四、
章子は自宅にたどり着くと背負ってきたリュックサックを玄関框の上に下ろし、スニーカーから水色のボーダー柄のスリッパに、どぎまぎしながら履き替えた。
最近、
〈ボーダーを着る女は九十五パーセントモテない〉
という電車の中吊り広告を目にしてから、以前好んで買ったこのスリッパを見る度、モテない事実を見透かされたような気がして、章子は痛いところを突かれた気持ちになってしまう。
花模様が浮き出ている透明なガラス引き戸を引いて居間へ入ると、渚が椅子に座って近所の百円ショップで購入した、黒色の毛糸を使いセーターを編んでいた。三つのダイヤ柄が交差した美しい模様が際立っている。
手先の器用な渚の趣味は編み物や折り紙で、テディベアや手袋、ネックウォーマー、色彩鮮やかなくす玉など数多くの作品を作り続けている。それらはすべて店舗で売り買いできそうなほど秀逸で完成度が高かった。
章子は渚の隣の椅子に腰かけて、宿題である国語の漢字練習と数学の計算問題に取りかかった。
ふと、渚が二本の棒針を動かす手を止めた。気になった章子は渚の顔を秘かに窺うと、渚は隣の畳部屋でだらしなく寝そべっている正を強い眼差しで見ていた。その眼差しに込められている想いが、周囲の空気を凍てつかせる。そうとは露知らず、正はのら猫を腹の上にのせ呑気にテレビを見ている。
「ねえ、にゃんにゃん、ごろごろごろごろごー」
男性の矜持を度外視した正の猫なで声が聞こえてくる。
のら猫は茶白猫で、耳先がV字に切れており、それは不妊手術が施されている証だと渚は言う。
章子が初めてのら猫に出会ったのは二年生の時だった。自宅の庭で香箱座りをしていたところを渚が「可愛い」と言って鰹節を与えたのが始まりだった。
仕事がなく動物好きの正は四六時中家におり、のら猫の相手をした。そして、『にゃん』という分かりやすい名前をつけて、自主的にドライフードやウェットフードを買ってきては与えるようになった。そうこうしている内に、にゃんはすっかり正によく懐き、家に居つくようになった。
渚は、再び二本の棒針を器用に動かし始める。
章子が両親の間に軋轢が生じていると知ったのは、三年生の頃だった。学校から帰って昼寝をし、起床した直後、まだ睡魔から解放されて間もないまぶたを擦りながら居間へ行くと、
「章子、お母さんね、お父さんと離婚しようと思うんだけど、章子は離婚したらどっちについていく?」
と、逢魔が時、薄闇の中、卓上照明器具の明かりだけを灯した室内で渚にそう言われた。
「えっ、どうして?」
章子は頭の中が一瞬真っ白になったのち、理由を聞きながら泣き出した。
「お父さんが生活費を払わないからだよ。家族を愛していないんだって。男親は娘ができると目に入れても痛くないくらい可愛がるらしいのに、お父さんは全然章子を可愛がらないね。章子より確実ににゃんの方が可愛いんだよ。章子は愛されていない。本当に可哀想な子だね」
という返答が渚から来ると、章子は今度は号泣した。その時も渚は編み物をしていた。
正は、フリーカメラマンとして学校の修学旅行へ同行したり、イベントにおいての写真撮影をしたりしている。サラリーマンと違って毎日仕事があるわけではなく、半年に一度あるかないか程度で収入は乏しい。渚のパートの給料だけが家計の主力となっているため、章子の家は常にやや貧困状態であった。
正はにゃんをカメラで撮って写真を自宅に飾るが、章子と渚の写真はまず撮らない。そのことを渚は、あらゆる物事に疎く見える章子に告げ口して気付かせた。そういったことが相次ぎ、いつしか章子は正のことを好きではなくなっていった。
学校がない日は、一緒に土手に行ってサイクリングをしたり、区民センターのプールで一緒に泳いだり、走馬灯のように脳裏を駆けた思い出だけは美化したが、正が渚を苦しませている、章子を愛していないといった事実は、まだ幼い章子の胸に衝撃的に迫った。
