二十六、
章子が二度寝した寝ぼけ眼を擦りながらリュックサックを背負って九年D組の教室へ入る頃には、室内は既に形容しがたい悪い空気が充満していた。怪訝な顔をする者、耳打ちをする者、驚きの表情を浮かべる者、笑みをこぼす者。いずれも他者の恥部を詮索したいというよこしまな気持ちが、表面上に見え隠れしている。
十人十色。様々な表情を見せるクラスメイト達を尻目に、章子は取り澄ました顔でまっすぐ自分の席へ着いた。けれど、その外見とは裏腹に、章子は寄せては返す波のように迫る罪悪感により今にも卒倒しそうだった。それでも、体内で暴れ玉のように拍動を強める自らの心臓が、体外へ出ていきたがるのを平然とした面持ちで隠し抜いていた。
途端に、澱んだざわめきが濃くなった。
章子が振り返って見た先に、この場の主役であり、悲劇のヒロインでもある、笹木野円香が顔面を蒼白にして教室後方で立ち尽くしていた。どうやら、前方の黒板に書かれている文字を見て驚愕しているようだった。
章子は心の中で、自ら黒板に書いた文字を読んだ。
『笹木野円香は円光女』
その言葉の強さ、衝撃さ。書いた張本人でさえ目が眩む。
教室内にいるクラスメイト全員が見ているのだと思うと、章子は急に窒息でも起きたかのように自らの喉を両手で包み込んだ。鬱屈として、喉の奥から蛆やら毛虫やら得体の知れないものが込み上げて死滅してゆくような不快感を抑え込みながら強大な不安に押し潰されそうになった。
まただ。また、悪目立ちしてしまっている気がする。発覚すれば一巻の終わりだ。
章子は自分自身の浅慮に深く落胆した。後悔ばかりが身に染みる。こんな報復の仕方、最初から間違っていたのだ。どんなに周囲から叩かれていたとしても、どんなにこけにされていたとしても、スクールカースト最下位は最下位らしくただひたすらに、こらえていなくてはいけなかった。そうすることこそが正しい最下位の有り方だと周囲は思っているはずだし、何より事を荒立たせないためにはそれが最適解だった。
章子は俯いた顔を上げて円香を見た。円香は今現在の出来事が現実に起きていることだとは信じられない様子で、不安げに眼球を彷徨わせ、こぼれんばかりに目を見張っている。
章子はその表情を見て、タダシの言う円香と章子のクラスメイトである円香は、同一人物なのだということを確信せざるをえなかった。その事実に改めて章子は驚いた。こんな偶然、一体世の中にどれくらいの確率で転がっているのだろうか。いや、こんな偶然の一致そうそうあってはならない。
「何これ……?」
遅れて後方の引き戸から教室に入ってきた花田が呆然としながら呟いた。
続々と九年D組の教室内にクラスメイト達が入ってくる。
「えっ、ヤバッ!」
「何これ? 怖すぎ!」
「これって、円香のことなの?」
「なんか、文字がキモすぎるんですけど」
「何者かの執念を感じる……」
誰しもが黒板に力強く書かれた極太文字の威圧感にたじろいだ。
花田は事実確認をするかのように、すぐさま棒立ちになったままの円香へ視線を送る。
「ねえ、円香。これ、一体どういうことなの?」
花田の不安定で感情的な声質の中には、円香を信じたいという気持ちが含まれている。
すると、青ざめた表情の円香は弾かれたように駆け出した。素早く体を動かして、黒板の前まで行くと、黒板消しを使い白色チョークで書かれた文字を荒々しく消してゆく。
その様子を見て、花田も目を覚ましたのか、後へ続き円香と同様に、書かれた文字の痕跡まで消すように、黒板消しを動かした。
細々と動く二人の背中や消されてゆく黒板の文字に注視を注ぐクラスメイト達は、皆一様にでくの坊のようになって固唾を呑んでいる。
ようやく、すべての文字が消されると、
「こんなデタラメ書いたの誰!?」
息遣い荒く、花田が教室にいるクラスメイト達の顔を一人一人見て、犯人捜しを始めた。
