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三十、

 昼下がりの休日である土曜日に、一階の居間の椅子に座りスマホで通話をしていた渚は、即座に血相を変えた。

「章子、大変! 落ち着いて聞いて。お父さん、入院するよ!」

 通話を終えスマホを強く握りしめると、隣に座る章子へ神妙に告げる。

 母と娘の間に、稲光りのように緊張が走った。

「えっ、本当に?」

 章子は読書記録ノートの読書量のかさ増しを企んで読み始めた、薄い絵本のページを閉じた。けじめ中の正が栄養失調で倒れでもしたか、と目を丸くする。

「お父さん、腹痛であそこのほら、森川病院に行ってレントゲン撮ってもらったら盲腸って言われて、日本病院までタクシーで行って検査したら盲腸が悪化して腹膜炎になってたって」

 渚の話に、章子は息を呑み居てもたってもいられないとばかりに椅子から腰を浮かせた。盲腸と言われてぱっと思い浮かぶ原因はストレスだった。それならば、思い当たる節はいくらでもある。

「病院、行きたい!」

「うん。行こう。用意して」

 章子はすぐさま立ち上がると、椅子の背に掛けられているコートを羽織った。渚も玄関先のハンガーに掛けられているシルバーのコートを身にまとう。

「お父さん、お腹痛いの誰にも言えなくて、ずっと我慢してたんだって。早く日本病院に行こうよ」

 渚と章子は自宅を飛び出し、大急ぎで自転車を漕ぐと、近所にある総合病院へ向かった。

 自転車を走らせている間、冷たい風が吹き荒れて章子の皮膚を激しく打ちつけた。防寒用の肌着に長袖セーターとコートという出で立ちではあるが、北風は容赦なく確実に章子の体の熱を奪ってゆく。気温の低さが正の病気の深刻さを物語っているような気がして、章子の気持ちは暗然と塞がった。自然と眉間に皺が寄る。

 日本病院までは十分と掛からなかった。

 病院の自動ドアを通り抜けると、エアコンで管理された暖かい空気が章子と渚を包み込む。ホッとして夢心地になったのも束の間、漂う消毒液の匂いがすぐに章子を現実へと引き戻す。

 エントランスを過ぎて、エレベーターで二階まで上がった。

 ナースステーションにいる数人の看護師に軽く会釈をして、正のいる病室を探した。

「お父さんがいるのは、二○五号室」

 渚が呪文のように正の入院している病室の部屋番号を唱える。

「ここだ」

 いち早く部屋を見つけた章子が廊下を歩く足を止めた。

 渚と章子は、おそるおそる病室のドアをスライドさせて中へ入った。

 室内には、全部で六台のベッドがあった。正はその内の一台、出入り口付近の左側のベッドで眠っていた。

 渚と章子はそれぞれ熱い不安を胸に抱きながら、大部屋にいる他の入院患者達に頭を下げて、正のベッドへ駆け寄った。

 すると、眠っていたと思われた正の二つのまぶたがゆっくりと開いた。どうやら、目を閉じていただけだったようだ。

「お父さん、大丈夫?」

 渚が声量を抑えた優しい声音で呼び掛けると、

「ああ」

 正は力なく何度か小さく頷いてから返事をした。

 章子は久方ぶりに正の声を聞いた。その声は弱々しくて頼りなく、今にも消え入りそうだった。

「盲腸なの?」

「うん。明日手術する」

「なにか必要なものはある? 持ってくるよ」

「大丈夫。なにもいらない」

「ご飯はどうしてるの?」

「絶食」

「そっか、つらいね」

 正は生まれつき太りにくい体質で細身ではあるが、食べることが好きだった。けじめ中は栄養の偏った気ままな食生活をしていたが、それが今では、口を酸素マスクで塞がれ取らなければ自由に飲食もできず、絶食を強いられている。

 そのためか病気のせいか、章子は正の顔つきが以前と比べてだいぶ変わったように感じた。このまま土に還ろうとしているかのような死人めいた顔。頬はこけ、毛髪は薄くなり、頭頂部は禿げている。顔の表情も暗鬱として見る影もなく、明るさは消え失せ、哀愁だけが漂っている。

「お父さん、私達帰るね。ゆっくり休んでね。明日また来るから」

 正の体調を慮った渚が早めの別れを告げた。

「じゃあね、お父さん。またね」

 章子も手を振り別れを惜しむ。

「うん」

 正は苦痛により潤んだ瞳を隠すかのように数回まばたきをした。そこから、章子は生まれたての小鳥のような危うい弱さを見出だした。

 まさしく身につまされる想いがした。想いは深く伝染し、同じように隣に立っている渚も心痛から涙目になっている。

 踵を返して病室を出ると、渚は病棟の自動販売機で好物である桃のネクターを買った。

「章子、ごめんね。きっと全部、私が悪いの」

 渚が缶のプルタブに親指の先を引っかけて、耳に心地よい切れのある音を立てて飲み口を開けた。桃の香りが辺りに広がる。

「えっ?」

 章子は、急にどうしたというのだ、といった表情で渚を見る。

「ダメな両親を持って章子も苦労してるでしょ」

 渚が思い詰めたような暗い瞳で廊下の床へ視線を落とす。

「そんなこと……お母さんはダメなんかじゃないよ」

 章子は強く主張した。

「そう? そんなことないよ」

 今日の渚は、どこかおかしい。やけにネガティブな思考に傾倒している気がする。やはり、一応は婚姻関係を結んでいる正のことが心配なのだろうか。

「ダメなのは、私の方だし……」

 章子は自己否定感を全面に押し出した言い方をして俯いた。

「ううん、章子ちゃんは本当に良い子だよ。生まれてきてくれて本当にありがとう。お父さんも章子が生まれてきてくれた時手放しで喜んでたんだよ。お父さんは、ほら、愛情を表に出せない不器用なところがあるから……」

