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二十八、

 学校以上に章子の神経が殺伐とする場所はない。

 まるで、醒めない悪夢でも見ているかのような事態に、章子の脳は急速に萎縮した。

 午前中は至って代わり映えのない普通の学校生活を送っていた。とは言うものの、クラスメイト達が向けてくる突き刺すような敵視や白眼視からは逃れられない。章子は、たった一人で敵陣に入って奮闘する武士にでもなったかのような居心地の悪さを覚えた。そんな極大な不安に怯える中、悲劇の臨界点到達は予期せず訪れた。こんなこと学園もののドラマの中でしかあり得ない出来事だと思っていた。

 章子は今、紛れもない報復を受けている。

 突然、章子よりも大人びた顔付きの複数の男女が、ちょうど担任のいない昼休みの時間を見計らって、千春専門学校九年D組の教室に乗り込み、

「ねえ、あなたって、もしかしてさあ、丸井章子さん? こっち来て。良いもの見せてあげるから」

 静かに自席に着いて読書に励んでいた章子に声を掛けた。

 章子は単行本に栞を挟んで、ゆっくり閉じてから声の主の方へ視線を遣った。

 目が合った途端に、ぞっとした。

 そこには、ただならない殺意を全身にまとった集団がいたからだ。

 鈍い章子でも瞬時に危険を察した。

 見るからに威厳と高圧を放つ年上の男女複数名に逆らうことはできない、と章子は深く頷き大人しく言うことに従った。前後左右をがっちり囲まれながら、教室を出て廊下を歩いた。

 連れていかれたのは、人気のない古びた匂いが充満する多目的室の中だった。章子はあえて無知を装い、目をキョロキョロさせて良いものを探す素振りをした。

「バカ! なんかくれるって期待したの? やるわけねーだろ。笹木野円香っているでしょ。私、その子の姉」

 章子は円香の姉をまじまじと凝視した。そこから、円香と似通っている点を見つけ出そうとした。

「人の顔ジロジロ見てんじゃねえ! そういうの親から教えてもらわなかったの? 生意気なんだよ!」

 円香の姉は、親の仇でも見るかのような目で章子を睨みつけた。

 姉は円香より身長が高い。顔の輪郭は円香同様整ってはいるが、おかめのようなふくよかさと血色の良さがある。姉は顔だけ見れば人の良さそうな善人面をしていた。人は見かけによらない。

 恐ろしいまでに寛容さのない復讐心に操られ、年上集団の五人は皆誰もが瞳に陰湿な加虐性を煌めかせている。多目的室内は、いつの間にか章子の知っている穏やかで寂れた空間ではなくなっていた。室内にいる人間の雰囲気や言動によって、簡単に場の空気は変わってしまう。

 あっという間に、章子は取り囲まれて逃げ場を失った。

「こいつのこと一目見てきもいって思った」

 五人のうち一人の男子が笑いながら一歩近付き、脚を上げ運動靴の底で章子の腹を蹴った。

 突然のことだった。

 ぐふっ。

 息が止まる。

 苦しい。

 だが、章子はこれくらいならば慣れていると思った。間中の挨拶代わりのジャブや渚の情緒不安定な際の蹴りと同程度の威力だ。

 しかし、予想外だった。口で罵るだけでは事足りず、まさか暴力にまで進展してゆくとは章子は思いもよらなかった。

 笑いながら蹴りを入れた男子は、表情を変えずに長い脚を下ろした。彼は、この状況を肯定している。自分の暴力行為は正当だと信じ込んでいる。そう察した章子は、急速に距離を縮めてこちらをのみ込む大津波が来たかのように、生命の危機まで感じて思わず慄然とした。

 今度は、姉が距離を詰める。吐息が章子の顔にかかりそうなほど接近する。

 姉は章子の前髪を乱暴に掴むと、

「全部、円香から聞いた。絶対、許さない。私の妹、苛めんじゃねえよ」

 殺意のこもった表情と声質と視線で、章子を威嚇した。

「ほら、良いものあげるよ、お年玉」

 姉は険しい表情を解いて、底意地の悪い微笑を浮かべ章子の前髪から手を離すと、固いげんこつを作った。そして、その拳を章子の頭頂部めがけて何度も何度も何度も振り下ろした。

