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五、

 道徳の授業は、明後日に迫る全校遠足のしおりを読むことで埋められ、持ち物や集合する時間や場所、やってはいけない注意点などを確認した。九年生になって初めての全校遠足で、章子は他のクラスメイト達と同様に新入生である一年生の世話を任せられることになった。同じ縦割り班の一年生と行き帰りに手を繋ぎ、下級生達の様子に気を配りながら、全校遠足のしおりを見て指示を出すよう教師から言われている。

 終鈴が鳴り、章子は全校遠足のしおりの重要箇所に蛍光ペンでマーカーを引こうと筆箱を開けた。すると、消しゴムが両手をすり抜けて転がり落ち、椅子と椅子の間の通路で止まった。

 次の瞬間、心臓が飛び出しそうになる程大きく跳ね上がった。ちょうど、その通路を歩くスクールカースト上位男子が近くにいたのだ。

「もしかして、これ丸井の?」

 章子の視線に気が付いたのか、上位男子・小金井は落ちた消しゴムを拾い上げると章子に手渡して笑った。

「はい、消しゴム」

 章子は何も言うことができず、自分でも分かるくらい顔が火照り始めた。小金井の笑顔は、まるで太陽のようだった。顔を直視できたのは、ほんの一瞬だけだった。章子はすぐに目を伏せると、早鐘のように打つ自分の心臓の音を聞いていた。

「おいおい、なんとか言えよ。まあ、いいけど」

 小金井は呆れたようにそう言うと、通路を通りすぎていった。

 章子はすぐに消しゴムを筆箱の中にしまった。

 章子は小金井のことが好きだった。一年生と二年生の頃同じクラスで、同じ班になったこともある。

 一年生の春、入学したての二十分間の昼休みの時間に小金井に校庭でスカートをめくられ、以来想いを寄せるようになった。異性として求められているようで章子は嬉しくなり、積極的にスカートを履いた。しかし、同じ班の女子から「小金井くん、椎名さんのことが好きなんだって」と言われ、胸をえぐられるようだった。言われてみれば、小金井からスカートめくりをされたのはたった三回だけだった。次第に五年生、六年生、七年生、八年生と学年が上がってゆくにつれ、小金井は端正な目鼻立ちが際立つようになっていった。所謂イケメンとして女子達から囁かれるようになると、上級生の女子までもが小金井見たさで教室に顔を覗かす程だった。それからは椎名ではなく、転入してきた美女同級生との浮き名が流れ、小金井は今やスクールカースト上位へ君臨するようになった。

 きっと、あんな対応をしてしまったのだから小金井に好きだという気持ちがバレている。だから、小金井は章子の前で飄々としていられるのだろう。一方的な好意が伝われば足元を見られやすい、とはよく聞く話だ。それが悔しかった。苦しかった。恋をすることがこんなにつらいのは、叶わないことを知っているからかもしれない。以前から言われていた、小金井は高木と既に男女の仲であり交際をしていると。

 章子は小金井の気配がなくなると、一度は筆箱にしまった消しゴムを取り出し、手で味わうように隅々まで触り尽くして、ぎゅっと握り締めた。想いがあふれ、胸がつっかえた。こんなに自分を苦しめるなんて、小金井なんていなくなってしまえばいいのに、とさえ章子は思った。

 そんな悩ましい想いを掻き消すように、突然、明るくはしゃいだ様子の中位女子・笹木野の腰が、章子の机へ軽くぶつかってきた。

「あ、ごめんね」

 振り返り謝ってくる笹木野へ、章子は口に出して答える代わりに首を高速で横へ振った。

「ありがとう。ここにいたのが丸井さんで良かったよ~」

 笹木野は瓜実顔の腫れぼったい一重まぶたを半分以上落として、人懐っこい笑みを浮かべると、もう一度

「ありがとう」

 と礼を述べた。

 そして、何かを思い付いたかのように、

「そうだ。丸井さんって、グランドピアノ持ってる?」

 と、唐突に訊ねた。

 グラウンドピアノとは、一体なんだろう。聞いたことがない。ピアノで家にあると言えば、布でくるみ押し入れに入れたままにしてあるキーボードを想像する。もしや、キーボードの別名だろうか。

 章子の頭は真っ白になり、ぼんやりし始めた。質問してグラウンドピアノの正体を解明したいところではあるが、まだ心を許していない相手だ。

 あまつさえ、笹木野は気の強い女子が多く集う吹奏楽部に所属しているスクールカースト中位女子だ。中位と最下位。そこには気軽さはなく、見えない隔たりがある。

 不明な点を聞くことさえ烏滸がましい気配がして、章子は気が付いた時には首を大きく縦に振っていた。

「すごーい。グランドピアノ持ってるんだあ。彩花聞いて。ここにグランドピアノ持ってる人、発見した」

「まじで? やばいじゃん。すごいね」

「ぁ……」

 章子はいつの間にか開いていた唇から小さな音を漏らしていたが、言葉にはならず、そんなことよりも、「まじ」や「やばい」と言う言葉を平気で使うクラスメイトの中位女子・花田を恐れた。