しんと静けさが波及したのも束の間、
「もちろん俺ではない」
「俺も違う」
「私も、こんなひどいこと書かないよ」
数名が口元を巧妙に分かりづらく緩ませながら眉間に皺を寄せ、花田の質問に返答した。猫が空腹時に脇目も振らず大好物のウェットフードに飛びつくように、クラスメイト達はすぐにでも今起きている事件の概要を周囲に流布したくてたまらないといった様子だ。
こんな時ほど、人間が無邪気に醜くなる瞬間はない。円香と深い繋がりのあるクラスメイト達以外の本音は、残酷だ。皆、芽生え始めたあどけない嗜虐を持て余している。
「笹木野? おい! 大丈夫か?」
中位男子の声を受け、周囲は一斉に円香へ視線を向ける。
俯き加減で着席している円香は、突然、見ていられないくらい、劇的に、病的に、言い逃れできないほど不自然に、眼球を、唇を、首を、頭を、震わせ始めた。肺に入った空気がすぐに抜けてしまうのか、肩で苦しそうに呼吸をしている。まるで、ロボットに取り付けられているネジが徐々に緩んで、壊れてゆく過程を見ているようだ。呼吸する回数は頻繁、おそらく脈拍数も高いだろう。
章子は理解した。今、この教室内にいるクラスメイト達の誰よりも、円香の弾け飛びそうな青い心情を分かってあげられるのは、章子をおいて他にいない。
円香はただ、章子と同じように無知で世間知らずで、だけど心の奥の一部分に無辺際な闇を抱く、人一倍早く大人になりたがって無理な背伸びをしている、そんなどこにでもいるような普通の女の子ではないかーーそう、正道を踏み外してしまったことさえ除けば。
「私は、大丈夫……だよ」
円香は明るい声質で一声を放ち、こんな状況下でさえ微笑もうとするが、平静さを取り繕うために無理をしている様子が露骨に見えて痛々しい。
「あれー、みんな深刻な顔してどうしたの? 何かあった?」
突如、神出鬼没のように現れた担任の呑気な声が、場違いにも教室中に行き渡り、室内は静まり返った。
花田が担任の元へ駆け寄り耳打ちしている。事のあらましでも説明しているのだろうか。
担任は花田に真剣な眼差しを向け頷いた後、完全に言葉を失っている円香を見て、
「先生は、これから笹木野さんと面談する予定があるので職員室へ行きますね。皆さんはその間、自習していてください」
と、学生達を見回して言うと、円香の肩を抱いて教室を後にした。
被害者と権力者の消えた九年D組の教室内は、静寂から一気に騒然へ。天地をひっくり返したかのような大騒ぎへと変貌した。
「えー、あれ何だったの。本当なの?」
「あの文字、ヤバくない? 誰が書いたんだろ」
「漢字違うけど、意味あれだよね?」
「分かんないけど、事実じゃないでしょ」
スクールカースト中位女子である円香の転落に、教室内は異様とも言えるほどざわついた。
中位女子の円香が、不在にも関わらず、今や悪い注目の的となって目立っている。これまでずっと悪目立ちし続けてきたのは、最下位である章子ただ一人だった。黒板の前に出て声を出すことすらできず、ひたすらに立ち尽くすことしかできない章子。そんな章子を、円香は今まで感情の読みにくい薄ら笑いを口元に浮かべながら見つめていた。その笑みは円香と交流してゆくうちに、変わっていった。それは、無色透明だった笑みの色に徐々に汚らしい茶や黒の絵の具が複雑に混じっていった。汚ならしい色の正体は恐らく嫌悪感、底意地の悪さ、爽快感から成り立つ、紛れもない嘲笑だった。
円香の汚れた笑みの本質に気が付いた瞬間、章子は目を大きく見開き、激しい緊張と怒りに身を包まれながら小刻みに全身を震わした。
すると、
「おい、丸井!!! お前、何、笑ってんだよっ!!!」
上位男子が章子を晒し者にするかのように、教室内にいる誰もが聞き漏らすことのないような大声を上げた。
章子は決して笑みなどこぼしていない。それなのに、今回も分かってもらえなかった。誤解されやすいところは小さな時から変わらない。