 ゴツン、ガツン、ゴツン、ガツン。

 一発一発殴られる度に頭の中で鐘が鳴り衝撃が走る。脳裏でお星様の光が激しく点滅した。

 感じたのは、単純な身体的苦痛だけではない。

 憐憫

 不満

 後悔

 嫌悪

 章子は有無を言わさず与えられる苦痛をこらえつつ、内に秘めたる心は慟哭していた。

 胸が張り裂けそうになる精神的苦痛が、体の隅々にまで行き渡り浸透してゆく。

 章子は頭を手の平で覆って守りの体勢をとる。

 和らぐ殴打音。

 ホッとしたのも束の間、

「逃げんじゃねーぞ!」

 ゴツン、ガツン、ゴツン、ガツン。

 複数の人間が、頭頂部に狙いを定めながら、それを庇う章子の手の甲を殴った。その振動が章子の頭とそれを支える首を揺らす。

「こいつ今、笑った! 叩かれて喜んでる。キモすぎじゃね? イカれてるわ」

 年上集団の男子はそう言うと、同意を求めるかのように周囲を見回した。残りの四人は、全員陰湿な笑みを口元にたたえながら頷いた。

「お前が友達が一人もできないくらい性悪でいじめ癖の抜けない加害者だって、この学校中のみんなが知ってるよ」

 人の口に戸は立てられないとばかりに、章子の悪事は千里を走ったようだった。

「悪いことしたらちゃんとバチがあたるんだよ」

 円香の姉は一心不乱に暴力を振るいながら罵声も浴びせる。

「……い、い、い、いた、い」

 章子は殴られ蹴られる度に、自分の精神年齢が徐々に後退してゆくように感じた。言葉を覚えたての幼児にでもなったかのような拙さで、痛みを声に出して訴える。

 だが、本当はやっぱりそれほど痛くはなかった。痛みよりも悲しみの方が強かった。精神的苦痛が身体的苦痛を超える。深層まで染み込むようなその悲しみは、両目から涙となって溢れた。

「おら、立て!」

 年上男子が章子の首根っこを掴んで、無理矢理その場に立たせた。

 章子は、体幹を鍛えていない上半身をふらつかせながら、並べられてある机の一つにもたれかかった。

 すると、そのまま年上女子から顔の側面を机に押し付けられる。年季の入った机から強烈に漂う木の匂い。机の表面を、章子の頬を流れてゆく涙が濡らす。

「何、泣いてんだよ!」

「涙が汚い」

「泣きたいのは円香の方。あんたは加害者のくせに被害者面してんじゃねえよ!!」

 カタッ。

 小気味の良い音がする。

 パフッ。

 その後、柔らかい物同士がぶつかり合うような音が聞こえた。

 章子が下へ落ちていた視線をわずかに持ち上げると、年上女子が二つの黒板消しを両手に持って、陰気に染まった魅惑的な笑みを浮かべているのが見えた。女子はそのまま章子の方へ近寄り、まるで体育の授業でリレーのバトン渡しでもするかのような気軽さで、年上男子に黒板消しを手渡した。

「ほ~ら、給食の後の特別なデザートタイムだよ」

 年上男子の猫なで声が耳元で聞こえ、章子は目をきつくつむって身を強張らせた。

 突然、暗闇の中でたくさんの粉が舞う気配を感じた瞬間、息苦しさを誘う。粉っぽい空気に、規則正しく呼吸をすることを躊躇させられる。

 章子がおそるおそる目を開けると、顔の側面を押し付けられていた机のもう半分が一面、本来の木の色を失っていた。まるで、色づけされた雪のように、白色と黄色と赤色の粉が混じり合い机に積もっていた。

 これは何だ? 

 先程まで黒板消しを持っていたとの姿が思い出される。黒板消しから連想されるものと言えば、チョークだ。そのチョークの粉まみれになっている机は、章子の息苦しさの原因であり、年上集団による悪意の産物でもある。

 不幸中の幸いにも目を閉じていたことで、チョークの粉が章子の目に入るということはなかった。

「おい、粉を舐めろ」

 章子の心臓は暴力と暴言により、休みなくいたぶられていた。そんな継続的な恐怖の為に、章子は抵抗する気力を完全に失いながらも命令には唯々諾々と従った。

 舌を机の表面に時間をかけてゆっくりと這わせてゆく。水気のない乾いたチョークの粉の舌触りと味は無味乾燥で、無論美味しさは微塵も感じられない。そもそも、これは食べ物ではない。こんなものを口にしては健康を害しそうだ。