 渚はこれまで見たことのないほど穏やかに優しく微笑んだ。

 章子はそんな渚が少し恐ろしかった。考えたくはないけれど、不吉なことが起きる前兆のような気がした。

「私も頑張るから、章子ちゃんも頑張るんだよ。お友達を大切にしてね。いつもありがとう」

 渚の愛情を感受して色々な思いが、走馬灯のように章子の胸を駆け巡る。両親には決して言えないような墓場まで持っていくべき秘密を、急に吐露したくなる。それほど、自分は逸脱した行動をし過ぎた。

 私は、親不孝者だ。

 せっかくできた友達にも裏切られ、挙げ句の果て、あまりにも奇抜な復讐に走った。ところが、復讐はし返され、その時殴られた頭部の腫れは未だに引いていない。

 渚は今も、章子と円香の友達関係が継続していると思っている。そのことを思うと、胸が苦しくなると同時に大粒の涙が章子の頬を濡らした。

「それと、あんたのスマホは解約しといたからね。知らない人と連絡とっちゃダメよ」

「えっ」

 章子は目を見開き絶句した。

 渚には、すべてお見通しということだろうか。

 章子にとってスマホとはネットを見て暇を潰すのに欠かせないツールだが、よく考えてみれば学校にいる誰とも繋がりがない。章子が連絡先を知っているのは今や両親とタダシだけだった。

 渚とはたまにメールを交わすくらいだが、タダシとは頻繁にメールを交わしていた。スマホがないということはタダシとの決別を意味している。

 ふと、タダシの顔を思い浮かべた。鋭く整った目鼻立ちと余分な脂肪のついていないすっきりとした輪郭。章子の好みの顔だ。けれど、最後に会った日にタダシは章子に金銭を要求した。外見がいくら良くとも中身まで良いとは限らない。何よりタダシからは円香への情しか感じなかった。自分を愛してくれない人に執着するのは、時間の無駄でしかない。章子は苦虫を噛み潰したような顔をした。まるで憑き物が落ちたかのように、タダシへの恋慕が完全に尽きてゆくのを章子は感じた。

「この調子だと、お父さん、マラソン大会に出られないかもしれないね」

 渚が呟くように言った。

「そう言えば、もう再来週だっけ?」

 章子はマラソン大会の日時を記憶を手繰り寄せて思い出そうとした。

「そう、再来週の日曜日。お父さん本当についてないわね。参加費返ってくるのかしら」

「うーん、それは分からない」

「お父さんにも困ったものだね」

「そうだね」

「はぁ~。私、ちょっと銀行に行ってお金おろしてくるね。章子は先に帰ってて」

 渚が盛大に溜め息を吐く。

「えっ、なんで?」

「お父さんの病院代払わなくちゃ。まったく私が入院したらお父さんはお金出してくれるのかぁ。これだから、お父さんは……」

 渚は章子に背を向けて、桃の香りを連れエレベーターへ歩を進めながらも、何やらぶつぶつと一人でぼやいている。

 章子は、そんな渚の背中をぼんやりと見送りながらも、しばらくその場に立ち尽くしていた。ようやく、意識がはっきりしてくると、章子は急ぎ足で病院の駐輪場まで移動した。たどり着いた先で、正が気まぐれに買い与えてくれた爽やかな黄緑色の自転車を見つけて乗った。

 叩きつけるような向かい風を浴びながらの自転車での帰り道は、もうすぐ春が近付いてきているというのに寒かった。

 ふと、章子は首を右へ回して寺の掲示板を見た。そこには、名言が書かれた紙が月替わりで貼られている。

 自然と自転車のペダルを漕ぐ足が止まった。

『人は変われる。変えようのない過去や先の読めない未来に縛られるのではなく、今この瞬間を大切に生きよう!』

 半瞬、心を奪われた。

 後悔だらけの過去。不安まみれの未来。諦めてばかりの今、現在。そんな、暗雲を吹き飛ばしてくれるかのような名言に章子の目は釘付けになった。

 そうだ。前向きに考えて、気持ちを切り替えて、今を生きてゆこう。どうせ、もうすぐ千春専門学校を卒業するのだから心機一転、自分のことを誰も知らない人が集まる会社に入社したり、学校へ進学したりするのも良いだろう。そうすれば、欠点であった人前でのスピーチなどの克服もしやすくなるかもしれない。

 ただの言葉が、章子の傷付いた胸を癒すかのように、優しく染み渡ってゆく。

 私は、変わりたい!

 どうしても、変わりたい!

 変わって、この一度しかない人生を楽しみたい!

 一縷の希望の光が、章子の表情をぱあっと明るく照らしたような気がした。

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