クラスメイト達は、先ほどまで円香に向けていた無邪気な嗜虐の視線を、章子へ向ける。
「もしかして、丸井が黒板に文字書いたんじゃね?」
「うわ、またバカ井かよ。もしそうだったら、まじで引くわ」
「言われて見れば、丸井の書く字と筆跡が似てる気が……」
「おお! 名探偵、登場」
「笹木野、マジかわいそう……」
「問題行動ばかり起こす丸井。陰湿すぎて頭腐ってんな」
クラスメイトの上位男子達を中心に周囲のひんしゅくを買う章子は、緊張や怒りなどすっかり吹き飛んで、自らの両手を机の上で固く握りしめていた。
罵言を放つ方は、まるで酒に酔って正気を失っているかのように我を忘れている。仲間との罵詈雑言の連携を心から楽しんでいる。
悪さした人を批判することで自分の中にある善良さを確認でき、批判することに快感を得てしまう。一種の中毒症状だ。この症状に章子は身に覚えがあった。する側もされる側も両方あった。
「ちょっと、やめな! 最近みんな、おかしいよ。丸井さんのことばっか攻撃してさ。なんで丸井さんがやったって決めつけるの? 目撃したわけでもないんでしょ? そんなのおかしいよ」
中位女子が珍しく助け船を出した。
章子は思わず俯いていた顔を上げそうになった。そうだ。まだ、自分がやったという証拠は何もないはずだ。それならば、堂々としていればいい。章子は、ナメクジに塩をかけると身を縮ませるように、体を一瞬よじらせながら背筋を丸めた。
「そうだよ。丸井さんが可哀想」
「男子、サイテー。少しは言い方考えろよ。可哀想っていう気持ちが欠落してるの?」
章子は視線を落とし、無実の罪を着せられた被害者にでもなったかのように、精一杯しおらしく演じて何度もまばたきを繰り返した。
「男子って、単純でお子様だよね。丸井さん、あんな奴らの言うこと気にする必要ないよ」
「大丈夫?」
高木が中位女子数名と共に章子の元へと近付き、柔らかく声をかける。
章子はこの場からすぐにでも逃げ出そうと、仮病を使って保健室へ行きたいがために、腹をさすり顔をしかめて腹痛に襲われているふりをした。
「だってさー、こいつならやりかねないだろ!? かつては嫌がらせの天才だったんだからさあ。知ってるか!? みんなー!! こいつ昔さあ、人の机にバカって書いたり、女子の机の中に蝉の脱け殻大量に入れたり、賞味期限切れのお菓子人に渡したり、ホンット頭沸いてんだわ!!!」
「それいつの話?」
「一年生から六年生までの話。ちょくちょく問題ばっか起こすんだよ、コイツ! マジだよ!」
「だからって、何言っても良い理由にはならないでしょ。丸井さん、繊細で傷付きやすいんだよ。最近のあんたたちの言動は目に余る」
「丸井みたいな頭のおかしな奴は性悪過ぎて悪さばっかりするし、何言われても傷付かねえよ。人間は同じ過ちを繰り返しやすい生き物だって言うしさあ。ってか、人のこと傷付けといて、繊細で傷付きやすいとか何のジョークだよ」
男子と女子の口論の応酬を耳に入れながら章子は、苦しげに顔を歪め、背中を丸めたまま腹をさすり続けた。
「お腹痛いの?」
傍にいる高木が章子の背中に優しく手を置き、身を屈めながら訊ねた。
章子は苦悶の表情を浮かべながら首を大きく縦に振り頷いた。
「保健室行く?」
高木の問いに、章子は口を開き声を出して答えるのではなく、またしても無言で大きく頷いた。
「私、丸井さんを保健室に連れて行くね。丸井さん、立てる?」
章子は突如、足腰の弱い高齢者にでもなったかのように、ゆっくりと時間をかけて椅子から立ち上がると、高木と共に教室を出て保健室までの道のりを歩いた。歩みを進みながら、章子は頑健なゴキブリに初めて殺虫剤をかけて一撃を与えてやったのだ、という達成感に目を細めつつ、あくまでも円香の肩を持つ男子達を呪った。