「こいつ人間じゃない」

「まじ笑うわ。今度からお前はチョークを主食にしろ」

 章子は涙を流しながらチョークの粉を食べた。取り囲んでいる年上集団はその様子を面白くて仕方がないといった具合で眺めている。

 恐らく、円香と姉は固い姉妹愛で結ばれているのだろう。章子は眉間に皺を寄せた。“愛”や“絆”そんな目に見えないけれど大切だと一般的に言われているもので、一度で良いから他者と結ばれてみたかった。そんなもの、章子では一生手に入れることなどできやしないと分かっている。だが、愛情や絆を知っていながらここまで冷血になれるとは、姉は元々の心の貧しさを提示しているようなものだ。

 嫌々チョークの粉の味気のないまずさと向き合いながら、章子の頭の中では午前中に行われた卒業式のリハーサルの際に流れた『蛍の光』がこだましていた。

 泥水を啜るかのような専門学校生活で、章子が大勢の人前に立って何かを発表するということは、これまでに一度もなかった。そのくせ、時と場合によっては話すことができるという矛盾点がクラスメイト達を苛立たせていたことは明白だった。人から好かれることは少なく、一部からはひどく嫌われ、そして、多くの同級生達からは下に見られざるをえなかった。

 そんな章子が次々と悪目立ちしてしまうような問題を起こした。クラスメイト達からは日常的に嘲笑われ、蔑まされ、虐げられ、章子の学校生活はまさに地獄だった。誰にも守られず剥き出しになった心が、無慈悲で冷厳な現実にあてられてひりひりと痛む毎日だった。目に見えない窮屈な檻の中にいれられているようでもあった。

 耐えに耐え、浮かぶ瀬がない専門学校生活を卒業する日が、ついに間近まで迫って来ている。

 章子は何処と無く刹那的で物憂げな曲調の『蛍の光』を聞き流しながら、自然と脳裏に

 “理不尽な世界”

 という文字が浮かび上がるのを見た。

 理不尽とは悪だ。悪とは正義を持って闘わなければならない。それなのにも関わらず、章子は年上集団から暴力暴言の被害者になることを強いられても、何一つ抵抗することが出来なかった。

 叩きやすいものを叩く。世間はそんな有象無象の連中でごった返している。章子だって御多分に洩れない。円香が援助交際をしていると言う弱みを握り心の隙を見つけたことで、彼女を追い詰めようと企み実行に移した。とどのつまり、人を選んで卑劣な方法を用いて反撃することしかができなかった。

 今、章子に私刑を加えている年上集団と章子は同類。そう、同じ穴の狢なのだ。

 チョークの粉を舐める為に動かし続けていた舌が、疲弊して音を上げている。パサついた粉が喉にまとわりついて咳き込んだ。

 凄絶な惨めさの中で思考は進む。

 昨日、運悪く聞こえたクラスメイト達の陰口の言葉が、ぐるりぐるりと脳の裏側全体を舐め回すように反響する。

「丸井の場合、いじめられてもしょうがなくない? 自分でいじめられても当然なきっかけ作ってんだぜ?」

「な。それにさあ、あいついじめ癖あるよな」

「バカと性悪と根暗とブスは死ぬまで治んないんだろ」

「学校の大事な持ち物に落書きするって、立派な犯罪行為だよな。丸井はいじめ加害者兼犯罪者だよ」

 以前、インターネットで目にしたことがある。いじめについてのニュース記事に対するコメント。そこにはいじめ加害者への辛辣な言葉が多く並んでいた。いじめ加害者に対する声は、ネットの中においても厳しい。

 加害者は絶対に幸せになってはいけない。明るく笑う、調子に乗ってはしゃぐ、楽しく世間話をする、美味しい食物を堪能する、人生を楽しむ。決して、そのようなことがこれから先の人生にあってはならない。常に罪悪感を抱き続け、反省し続けること。それがいじめ加害者に対する世間一般の要求なのだ。

 章子は、唐突にタダシに会いたくてたまらなくなった。

 型破りなタダシに会って、無茶苦茶なきつい抱擁をされて、章子が犯した過去の数々の罪を浄化してもらいたかった。

 だが、何せ今の章子には渚に奪われたがためにスマホがない。連絡手段がないゆえにタダシに会えない。心の安全基地を失い癒しがない。ストレス発散できず楽しみがない。という、まるで蟻地獄のように抜け出せない負のスパイラルに陥っているのだ。

 おまけに今のこの状況は惨憺たるものだ。下手をすれば、このまま円香の姉達に殺されてしまうかもしれない。

「もしもーし、人間ですかー?」

「怪物だから、チョークの粉おいちいもんねー?」

「俺、スマホで動画撮ろ」

 章子は涙を止めどなく流し頬をびしょびしょに濡らしながら、年上集団の悪意に満ちた期待に応えようとチョークの粉を必死で舐め続けた。

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