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二十七、

 章子は一人寄る辺ない気持ちで、体操袋を持って真っ直ぐ多目的室へ向かった。室内は誰もいない。すでに、もぬけの殻だった。それも当然、章子はあえて少し時間に遅れて室内へ足を踏み入れた。致し方なく用心には用心を重ねて、そうしなければならなかった。誰にも隙を見せてはならなかった。

 円香をおとしめた人間は、上位生徒たちの独断と偏見により、犯人はおそらく丸井章子だろうと断定された。その際に、助け船を出して上位男子と戦ってくれた多くの中位女子が「丸井さんは何もしてないんでしょ?」と問いかけて窮地から救おうとしてくれたが、それが章子には痛い親切だった。章子はうんともすんとも答えられず、ただ首を深く下げて沈黙するのみだった。その結果、クラスメイトの過半数が今回の黒板事件を契機に章子の敵に回った。あの高木ですら、章子に気さくに声を掛けることはなくなった。

 章子は体操袋の中へ手を突っ込んで紅白帽子を抜き取った。案の定、紅白帽子の布には、はさみで切ったかのような大きな穴がいくつも開いていた。きっと、同級生の何者かの仕業にちがいない。体操服の上下はまだ無事だったが、帽子がないことで体育教師から「忘れ物が多すぎる」と叱責を受ける日々が続き、それもまた章子のストレスの種となっていた。

 それでも、一時限目の体育の授業に間に合うよう着替えを済ませると、校庭に出て背の順で整列をした。

「今日は五十メートル走をします。二人ずつレーンに入ってください。先生がここからホイッスルを鳴らしますので、それがスタートの合図です。全力で走ってください」

 本鈴が鳴り、ラジオ体操が終わると、体育教師が身振りも交えて声を張り上げる。

 章子は寒さだけでは説明がつかないくらい、全身に刺すような緊張の冷気を浴びていた。暫時、顔は強ばり体も硬直した。

 章子は走ることを非常に不得意としていた。速く走れないのもそうだが、走っている際の姿が不恰好だと、上位女子に加え中位女子、あまつさえ下位女子にまで大笑いされたことがあった。

 章子は学年を重ねるごとに、人から笑われることを何よりも恐れるようになっていた。笑われるとは、すなわち、経験上嫌がらせが始まるサインであるような気がしたからだ。

 体育教師が鳴らすホイッスルの音が響く。地面を蹴る力強い音が連続して聞こえた。待っている間、クラスメイト達は全員三角座りをしている。

 すると、突然、何の前触れもなく、

「丸井~!! 丸井が走るの楽しみにしてるよ!!」

 上位女子集団の一人に大声で揶揄され、章子は危機感を覚えながらも、ぼおっと頬を赤く染めて目を伏せた。怒りと恥辱を感じているのに、何も言い返せない自分が情けなかった。

 走る順番は、とんとん拍子でやって来る。緊張感が全身を包んで皮膚の奥まで浸透してゆく。章子は逃げたい気持ちを、上位女子から投げられた揶揄の言葉を思い出して、額面通り受け取ることで抑え込んだ。

 とうとう順番が訪れた。章子は処刑台に上がる死刑囚にでもなった気持ちで第一レーンのスタートラインに立った。端から見たら大袈裟とも思えるほど、章子の脚はこの時点でさえ不自然なほどに大きく震えだす。もはや、この脚で走りきる自信がない。