章子は目線を落として、星形をしたHBの鉛筆を使って『凹』という漢字を十回ノートに書いた。学校では過半数のクラスメイト達と同様にシャープペンシルを使用するが、自宅においては鉛筆を使うと決めていた。それは、正の親戚が鉛筆に携わる会社を経営しており、半年ほど前に倒産したせいで、有り余るほどの鉛筆をくれたためだった。
渚は、ふさふさしている黒色の塊に、出し過ぎた毛糸を巻きつけている。
夕飯は、渚が昨日提案し、事前に予約してある回転寿司店へ家族総出で赴くつもりだった。
運転席に正、助手席に章子、後部座席左側に渚、といった具合に乗り込み、ブルーグレーの先月正が購入したばかりの中古車は出発した。
章子は車酔いを防ぐため、両耳の穴にイヤホンを差し込んだ。家で聞く音量より少しボリュームを上げて音楽を流し、心だけでリズムをとる。
車が走行する中、章子はダンスミュージックを二曲程聞き終えると、車は家から一番近い、一皿税抜き価格百円の回転寿司店へとたどり着いた。
「到着です」
正は駐車場の白線で囲われた枠内へ車を正確に停止させた。
「ありがとう」
章子はシートベルトを外し、車の外へ出た。
店内へ入ると、夕食時だけあって混雑していたが、待たされることなく奥のテーブル席へと店員に案内された。
章子はオレンジ色の合皮張りのソファへ腰を下ろし、仕切りも兼ねている加工された木材の背もたれに背中を預けた。
タッチパネルを独り占めして一気に十品注文し顔を上げる。
「次、誰注文する?」
「お父さん、先注文しなよ。私、最後でいいから」
渚は遠慮して、正へ次のタッチパネル使用権を譲った。
「うん」
正は大人しく首を縦に振った。
章子は両親のやり取りを見届けてから、正へタッチパネルを手渡した。
注文品は、軽快な音楽が鳴り響いた後、レーンの上に載せられ運ばれてくる。最初に頼んだ、炙りサーモンとシメサバがレーンを流れてゆくのを見ると、章子は素早く手を伸ばして皿を取りテーブルの上に置いた。
醤油を小皿に刺してわさびを溶かし、そこにネタをつけ、シャリに重ねて夢中になって食べた。大好きなサーモンの他に、サイドメニューのラーメンやフライドポテト、茶碗蒸しを順次口の中へ押し込む。飲み込み、熱い緑茶を啜り、食道へと流し込んでゆく。
ふと、目の前に意識を向けると、正がアジを口に運んでいる姿を目撃した。
すると、箸で掴み上げたシャリの半分がこぼれた。
「あらっ」
正は女の子みたいな高い声を上げ、テーブルの上の皿に箸を置き、両手の平で洋服を撫で回しながら落としたものを探している。
その様子を、章子は肉親へ向けるべきでない冷酷な目つきで見てしまう。だが、凝視し続けるのは一線を画すと、数秒の内に視線を逸らして卓上へ視線を落とした。
「あらら、ないわね。どこへ行ったんでござんしょう」
正が章子の不機嫌に追い打ちをかけるように、一語一語に力を込めてはっきり喋る。それが、普段の正の言葉癖だった。そのため、正の発する言葉が聞こえないとか聞き取りづらいとか、そういったふうに感じたことは一度もなかった。
また、正はよく冗談を言うが、涙を流しながら笑うのは渚のみで、章子はまたふざけた物言いばかりしてと立腹するだけだった。渚は章子とは対照的に大きな瞳にぷっくりとした涙袋を持っており、「何かあると涙袋が大きいからすぐに涙が出てきちゃうの」と、聞くも涙語るも涙の日本ドラマを見て泣きながらそんな話をしていた。
しめのデザートにストロベリー&クリームケーキを食し、予想以上の美味しさに章子は渚にも、
「これメチャクチャ美味しいから食べてみて」
と絶賛して勧め、母娘で頬張った。
家族三人が平らげた寿司の皿は、全部で三十九皿。サイドメニューやデザートメニューは、二百円以上と高くついて総額は七千四百十六円だった。
渚がレジにて会計をしている間、正は財布も出さず「ごちそうさま」の一言も言わず、章子と渚を置いて一人店の外へ出た。
やっぱり。
外食する際はいつもそう。
