お母さん、冷凍室がいっぱいだから鶏肉が入らないよ」
室内は霜の付着した豚バラ肉のパックと、たこ焼きやラーメンの冷凍食品などでぎゅうぎゅう詰めになっていた。
「ええー、入るよ。頑張って入れてー」
メイクを落とすために、台所へ移動した渚のよく通る声が聞こえてくる。章子は手元にあるお買い得シールが貼られた鶏もも肉のパックを冷凍室の中へ無理やり押し込もうとした。
「やっぱり入らない。お母さん、まだー?」
堪え性のない章子はすぐに音を上げて渚を呼んだ。
「なんとかしてー」
渚の途切れがちで乱れた声が、水の流れる音に交じって聞こえてくる。
「私、できない」
章子は意味もなく冷凍室を開けたり閉じたりしていたが、結局鶏もも肉を居間の食卓の上へ置くと冷凍室を閉じた。
「どうなった?」
ヘアバンドで髪を上げ、すっぴんになった渚が章子の方へ近付いてくる。
「入らない。お母さんやってよ」
「ええ、入らない? 物はどこよ?」
すっかり意気消沈した章子は、怠そうに食卓の上に置いた鶏もも肉のパックを掴み、渚へ手渡した。
渚が巧みな手つきで冷凍室内を整理整頓してゆくと、鶏もも肉を横ではなく縦にしまって、すべてが収まった。
「もう、ちゃんと頭使ってやったのー? ほら、入ったじゃん。ちゃんとやんなさいよ。ぼーっと生きてるから入るもんも入んないのよ」
渚の顔にタオルでは拭いきれなかった数粒の水滴が残されていることを、章子は至近距離で見て知った。
「章子、すぐに座って怠けようとしないで。やることがたくさんあるんだよ。次は、イカの下処理を手伝ってもらおうかな」
「えー、……分かったよ」
章子は重い腰を上げ台所へ向かうと、いつの間にか、調理台の上にはボイルホタルイカのパックが置かれていた。
「目玉とくちばしと骨を取ってね」
「分かった」
章子は嫌々、下処理に励みながら隣にいる渚の手元をさっと窺うと、その手つきは素早くて丁寧に尽きる。章子もそれに倣って手を動かし続け、できたボイルホタルイカを中くらいの大きさのざるの中へ入れてゆく。
「おっ、何か作ってるのか?」
頬を柔らかく崩した正が台所へ顔を出した。
「うん」
章子は小声で返事をしながら、しかし、働かない、家事をしない、手伝いもしないの三拍子である正に対して内心苛立ちを募らせていた。
この浮薄な正の調子では、きっと正の分の食後の洗い物さえも渚か章子のどちらかが遣らざるを得なくなるに違いない。章子は正の洗濯物を自分の洋服と一緒に洗われても構わなかったが、正の分の食べ終えた食器まで洗うのだけは我慢ならなかった。
正はすぐに台所を後にし、居間へ行き、リモコンでテレビを点ける。
居間から流れる夕方のニュース番組の音声が台所まで伝わり、それが軽いBGMとなって、章子の両手の動きを捗らせる。
それから数分後、首から肩にかけて凝りが生じるが、章子と渚で取り憑かれたように立ち作業した甲斐あって、ついに下処理済みのホタルイカのみとなる。それに付属の黄色いからし酢味噌を加え、全体に行き渡らせるように菜箸を使って和えた。
「章子、これ食卓に持ってって」
「うん」
正のいる居間へ向かう章子の後ろを渚も連いてくる。
「ホタルイカの酢味噌和え、章子と作ったの」
「おっ、うまそうだな。どれどれ、うん、うまい」
一足先に味見をして笑顔で舌鼓を打つ正に、渚も嬉しそうに微笑む中、章子だけは冷めた心で両親を見た。
食卓に他の出来立ての熱々料理を並べて、章子も渚も椅子へ腰を下ろし、箸でおかずを詰まんで、ご飯の上にのせて食べた。幸せな家族の食事風景だが、章子はそこに水を差して一石を投じたい、という想いが沸々と沸き上がってくる。
章子が、正面に座っている正の目を上目遣い気味に見つめていると、正は箸を動かす手を止め、まっすぐに章子を見返した。
互いに目と目が合う。
「これ、うまいぞ。章子も食べてみな」
無邪気な笑顔を向けてくる正を見て、章子は目を伏せ、薄く開けていた口を閉ざした。そんな顔をされては言い出しづらく、やはり、今夜は言うのをやめておこうかなと思う。
正は顔を綻ばせ、視線をホタルイカの酢味噌和えに落として、また一口、さらに一口と食べている。
章子は考えた。大好きな渚がいつしか口を開けば正の愚痴ばかり言うようになった。ということは事態は深刻、家計は火の車なのだろう。これは、家族をより良くするためでもあるのだ、と章子は自分自身を鼓舞する。これからしようとしていることは喧嘩ではなく家族会議なんだ、そう意を決して口を開いた。
「お父さん、生活費払ってないって本当?」
和やかだった空気の中に、異質な沈黙が落とされる。