「みんな注目! 笹木野円香さんを登校拒否に追い込んだ丸井章子さんが今から恥を晒しまあす」

「転んで死ね」

「丸井の脚、震えてる」

「あいつの走り方、滑稽すぎてウケるから、私、目ェ逸らさないようにしよ~っと」

 可愛い口から可愛い声を出す上位女子たちだが、発する言葉は微塵の容赦もなく陰険だ。

 章子の全身を怖気にも似た感覚の細かい震えが駆け上がった。

 前方に視線を遣ると、第三レーンのスタートラインに共に走る中位女子が立っている。

 章子の心臓は、飛び出そうになるほどバクバクと激しく音を立てた。

「行きますよー。位置について、用意」

 ピッ。

 体育教師が流れるようにスムーズな動作でホイッスルを鳴らした。

 章子は駆け出した。右手と右足を懸命に前へと繰りだす。その時、左手と左足は後ろへ引っ込める。次はその反対。早く走るために腿を高くあげ、腕は限界まで大きく振った。同じ手足が出てしまうのは、何度体育教師から注意されても一向に治らなかった。

 第一レーンの二つの白線からはみ出さないよう気に留めながら、章子は全力で走った。聞こえてくるのは風を切る音と地面を蹴る音だけだったが、カーブを曲がり見えてきたものは、ゴール脇で章子を指差して嘲笑う女子たちの姿だった。

 それを見て、章子は突然糸が切れたあやつり人形にでもなったかのように脱力した。急に走れなくなり、ふらふらよろめきながらその場で立ち止まる。かと思いきや、膝から崩れ落ちた。章子は四足歩行の動物にでもなったかのように、そのまま四つん這いになった。

 その様子を見て、体育教師がすぐさま章子の元へと駆け寄る。

「丸井さん、どうした? 大丈夫?」

 章子は体育教師の問いかけには答えず、四つん這いのまま顔を上げてゴールを見た。相変わらず、章子を指差して耳打ちをしながら嘲笑う女子たちがいた。その中には花田の姿もあったが、いつも隣にいるはずの円香の姿がそこにはない。円香はあの黒板事件以降、学校を頻繁に休むようになり、ついには不登校になって、姿をからきし見なくなった。

「おバカちゃん、なんで走るのやめちゃったんだろ?」

「知らない。自分の走る姿が急に恥ずかしくなったんじゃない?」

「丸井、ダサすぎ! キモい! キモい! キモい!」

「ちゃんと走りなよ~。つまんないじゃん」

 女子達の声がこちらまで聞こえてきて、章子は惨めさから今すぐにでも消えたくなった。

 自分は見世物なんかじゃない。

 自分の持てる力を振り絞っての精一杯の走りを笑われることは、章子にとって千春専門学校での居場所の無さを実感すると同時に、自己否定感がさらに強まってゆくかのように感じた。

 章子は時間をかけず、体育教師の手を借りながらすぐに立ち上がると、皮膚に付着した茶色い土を払い落とした。その際に、我慢できる程度だが膝と肘に強い痛みを感じた。とりあえず前進しようと試みたけれど、手足が動かない。

 女子達の好奇の視線をひしひしと全身で浴びながら、章子はもういやだと内心泣き言を吐いた。

 彼女達が章子へ向ける視線は、日増しに嗜虐的になってゆくようだった。まるで、円香を日常的にこっぴどく苛めた加害者の失敗をみんなで嘲笑っているかのようなーー。それだけ、先日、章子が犯した罪は重かったのだ。

 不確かな悪い噂と一緒に黒板事件の一件が、まるで流行り病が蔓延してゆくように学校中を一人歩きしているという考えは、単なる思い過ごしではないのかもしれない。噂が波及するように全校生徒に伝わってゆくのも時間の問題だろう。藪から棒に込み上げてくる被害者意識は邪魔でしかなく、章子は孤独に沮喪した。

 そして、ついに、章子の中で今まで頑張って耐えてきた我慢の糸がぷつりと切れた。つまり、我慢の限界を越えてしまったのだ。章子は途端に、思い切りやさぐれた。

 どうせ、頑張ったって何の意味もない。早く走れる訳ではないし、頑張れば頑張るほど惨めになるだけだ。全力で走っても転んでも、何をしたって笑われる。それならば、いっそーー。