「丸井さんって、おっとりしててお金持ちのお嬢様って言うイメージあるよね。ねえ、今日学校終わったら、丸井さんち行ってみたいんだけどダメかな?」

 章子は首を振って、笹木野が自宅を訪れることを承諾した。

「やったー! 楽しみ。約束だよ」

 章子は目の前に差し出された小指に自分の小指を絡めると、帰りの会開始のチャイムが鳴り始めて、慌ただしく自席へと戻る笹木野を微笑ましく見送った。

 無事に「さようなら」の挨拶が終わると、学生達の行動は下校か居残るか、大方この二つに別れる。

 章子は下校するべく笹木野の姿を探したが見当たらず、それならばそれで良しと教室を出て、階段を下り下駄箱へ向かった。

 すると、

「わっ!」

 いきなり背後からリュックサックを押され、

「わああああああああ!!!」

 章子はふとした気の緩みを突かれて大声で叫んだ。

 脅かした本人も、

「うおおっ!」

 と、小さく声を上げる。

「なになになに、今の声、なに?」

 章子の背後にいた人物が回り込んで来て顔を覗き込む。

「大丈夫です」

 体が興奮して熱を持ち、口から滑るように言葉が出てゆく。章子が無表情に暗く掠れた声で返事をすると、姿を現した笹木野は腹を抱えて笑い出した。

「うける~ははははは。丸井さんって、面白いんだね」

 笹木野の開けっ広げな明るさに、章子の胸はむず痒くなり高鳴った。面白いと言われれば、期待通りに面白いことを言わねばならないという気がしてくる。

「別に」

 咄嗟に出てきた言葉は面白くも何ともなく、不器用でぶっきらぼうとしか言えない。日頃学校において口数の少ない章子へ、言葉を操る神は味方しなかった。

 章子は下駄箱で上履きからスニーカーに履き替えると、

「家、こっちに……」

 笹木野と共に自宅への道を歩き始めた。高木の時もそうであったように、人と並んで歩くと、馴染み深い通学路がいつもと違った不思議な色を帯びてゆく。

「ねえ、丸井さんのこと章子ちゃんって呼んでいい? あと、タメでオッケーだよ」

 章子のどんよりした声とは対照的に、笹木野は明るく砕けた調子で話す。

 下の名前にちゃん付けという響きはくすぐったい。章子は顔を綻ばせた。

「あっ、章子ちゃんが笑った。そうそう。そうやって、もっと笑った方が良いと思うよ。私のことも気軽に円香って呼んでくれていいからね。私達、今日から友達なんだし」

 そう明るく言う円香からは何の打算も損得感情もないように見える。

「友達?」

「章子ちゃんさえ良ければ、ね」

「友達、なりたい……です」

 渇望し憧れ続けた友達という存在。円香からの願ったり叶ったりの申し出に、章子は思わず声が震えた。

「じゃあ、さっそく連絡先交換しない? スマホ持ってる?」

「うん」

 スマホを突き合わせ互いの連絡先を交換し合うと、円香は学校の話題を振った。

「章子ちゃんは学校で良いなと思う人いないの?」

「良いなと思う人?」

「うん。恋愛的に好きな人いるかなって」

「……いないです」

 いる、とは口が裂けても言えなかった。

「円香ちゃんは?」

 下の名前を呼ぶことに躊躇いはあるが相手は呼んでくれたのだから、と章子は勇気を振り絞り訊ねた。

「私? 私は小木が良いかなあって最近思ってる。彩花も良いよねーって言ってたよ」

 円香は何の照れもなしに答えた。章子は黙り込んで地面のアスファルトへ視線を落とした。

 章子は小木が苦手だった。小木のイメージと言えば、運動神経抜群でクラスのムードメーカーだ。しかし、章子へは時に辛辣な言葉を投げつけてくることも多く、そのため額に青筋が浮き出るほど内心深く怒ったこともあった。

 だが、ここではその想いを押し殺し、円香に同意する必要があるだろう。それには、大袈裟に褒めるのが吉か。加えて、今こそ本当に面白いことを言う好機がやって来たかもしれない。