章子は正へ言いたいことが山ほどあった。正からは男気も父性もまるで感じられず、放浪者のように定職に就かず浮世離れしている。せめて半分くらい金銭を出す余裕を見せて欲しい、と渚がこの間章子へ愚痴をこぼしたばかりだった。正は割り勘にする気配さえ見せず、渚の優しさに甘え、いち早く店を出ると外の夜風に当たっている。渚も生粋の長女気質で寂しがり屋なため、そんな正を受け入れる以外に生きてゆくことはできない、と多くのことを諦めていた。
結局、この日も渚が全額、自分の財布から身銭を切った。章子は、店員からお釣りを受けとる渚の横顔を、無知で正義感ばかり強い戦士にでもなったつもりで見つめていた。いつか自分が働けるようになったら、渚をレストランへ連れて行き食事代を奢ってやりたい、と章子は決意を固めるのだった。
車で家路をたどって帰宅すると、正は居間で着ている洋服を上下脱いで、鮮やかな青い長袖シャツと黒いタイツを着て柔軟体操をし始めた。屈伸をしたり、ふくらはぎを伸ばしたりなどした後、
「ちょっと走りに行ってくる」
と再び外へ出てゆく。
正は四年前、糖尿病を発症したのをきっかけに毎晩、自宅周辺を五キロメートル程ランニングするのが日課となっていた。昨晩は二十三分五一秒でゴールした、と走った直後の荒々しい息遣いをしながら章子に話し掛けてきた。
渚は、浴室の浴槽に蛇口を捻って適温の湯を出すと居間へ入った。
「あれ、お父さんどこ行っちゃった?」
「走りに行ったよ」
章子は、胸中に数滴垂らされた真っ黒な墨汁めいた闇を迎えながら返答した。児童向けの冒険小説から目線を外して、渚へ顔を向ける。
「そう」
渚は唇を引き結び、おもむろに章子の隣の椅子へ座った。
「お父さんも頑張るねえ。普通のサラリーマンのお父さんは毎日、仕事して夜は疲れて帰ってくるから運動しなくていいけど、お父さんは仕事がないから毎晩走ってるねえ」
渚の流れるような正への嫌味に、章子の血潮が不健全に荒く騒いだ。
「そうだね。お父さん、次の千春マラソン大会に出るのかな?」
千春マラソン大会は毎年、千春町が開催している地域のマラソン大会のことで、正は四年連続で参加している。
「うん。参加するみたいなこと言ってたよ」
「そっかあ」
章子は溜め息交じりに呟き、
「普通のサラリーマンのお父さんが良かったなあ」
と、短くぼやいた。
「お父さんも勝手よねえ」
渚の長年の徒労が溜まったような言い方に、章子は既に昂っていた興奮を煽られて、目を見開き、熱い刺激を体内へ受け入れた。
章子には分かった。これから本格的に始まるのだ、苦くて楽しい愚痴が。
「お父さんは家族の気持ちを考えない人だし、自分のことしか考えてない。だから、生活費も全額払わないし、家事も手伝わない。結婚前に『専業主婦になりたい』って言ったら『良いよ』って言ったのに。全然だめ。嘘ついた。年収一千万円あるって言ったのに、それも嘘。全部、嘘。貯金切り崩してるのお父さんに言えない。お父さんといると気分も悪くなるし、もう離婚したいのよ」
渚の声調には、今まで分からず屋との結婚生活を耐え抜いてきた悲壮感が漂っていた。
案の定、予想通りに愚痴は始まり、熱しやすく冷めやすい章子の胸の奥は火がつけられたかのように熱さを増した。
「結婚したり子どもが生まれたりしたら、変わってくれると思ってたけど全然そんなことない。人って変わらないねえ。本当にクズはクズのまま」
渚は白髪染めに頼りきりの茶髪頭を抱えている。
カリカリカリッ。テレビ台の下の方からにゃんがドライフードを食べる音がする。目を細めて美味しそうに食べるにゃんの癒やし動画が、場違いにも章子の脳裏で再生される。
「お母さん、大丈夫だよ。安心して。私が今、お母さんが話したこと全部お父さんに言ってあげる。夫婦なんだからお互い言いたい事を言い合って問題を解決しなきゃ」
章子は昂り上擦った調子で言う。
渚は頬杖をついて、流し目で章子を見つめた。
「そう? 章子、言ってくれる?」 目には疲労の色が滲んでいた。
「うん。絶対言うから」
章子は魂を込めて誓った。
「分かった。お願いね」
渚は額に右手を当てて弱々しく笑った。




