二十四、
正のけじめはまだ続いている。あの日から、渚の手料理を口にすることはない。
元々、正は自宅の敷地内の小庭で家庭菜園をしていた。トマト、胡瓜、ニラ、ピーマン、茄子、いちご、小松菜、ブルーベリー、無花果、金柑、さやえんどう。時が流れてゆくと、春夏秋冬それぞれ四季折々の野菜や果物が、育っては実ってゆく。
正はマラソン以外にも、植物の世話を焼くことを楽しみの一つとしているようだが、何よりも一番の楽しみは、やはり地域猫であるにゃんとのふれあいだろう。けじめ騒動以来、正はにゃんを独占し、より互いの絆が深まったかのように見えた。
家をあけることが多くなった正はそれでも晩から朝にかけては必ず家にいて、動植物の世話をしたり、畳部屋でにゃんを愛でながら寝袋で眠ったり、いじけながらも自由気ままな生活を継続しているようだった。
相変わらず、妻である渚や娘の章子に話し掛けてくることはないに等しいが、渚によるとこちら側から積極的に話し掛けてゆくとたまに返事をすることがあるらしい。そんな正の成長ぶりを涙ながらに喜ぶ渚を尻目に、章子はげんなりした。こんな二人だからこそ、今まで長い間共に夫婦生活を続けてこられたのだろう。
章子は何も両親を心の底から嫌っている訳ではないのだ。むしろ、友達のいない章子には頼れる人間が両親くらいしかいない。かけがえのない大切な存在だ。
けれど、これからしようとする行為は章子の手前勝手でしかない。すでに家族関係は崩壊しかけ、家族三人とも明るい笑みを作ることさえ忘れている。それならば、そんな家族であるならば、少しくらい逸脱したって良いではないか。よこしまな衝動に突き動かされるまま、章子は居間の食卓の上に置き忘れたままになっている正の黒の財布におそるおそる手を伸ばした。
正は今、小庭に出てホースを使って植物に水やりをしている。その様子は、窓ガラスと白のレースカーテン越しから見てとれる。今の時間、日差しの加減で、室内から外の様子をうかがい知ることはできるが、外から室内の様子を見ることはできないはずだ。
異常に逸る心臓を胸の奥にひた隠しにしながら、章子は正の財布を手にとった。財布は随分と使い込まれており、ところどころ剥げている。
章子はそそくさと簡潔な動きで、八万二千円ある中から万札を一枚抜き取った。その時、章子は紙幣に描かれている福沢諭吉の存在を重く感じた。今とった行動は有罪か無罪か、どちらなのかを問いかけられているかのような、まるで裁判官じみた福沢諭吉の威厳に、章子は左右両方の手指を細かく震わせた。誰も見ていないと思っていたのに、見ている人もいるのかもしれないという気になった。
安易に悪事に手を染めるものではないと分かってはいるけれど、引き返せない事情が章子にはあった。章子はお小遣いやお年玉を両親からほとんどもらったことがなかった。そのため、タダシからラブホテル代を出すよう言われた時も金がなかった。
金の調達先は、自ずと両親のいずれかの財布に限られる。正も渚も居間におらず、正の財布だけが無防備に手近な場所に置かれている。よって、今が絶好の機会なのだ。
章子は欲に負けてさらに紙幣を盗もうと、再び正の財布に手を伸ばした。
すると、次の瞬間、
「あら、何やってるの? 章子」
見つかった。
声の主は、渚だ。
章子は正の財布を食卓の上にそっと静かに、なるべくさりげなく見えるように置いた。ちょうど千円札を二枚、親指と人差し指で挟み込むようにして持っていた。
冷や汗が滝のように流れる。いち早くこの場から立ち去らなければならない。
「ううん、何でもない」
章子は渚にくるりと背を向けると、居間から襖が開かれたままになっている畳部屋へ移動した。
「ふうん、変なの」
章子の背中へ渚の大きな独り言が投げ掛けられる。章子は突如波のように襲ってきた生理現象によって、頭を盛大にぶるりと震わせた。
「ねえ、章子ぉ、手に持ってるものなあに?」
渚は赤子に接する時のような、たどたどしく柔和な口調で訊ねる。
心臓が嫌な鼓動を立てる。学校で黒板の前に出て発言しなければならない時と同じように、章子には今、逃げ場がない。
「……持ってないよ」
章子はとっさに渚に背中を向けたまま、持っている紙幣三枚を自分の着ているジーパンの隙間に無理やりねじ込んだ。それから、章子はその場で振り向いたのち、種も仕掛けもありません、と言って客に手の平を見せる手品師のように、両手を渚に見せた。
「あれー、おっかしいなあ。何か手に持ってたような気がしたんだけど……もしかして、お父さんの財布からお金盗んだ?」
渚の刺さるような視線が痛い。
「盗んでないよ」
章子は渚と目を合わせないようにしながら、一言嘘を呟くだけで精一杯だった。呟くと同時に、章子は脱兎のごとく駆けるように小走りで二階へ上がろうとした。
「待ちなさい、こらっ!」
しかし、章子は渚の横を通り過ぎようとしたところで、渚に取り押さえられた。章子のジーパンに渚の手がするりと入り込み、隠したはずの紙幣が全て引き抜かれた。