「章子ちゃん?」

 円香は腰を少し屈め心配そうに章子を見た。章子は拳を固く握り締めて口を開く。

「あ、小木くん、良いよね。……見れば見るほどかっこよくなっていくって言うか」

「えー、章子ちゃん、そんなに小木のこと好きなのー? すごいこと聞いちゃった」

 円香がはしゃぐのを見て、章子はいけない、と口元に手をやった。褒めなければ、笑いを取らなければ、という想いがない交ぜになり、度を越えすぎてしまったかもしれない。

「ちょっと待って。言い過ぎちゃったかも」

 必死に訂正しようとしても、円香はクスクス笑うばかりだった。

「大丈夫だって。章子ちゃんの恋、応援するからさ。

 ねえ、そんなことより、担任うざくない? 私、A組の竹内先生が良かったー」

「えっと」

「あっ、ごめん。いきなり愚痴言って」

「ううん」

「章子ちゃん、愚痴とか言わなさそうだもんね。気を悪くさせちゃったらごめんね」

「あ、ちがうの。『うぞぁくない?』の意味が分からなくて……」

「えっ、『うざい』の意味知らないの?」

 円香は驚いたように目を見開く。

「うん」

「もう、純粋すぎて可愛い。そんな子そうそういないよ。言わなくても分かると思うけど、うちのクラス、みんな心汚れてるからさ」

 章子は首を大きく横へ振って否定する。

「ごめん。ってか私、さっきから話が脱線してばっかだね。『うざい』は、ムカついた時にとりあえず言う言葉かな? 正直、ちゃんとした意味はよく分からない。後で調べて」

「うん」

「あ、でも、章子ちゃんは『うざい』って言葉、絶対使っちゃだめだからね。今のまま、ずっと純粋でいてね」

 円香に笑い掛けられ、章子は道案内をしながら歩き続けた。

 喋りながら、二人は駄菓子屋の前を通過する。ここまで来れば、章子の自宅まで徒歩で残り一分とかからない。一番好きな駄菓子を聞かれ、章子がビッグカツと答えると、すぐさま円香はベビースターラーメンへの愛を語りだす。その話に章子は盛んに首を縦に振りって同意している間に自宅へと着いた。

 築六〇年を越える木造住宅は、二階建てで緑色の屋根がよく映える。目の前の車道を大型車が通る度に敏感に揺れ、渚が声高に怒鳴る度に七軒先の住宅前にいても怒鳴り声が聞こえてくる、といった具合の年季の入ったボロい一軒家である。

 二階には、畳の上に敷いてある万年床があり家族三人が川の字で眠るための部屋がある。章子はほとんど掃除もしない二階へは円香を連れて行くことはせず、一階の居間と、同じく一階の畳部屋のみを案内した。

 自宅見学を終え、公園で遊ぶことになったのは、円香の提案だった。

 近所の公園は、昨日降った雨で地面がぬかるみ所々に水溜まりができていた。

「それ、何?」

 章子は反応してもらえたら嬉しいと思って自宅から持参したものを、はにかみながらおずおずと円香に見せた。それは、渚が古本屋で定価の半額で購入してきたベストセラーにもなった少女漫画本だった。

「わあ。それ、ちょっと貸して。章子ちゃんはここで目をつぶって待っててくれる? すぐに戻ってくるから」

 円香は微笑みを絶やさず言った。

「うん」

 円香は背中を見せ、砂利道を歩いて遠ざかってゆく。章子は薄く笑ったまま目を閉じた。

 暗闇の中で、章子は円香の言った友達という響きに浮かれていた。章子は円香の友達、円香は章子の友達という枠組みが、帰属意識を呼び起こし、安心感を章子に与える。

 円香は、笑い上戸で明るい。優等生の高木とは、また違った良さがある、と今までの会話で思わせてくれた。何より円香は章子を友達だと言い、記念すべき初の友達第一号となってくれた。そのことを、仕事が多忙な渚にも早く報告したくて章子はうずうずしている。

 地面の細かな砂利を踏む足音が下の方から近づいてくる。

「円香ちゃん?」

 人の気配がする割に一向に声が聞こえてこないことに不安を感じた章子は、名前を呼ぶと同時に目を開けた。目の前には、相変わらず微笑みをたたえたままの円香の顔があった。

「どうしたの?」

 章子は心配げに訊ねた。

「ううん、何でもないよ」

 円香は口角の窪みを深くする。

「そっかあ。……あれ、そう言えば漫画は?」

 章子は先程手渡した漫画本の行方を指摘すると、

「ごめん、無くしちゃった」

 円香は笑みを強め、悪びれた気配さえ見せず、何事も起きていないといったふうを貫く。

 突如二人の間に嫋嫋と吹く風が、植えられたアメリカデイゴの葉を揺らし、不穏な葉擦れ音を奏でる。

「どこにやったの?」

 章子は漫画本を確実に円香へ手渡したのだから、どうしたって疑いの目を向けてしまう。

「持ってないんだ。ごめんね」

 言いながら円香は両方の手の平を章子へ見せる。何も持っていないことは見ればすぐに分かった。

 章子の脳裏で、雨水と泥でぐじゃぐじゃになった漫画本が半瞬浮かんでは消える。

 はっとした。胸に冷えた塊を押し付けられる感覚がした。

 しかし、憶測で物を言ってはいけない。円香に気取られない程度に、章子は首を横へ振り邪念を払った。


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