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二十五、

 ここはどこだろう。宇宙空間のように暗く重力のない空間で、章子の体は宙に浮き、ゆらゆらとたゆたっている。

 そんな中で、光をまとう生き物らしき何かが眼前に見える。目を凝らすと、ふさふさの白い毛に真っ赤な瞳を持つ白ウサギが一羽、章子のことをじっと見ていた。真っ赤な二つの瞳からは、止めどなく涙とはちがう正体不明の液体が流れている。

 章子は似たような光景をどこかで目にしたことがあった。そう、あれは、およそ一年前、暇潰しでネットサーフィンに夢中になっていた時のことだ。動物愛護関連の検索をしている最中に発見した動物実験という検索ワード。そこから見つけたWebサイトに、首を固定され、眼刺激性試験を受けるウサギ達が実験台の上にずらりと並べられている写真が貼ってあった。

 別名、ドレイズテストは、化粧品やシャンプーなどの試験物質をウサギの目に点眼し、どのような反応を示すかを見る実験だ。ウサギは大人しくて温厚な性格をしているために、利用されやすいと言う。

 人間の私利私欲、欲望のために生まれ、物のように焼かれ、銃で撃たれ、ハンマーで殴られ、刃物で刺され、鋏で足を切られる実験動物たち。そんな残酷を極める実験画像を章子は想定外にも幼くして見てしまった。あまりにも胸くそ悪くてたまらなかったことを覚えている。悲惨すぎる実験画像や実験内容に思わずスマホから目を背けた。一年も前のことなのにおぞましくて、未だに目に焼き付いている。目的の為となれば、いやそうでなくとも、人間は“自分とは異なる弱いもの”に対して、こんなにも酷薄になれる生き物なのだ。

 突然、白ウサギの真っ赤な瞳が、渚の目と重なる。昨晩、全力で渚を殴ってしまった記憶がよみがえる。 章子は初めて、渚に反撃をして殴り返した。その時、渚は泣いていた。目を赤く染めて、辛そうに悲しそうに泣いていた。

 章子の中で良心を責め苛む罪悪感が募る。攻撃する相手を間違えた。本当に攻撃すべき相手は……

 しばらくして、ようやく章子は眠気から解放され、緊張を多く含んだ左右のまぶたを開けた。事前に考えていた計画通りに朝の五時に目を覚ます。

 どうやら、先程まで夢を見ていたようだった。夢なのに、現実と混同して胸が絞り上げられるかのようなリアルな苦痛のある夢だった。

 章子は昨晩用意した洋服にゆっくり着替え、台所の棚の中にあるシリアルバーにかじりつきながら一人で通学路を歩いた。咀嚼する度、ザクザクという小気味の良い音が、口の中で奏でられる。上半身は咀嚼音であるザクザクを聴くことに、下半身はひたすら歩みを進めることに、集中している。

 冬の冷気が、剥き出しの皮膚に突き刺さる。吐く息が白い。

 視界が録画された映像のように、神社を映し、駄菓子屋を捉え、居酒屋、そして、銭湯、公園、椿の民家などを順々に見せてゆく。それらはどれも、馴染み深いけれど冷酷さの滲む光景だ。

 章子は千春専門学校へ侵入するまでの間に、家から持参したシリアルバーを一本平らげていた。用済みになったビニールの包装袋を握り、着ているコートの右ポケットの奥まで押し込んで、手をはなした。静寂にそぐわない甲高い音が響いた。

 解錠されていた扉から校内へ入る。早朝の校舎は未だ夜の帳が下りているかのように暗く、足元がおぼつかない。身体を薄闇が取り囲み、まるで四面楚歌のような状態に、章子は恐怖から叫び声を上げたくなった。誰もいない音楽室からピアノの音が聞こえてきやしないか、理科室にある人体模型がひとりでに動き出しやしないか、考えずにはいられない。

 ぶるぶる震え上がる指先で、小型の懐中電灯のスイッチをオンにした。灯りが、前方の闇を白く溶かす。

 章子は忍び足で、階段を上がり、廊下を歩き、ついには九年D組の教室の前で立ち止まった。引き戸に手を掛けて少しずつ力を加える。すると、ガラガラと音を立てながら教室と廊下を隔てていた一枚の板が徐々になくなってゆく。

 担任やクラスメイト達の姿はない。それなのにも関わらず、章子は妙な重荷を感じて、身体中が緊縮した。

 ごくりと唾を飲み込むと、やや苦しげな足取りで教室前方の黒板の前まで歩いた。自分自身の気持ちを整理して落ち着かせるため、深呼吸を繰り返した。

 章子は意を決して、トレイの中に整然と並んでいる白色チョークを一本手に持つ。それから黒板に、一画一画の線を分厚くして、ゴシック体のような文字を書いてゆく。

 消せない過去のあやまちへの後悔の念など綺麗さっぱり忘れた。一瞬一瞬その時感じた自分の激情が、すべてだった。そんな章子は喉元過ぎれば熱さを忘れてしまいやすいのかもしれない。

 やられたらやり返す、というやり方が平和的解決方法から一番対極に位置するやり方だということくらい章子には分かっているつもりだった。それでも、自分に揺るぎない苦痛を与え続ける存在である円香を決して許せない。神も天も罰を与えないと言うのならば、自分こそが神や天の代わりとなって本当の天罰というものを円香に与えてやる、章子は無謀にもただその一心だった。チョークで黒板に文字を書いている間、章子はずっと胸の中で甘い絶望を飼っているような気持ちでいた。

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