「じゃあ、何でこんなところに一万円と千円札が入ってるの? しかも、しわしわになってるじゃない。いやぁ、それにしても悪い子になったねえ。札付きの悪だ。お父さーん! お父さーん! 章子がお金盗んだー!!」
渚は、わんぱく少年が気に入らない友達の過ちを言いふらす時のように、大声で小庭にいる正に向かって叫んだ。章子は渚を睨みつけることで、その視線の強さで渚を射殺したい衝動に駆られたが、恐怖で顔を見ることさえ出来なかった。
窓ガラスが開く音がする。続いて空気を裂くような正の怒鳴り声が、章子の心臓を貫いた。
「バカ野郎っ!!! 金返せ!! 今度やったら警察に突き出すぞっ!!!」
章子は項垂れたまま両目を思い切りぎゅっとつむった。
「お父さん、お財布」
「ああ」
章子の視界は無数の光が飛び交う闇に塞がれ何も見えないが、目をつむっている間に、渚と正の間で財布の受け渡しが行われたのが分かる。 恐る恐る目を開けると、スマホの画面を明るくして現在時刻を確認した。
まずい。待ち合わせ時間が迫っている。今日は祝日で学校が休みのため、章子はタダシと昼間から会う約束をしていたのだ。その時に、この前支払えなかったホテル代を手渡すつもりだった。
章子はスマホを握りしめ、畳部屋から出ると、慌てて台所へ行き洗顔したのち髪を櫛でとかした。パサついてあちこちに毛先がはねる厄介な髪に、ローズの香り漂う渚愛用のヘアオイルを塗り込む。
「ちょっと章子ぉ、私のヘアオイル使ってない? 髪の毛にオイルなんか塗っちゃってどうしたの?」
渚の声が居間から聞こえてくる。
「……これから、出かけるの」
章子は台所で手に付着したヘアオイルを洗い流すと、怖々と居間へ戻った。
「どこへ?」
「どこだって良いでしょ」
「知る権利があるの。あんたは私の娘なんだから。誰と会うの?」
「……円香ちゃん」
章子は苦し紛れに言った。
「怪しい」
渚は腰に手をあて章子を熟視している。決して視線を外そうとしない。
「あんた、最近本当におかしいよ。学校をずる休みしたり早退したりして何やってるの? 前はもっと良い子だったのに」
渚は、すっかり油断している章子の手元から素早くスマホを取り上げた。
「スマホを長時間見てるからよ。はい、没収」
スマホを持つ渚の手を追いかけて奪い返そうと、章子の右手が宙をかいた。
「……どうして、取り上げるの? 私のスマホだよ……。返して!」
「何よ。まるで、スマホがないと生きていけないみたいな顔して。最近のあんたはスマホ中毒者そのものよ。おかしいにも程がある」
「いやだ。返して! お母さんには分からないかもしれないけど、私だって学校行くの毎日毎日辛いんだよ。スマホだけが唯一の癒しなの。だから、お願い。返してっ!!」
「うるさい。スマホ漬けの生活になってどんどんおかしくなってるのが自分で分からないの? 一体どこの誰と会ってるのよ。怪しすぎる。没収よ。没収」
「いやだ! お母さんに私の何が分かるって言うの!? 分からないでしょ!? 私は空っぽなの!! 空虚で、みじめで、辛くて、苦しいの……学校には味方がいない。敵ばかりなんだよ!! 心が渇いて渇いて、しょうがないの! だから、私から癒しを奪わないで! スマホを返してよ。返してっ!!」
「そんなわがままが通ると思うか! 親の財布から金とって、この……不良娘。……そんなやつの言うことなんて聞き……た……く」
渚の声に震えを帯びる。徐々にその震えは大きくなり、ついに渚は言葉に詰まった。
章子は渚の顔を直視した。そこには目を真っ赤に染め、涙を流している渚がいた。呆気にとられたのも束の間、渚の拳が章子の頭に振り下ろされて激しい衝撃が直撃した。
痛みを一点集中で強く感じる。
頭が痛い。
青くて苦しい様々な感情が胸中でせめぎ合っているにも関わらず、章子は精神的苦痛よりも殴られた箇所の方が痛かった。
どうして、いつも渚は何かある度に章子を殴るのだろう。何も殴らなくたっていいではないか。
痛みが後引く状態の頭は、冷静になるどころか急速に沸騰し始め、章子は無性に腹が立った。こびりついて剥がれない怒りをコントロールできない。
体が章子の意志に反して動きだした。やられたらやり返すという動物的本能が、章子を狂わせた。利き手で作った固い拳を高い位置から大きく振り下ろすと、章子は何の躊躇いもなく渾身の力を込めて渚の頭を殴った。
渚はそのまま尻餅をついて、怯えた表情で章子の顔をまばたき一つせずに見つめている。そんな渚の右肩に、章子はとどめをさすかのように軽く蹴りを入れた。渚の上半身が容易く倒れ一瞬仰向けに寝転がる。
章子は興奮の絶頂から、全身が静かに震えだすのを感じた。快感と爽快感が脳を支配した次の瞬間、身を焼くほどの後悔の念が胸から噴出した。
しっかり見てしまったのだ。渚の赤くなった二つの瞳を、再び目の当たりにしてしまった。
興奮が一気に冷めてゆく。章子は、自分のとった最前の行動に愕然として、しばらく立ち尽くしていた。
「もう、章子なんて知らない……こんな変な子いらない!」
渚は素早く立ち上がると、身をていして外敵から守ろうとするかのように章子のスマホを胸に抱きながら二階へ駆け上がっていった。