正を見ると、口をもぐもぐ動かしているだけで反応は無い。
聞こえていないのだろうか。
「お父さん、生活費払ってないってお母さんから聞いたよ」
章子がもう一度はっきり、今度は少し声量を上げて言うと、ついに正は顔を上げた。
ようやく、再びしっかりと目と目が合った。
正は目を切なそうに細め、哀切極まる、今にも泣きだしそうな顔をしている。
それを見て、章子の体はカッと熱くなった。
「お父さん?」
「何でお前にそんなこと言われなきゃいけないの!!?」
正は聞いたこともないほど大きな声を張り上げた。
緊迫感から背筋が震える。
今や、丸井家の頭上だけに暗雲が立ち込めている。かつて類を見ない程の家族会議は、誰もこれから先の展開を予測できる者はいないだろう。
正は視線を家族から逸らして、テレビ画面を凝視している。
章子は渚の想いを伝えよう、と腹の下にぐっと力を込め居ずまいを正した。
「お父さん! お父さんは一家の大黒柱なんだよ。だから、生活費を払いなよ。お母さんが可哀想だよ」
章子は学校にいる時とは、まるで別人のように熱く話し始める。その熱の中には、上手くいかない自らの学校生活への不満も含まれており、日頃の鬱憤を肉親である正へ腹いせのようにぶつけようともしていた。
「聞いてる!? お父さん」
章子は追い討ちをかけた。正の心の外郭を割って無理やり剥がそうとする。
「さっきから、何言ってんの!? 飯が不味くなるからその話はまた後にして!!」
章子は正の目の色と声の調子がきついと感じ、それはこちらからも強く物を言って良いサインだ、と受けとめた。
「生活費を払ってって言ってるの! よその家のお父さんはちゃんと払ってるんだよ!」
章子は怯むことなく、怖いもの知らずとも言うべき食らいつきようだ。
「……払ってるよ」
正は表情険しく、小声で吐き捨てるように言うと場の空気はますます剣呑になる。
「でも、お母さんが払ってないって言ってるよ」
「だから何!? 何を言わせたいの? 何が言いたいの? お前に何の関係があるの? 今、食事中なんだから静かにしろよ!!」
不機嫌の皮を突き破って中から赤黒いマグマが噴出したかのように、正は片方の拳で食卓を思い切り叩き歯を剥き出しにして声を荒げた。
「章子、もういい。よしな」
渚が情け深い心配げな視線を夫と娘へそれぞれに向けて制止しようとするが、章子はそれを無視し快感に酔いしれながら早口で不満を叩きつけた。
「生活費払いなよ。お母さんが困ってる」
「だから!? 水道ガス電気代に家賃、全部払ってるの俺だよ!? 何か文句ある!?」
「払って当然でしょ! 生活費の一部だもん。食費や外食代、私の養育費はお母さんが出してるんだよ。外食のお会計を妻に払わせるなんて男がすたると思わないの? 男は経済力だよ」
「はぁ!? 払わせてるのなんて、せいぜい食費と外食代だけだろ!? 何寝とぼけたこと言ってんの!? 馬鹿だなあ」
「日用品もお母さんが払ってるの忘れないで!」
章子は渚の思う常識からはみ出している正を頭ごなしに悪と断定し、興奮により震え始めた声を絞り出して抗議する。
「そんな下らないことばっか言うなら出てけよ!! 出てけっ!!!」
堪忍袋の緒が切れたかのように正は怒りの咆哮を上げた。
「下らないことなんかじゃないでしょ。お母さんは結婚前『専業主婦になりたい』って言ったんだよ。それをお父さんは承諾した。それなのに約束を破ってる。そうだよね?」
正ははっきりと答えない代わりに、ぶつぶつと聞き取れない声で何かをぼやき始めた。
「お母さんも何か言って」
「……うん。結婚当初に専業主婦が良いって言ったよ。年収も一千万円あるって言ったから安心して結婚したの」
渚はいつにも増して口数が少なく、表情は固く、控えめな口ぶりだ。
「年収一千万円あるって言ったみたいだけど本当にあるの?」
「今は無いけどその時はあったんだろ! 下らねえことばっか言わせんなよ! ホンット馬鹿だねえ!!」
「何で馬鹿って言うの? もっと家族を大切にして! お母さんに負担掛けないでよ! 四六時中寝ながらテレビばかり見てないで、ちゃんと家族のことも考えてよ!」
壊れてゆく正の体裁に構わず、火に油を注ぎ続ける章子の姿勢に、隣の椅子に座る渚は困惑したように眉を下げた。
「わあーったよ! そんなに言うんならけじめつけるよ! これからはご飯いらない。俺のために作らなくていいよ! 食べないから」
「どういうこと!? けじめ=食べないってことなの?」
正は何も答えない。章子もこれ以上は何も追及せず、父親の情けない素顔を見てしまったと絶句した。




