二十九、
校庭の花壇の中で章子は一人、生い茂る草花と共生するかのように、しゃがみ込んでいた。
気が付いたらここにいた。陽は傾いていた。オレンジがかった赤い陽射しが、章子の泣き濡れた頬を照らしている。その色が一瞬血のように見えた。
章子は自らの頭部に不快で強烈な重苦しい違和感を覚えて、手で頭をゆっくり撫で回した。一箇所、二箇所、三箇所、次々と小さな盛り上がりがあることを痛みに震える繊細な指先で感じる。当たりどころが悪かったら死んでしまっていたかもしれない。そう懸念するほどに、年上集団の怨念のこもった暴力行為は凄まじいものだった。
ようやく落ち着きを取り戻した今頃になって、地獄から昇ってきた絶望が章子に忍び寄り心臓を鷲掴みにする。すると、僅かに残されていた活力が、最後の一滴まで搾り取るかのように、空っぽになるまで奪われてゆく。
抑鬱感から深く項垂れた視線の先に、健気に咲く紫色のパンジーの花弁が見えた。自然は偉大だ。目に入れただけで、心の刺々しさが薄らいでゆく。その紫色を目に焼き付けるかのように見つめていると、章子は千春専門学校に入学してすぐのある出来事について思い出した。
◆
章子は、保育園児の時から大人しく口下手で過度に恥ずかしがり屋だった。
季節が流れて、年も重ねて、千春専門学校に入学した。人前で声を出すことを促されたのは、一年生の時だった。
「それでは、まず、出欠確認をします。これから皆さんのお名前を呼ぶので、呼ばれた人は元気な声で『はい!』と返事をしてくださいね」
柔和な雰囲気をまとう雨宮先生が幼い生徒達全員に向けて呼びかける。
「それでは、行きますよ。相川咲恵さん」
「はい」
出席確認は、ア行から始まった。
章子は、名前を呼ばれて返事をするクラスメイト達の姿をざっと見回した。まるでエイリアンでも見ているかのような気持ちで、未知なるクラスメイト達の顔や声を情報として取り入れる。しかし、その情報は、あっという間に章子の脳を通過して残滓さえ落とさない。
章子は落ち着きなくそわそわしながら自分の番が来るのを待った。次第に、名前を呼ばれたクラスメイト達の人数が増えてゆく。
ハ行が終わりマ行へ入った。
「牧野大輔さん」
「はい!」
次だ。
章子は思わず武者震いした。今のところ、不思議と緊張は感じていない。このままうまくゆけば、雨宮先生が言っていた元気な声を出せるかもしれない。
「丸井章子さん」
来た。
自分の番がやって来たのだ。
章子は空気を存分に吸い込み肺を膨らませた。そして、右手を思い切り突き挙げて、
「はああーーーい!!!」
割れそうなほど太く大きく、全力で声を張り上げた。
時が止まった。
一斉に注目を浴びる。
しんと静まり返った教室の中で、章子は自分自身に驚いて目を大きく見開き、金魚のように口をパクパクと開閉した。
「丸井さん、元気いっぱいなお返事ありがとう。先生、今、丸井さんからたくさん元気をもらいました」
雨宮先生は、満面の笑みで章子を見つめながら優しく言った。
章子は赤面した。自分の発した先程の一声を深く恥じた。自分はなんてことをしてしまったのだろう。
全身が恐怖でガタガタと微動し出す。まるで、人一人殺害でもしてしまったかのように章子の胸は衝撃と後悔にうち震えた。
◆
その出来事以降、ちぐはぐな緘黙は始まった。それと同時に、よく知りもしない人から嫌われるという嫌われ者人生の劇が幕を開けた。
「私、丸井さんってすっごくわがままだと思うんだよね」
「分かるー。みんなだってスピーチは緊張するのに逃げてばっかりいて、本当に見てて腹立つ」
「だよねえ。それに、あの子さあ、この前話し掛けたら普通に喋ったよ? その調子でスピーチの時も話せよって感じ」
「あー、私、まじ丸井苦手だわ」
「うちもー」
男子だけでなく女子からも陰口を叩かれているのを章子は幾度か聞いてしまったことがある。優しく話し掛けてくれた女子が後日、友達と一緒に章子の悪口を言っている現場に遭遇したことも何度かあった。その度に深刻な悲しみに暮れたが、さすがに九年生にもなるとこういった人間不信による気持ちの乱れや落ち込みにも慣れてくる。
どんなに辛くても、どんなに恥をかいても、どんなに悔しくても人生は続いてゆくし、生きて行かなければならない。些事を大事に書き換えられていたとしても、声一つ上げられず、誤解を受けたまま時は無情にも過ぎてゆく。喋れないということは、意見や主張を全く持たない人形と同じだった。沈黙は金雄弁は銀と言うけれど、コミュニケーション能力の高い者がこの社会を回している。口達者こそが人生の勝者であり、弱者を食い物にする強者だ。頭が良くなければ、良い思いはできない。
紫色のパンジーが風になびいて、ゆらゆらと揺れている。その花をずっと眺めていると急に両目が痛くなって、章子は指でまぶたを擦った。泣き過ぎて涸れたと思っていた涙が零れて指を濡らす。
腫れ上がった頭部に鈍痛を感じながらも、章子は顔を上げて千春専門学校の校舎を見た。この白塗りの校舎には、生きづらさに喘ぎながらも嫌々通学した残酷な思い出があふれている。
章子は千春専門学校に入学した瞬間から、目に見えない非情なスクールカーストの包囲網に絡まった。生徒達は一人一人、強制的にピラミッド型スクールカーストの最上位から最下位までのいずれかに振り分けられる。それは、親の財力であったり、子どもの学力・容姿・性格・雰囲気・運動神経・コミュニケーション能力であったり、そういったもので量られるのかもしれない。
この地球上では、人生を謳歌している幸せ者がいる陰で、どう足掻いても上手く生きられないよう最初から仕組まれている不幸者が山のようにいる。
こんな世界は間違っている。もし神がいるとするならば、神は一体何をしているのだろう。公平な目で人間を見ているはずがない。気に入った人間の頭だけを優しく撫でて美味しいキャンディーを舐めさせ、嫌いな人間は死んだ方がましなくらいの阿鼻叫喚の生き地獄へと突き落とす。そんな、依怙贔屓の権化のような神は本当に存在しているのだろうか。
章子は、しゃがみ続けて痺れ過ぎた両脚をかばうように、苦しみ悶えながら花壇の中でゆっくりと立ち上がった。