 章子は怪我をした箇所をかばいながらも、捨て鉢になり、いい加減に手足を振って競歩し始めた。端から見たら、これさえも滑稽に見えたかもしれない。

「バカみたい。普通に走れよ」

「なんか、ウケるよね?」

「もう、自棄になっちゃってるんだよ」

「本当にバカだねえ」

 ゴール付近にいる女子達は、情のない冷笑を並べながら章子を見ている。彼女たちの表情と会話を見聞きして、章子は自らを安売りした後悔で鼻の奥がつんっとして目が痛んだ。視界が潤み、小さな涙の粒が零れる。

 悔しさから拳に自然と力が入る。ここにいる女子たちの誰よりも今、家族や自分自身に慢性的な問題を抱え、苦悩していると思えるのに、章子という人間があまりにも無様すぎて笑われている。

「あと少しだよ、丸井さん。最後まで頑張れ」

 体育教師がすぐ近くで優しく叫んだ。

 章子はその叫びを聞いた瞬間、体育教師からは見限られていなかったのだと、この上ない喜びを覚えて体が震えた。涙目に向かい風を取り込みながら、競歩から小走りへと切り替えると、ようやくゴールを切った。

「丸井さんは五十一秒一四。よく走りきったね」

 体育教師はタイマーを見た後、顔を上げ章子の目を見ながらタイムを伝える。その表情には、とびきりの労りが潜んでいるような気がした。

「保健委員さんいる? 丸井さんを保健室まで連れて行ってあげて。丸井さんは保健の先生に手当てしてもらったら校庭には戻らず、そのまま着替えて教室に戻って良いからね」

 体育教師の指示で、先程まで上位女子の集団に交じって章子を指差し嘲笑っていた保健委員が、嘲笑を消して章子の元へ駆け寄ってくる。

「大丈夫?」

 顔に心配げな表情の仮面をはりつけて声をかけてくる保健委員に、章子は身構えるように自分の殻に閉じ籠りながら微かに頷いた。保健委員は、何度も斜め後ろにいる章子の様子をちらちら見ながら少し先を行く。

 保健室は一階の校舎に入ってすぐの所に位置している。

 保健委員が保健室の引き戸を開けると、保健室には生徒が一人もいなかった。痩せ形で神経質そうな顔つきをした女性の保健の先生が、丸椅子から立ち上がり二人を出迎えた。

「あら、この間の……今日は、どうしたの?」

 保健の先生は、鋭利で切れ長の目の奥をきらりと光らせ、章子を見た。章子は、この観察眼優れた眼前の女性が苦手だった。

 先日、黒板事件の疑惑から逃れるために仮病をつかったあの時、ものの数秒で章子の嘘を見抜いた彼女は「大丈夫よ。それくらいみんな我慢してるんだから早く教室に戻りなさい」と冷厳にも言い放った。保健の先生なのに全然優しくないではないかと、章子は心の中で憤激した。

 だが、今回は本当に肘と膝に外傷を負っている。果たして、これから一体どんな対応をされるのだろうか。不安の塊を胸中で増殖させながら章子はうつむいて、保健の先生のきつい視線と自分自身の気弱な視線がかち合うのを避けた。

「体育の授業で五〇メートル走してたんですけど、その時に倒れちゃって」

 一向に口を開こうとしない章子の代わりに、保健委員が事の経緯を説明する。

「あらぁ、随分派手に倒れたね。痛いでしょ」

 保健の先生が怪我した箇所を見ながら言い、章子を背もたれのないソファへ座らせると、消毒を施した。章子は痛みに悶絶しながらも、痛がっている姿が表に出ないよう必死で堪えた。

「じゃあ、私はこれで」

 そう言うと、保健委員は踵を返して体育の授業へと戻って行った。章子は保健委員の去りゆく背中に向かって頭を下げた。

 テキパキと怪我の手当てをしてゆく保健の先生の予想外に優しい対応に、微妙な感動を覚えながら章子は心身共に満身創痍だった。引いたはずの涙が再度、目を充血させようと隙を狙っているかのようだった。

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