三、
帰りの会は、日直が黒板の前で一人ずつ発表する機会がないため、章子のことでつまずく羽目にならず、すんなり終わった。
章子は赤紫色の部分的なグラデーションに一目惚れして、両親に買ってもらったリュックサックを背負った。大手量販店の鞄売り場に並べられている、魅惑的で妖艶な赤紫色と有無を言わさないクールさを秘めた黒色の調和が見事なリュックサックだった。
だが、そのリュックサックの背には数筋の切り傷が走っていた。一年生の頃、全校遠足の準備のために集まった同じ縦割り班の上級生達からハサミで裂かれた傷だった。
章子はこの時、自分のリュックサックではなく上級生達の表情を見ていた。恋人同士のように至近距離で顔を見合せ、ひどく楽しそうに笑っていた。面白いのだろうか。自分自身や他人の気持ちに疎くて、ぼんやりする癖のある章子もつられて笑った。
リュックサックに刻みついた傷を気にかける者は、章子の母親・渚を除いて誰もいなかった。かと言って注視されたい訳ではなく、「それ、どうしたの?」という渚の問いにも、章子は「ううん」と俯き加減で返事をしただけだった。傷が元に戻ることがないと分かったのは、それからもっと後のことで四年生になってからだった。
章子は一人、学校から自宅までの帰り道を歩いた。
「丸井さん」
後ろから章子の名字を呼ぶ女性の声が聞こえた。しかし、この世界で果たして自分に声を掛けようとする人間なんているのだろうか。そう思って振り向かずにいると、
「丸井さん」
また背後から声がした。
観念したかのように章子が振り向くと、そこにはクラスメイトの中位女子・高木がいた。高木は五年前、四年生の時に、ここ千春専門学校へ転入してきた話題の美女学生だった。
高木は足を止めた章子に笑いかけ、美女の代名詞である艶々の漆黒ストレートヘアを肩まで揺らしながら軽やかに近づいた。
「丸井さん、良ければだけど一緒に帰ってもいい?」
高木が鈴の鳴るような声で訊ねる。
章子は、充実した学校生活の中で生まれたような、高木の健康的な美の雰囲気に圧されて俯いた。
「あ、はい」
章子は小さな消え入りそうな声で返事をする。出す前まで声が出るか心配ではあったが、声量が小さなだけで特に問題なく発声することができた。
「丸井さんって、いつも落ち着いてるよね。そういうところ良いなあって私思うよ」
章子は目を見開き狼狽えた。落ち着いているというよりは大勢の人の前で話すことができず、そのせいでけなされることはあっても人から褒められた経験の少ない章子は、それだけでしどろもどろになった。
「あ、いえ、私なんて、全然だめなんです」
「だめなんかじゃないよ。私、落ち着きがないから丸井さんの落ち着きのあるところ見習いたいなあ」
「えっ、そんなことは……」
この会話のやり取りだけで章子は、高木のことを好きになっていた。
いつも孤独に帰る道を、高木と並んで歩くことに章子は喜びを覚え、感情を抑えきれずに口元を緩めた。普段笑い慣れていないため口角が綺麗に持ち上がらず、唇の両端は不器用に下がってゆく。
好きな科目はあるの?-道徳です。好きな食べ物はあるの?-寿司です。好きな俳優はいるの?-いないです。
気の合うクラスメイトになれるかどうかの手探りの質問へ、ぼそぼそと簡潔に答えるのみの章子に、やがて、高木さえも話の種が見つからなくなり閉口した。
章子は会話をするのが下手だった。経験も言葉遣いも運動神経も物心つく年齢も、他のクラスメイト達より遅れていると章子自身、認識することなくぼんやりして日々を送る中で、渚だけはきちんとそのことを把握し危惧していた。
渚は一度、章子を近隣の総合病院へ連れて行ったこともあった。カラフルな積み木を使用してのテストや口頭での国語の語彙力テストなどを受け、医師はその結果表を見ながら「問題ないでしょう」とはっきり口にした。その一言により、その後通院することはなかった。
渚は章子のために読書記録ノートを作り、本を読むことを勧めた。読み終われば、読書記録ノートへ読んだ日付と題名と著者とABCによる三段階評価を書き込むことができた。 初めは絵本、次に児童書、今では大人向きの本へと徐々に難易度を上げていった。しかし、いくら読んでも本の内容を理解することができず、章子の鈍く幼い頭の中を文章が右から左へすり抜けてゆくばかりだった。それを見抜いた渚から「本の内容ちゃんと分かって読んでるの?」と聞かれ、とっさに章子は「うん」と悪気なく無意識に嘘をついてしまう。相手に自分の気持ちを伝えることや状況を説明することなど、的確に話すということを不得意としていた。
「もし良かったら、家に寄っていかない? すぐそこなんだ」
沈黙を破った高木が進行方向斜め右を軽く指差した。
「えっ?」
章子は驚き半分喜び半分といった気持ちを表に出しながら聞き返した。
章子が人の家へ呼ばれたのは、保育園児であった頃、渚の友人である心優しく熱心な宗教家の女性が、お茶を出すと言う名目で自宅へ招いてくれた、ただ一度きりだった。
「遠慮しないで。私、家にお客さん呼ぶの好きなんだ。それより何で敬語なの? 同い年なんだから気を遣わなくて大丈夫だよ」
高木は、大きな切れ長の目を弓なりに細めて優しげに微笑んだ。
章子には、スクールカースト中位以上の同級生に対して敬語で話をする癖が二、三年生頃から発現し、以降なかなか抜け切らなかった。
入り組んだ道を通り抜けると、ねずみ色の瓦屋根が座る数軒の家が建ち並んだ狭い路地へ入った。
「ここなんだ」
高木はその中の一軒を再び指差し、章子は誘導されるがまま玄関でスニーカーを脱いだ。
家の中へ上がると、鼻孔へ白檀の香を焚いたかのような匂いの粒子が入り込んできた。
障子の張られた白を基調とした小ぢんまりとした和モダンな部屋へと案内され、
「ごめんね。ごちゃごちゃしてて。今、お茶淹れるから座って」
高木は座りやすいように椅子を引いてくれた。
章子はお辞儀だけして、その椅子に浅く腰を下ろした。
「キッチンに行ってくるね」
高木はそう言うと、リビングの奥の方まで行き姿を消した。
戻ってくるまでの間、章子は室内を気兼ねなく見回した。生活感のある食卓の上に、個包装のクッキーが一つと、大玉のデコポンが三つ置いてあるのが目に入った。
食卓は大きく、高木は何人家族であったろうと章子は想像を膨らました。こんな自分にも優しく接してくれるのだから、面倒見のいい長女だろうか。今までの章子の学校生活は、ろくに友達もできず、暗闇を歩くように毎日が過ぎ去るだけであったため、こうして一人のクラスメイトのことで思いを巡らせるのは初めてのことだった。
章子の家族構成は、父親である正と母親である渚と娘である章子の三人家族だった。兄弟はおらずひとりっ子だったが、両親からの愛情を独り占めという訳にはいかず、放ったらかしにされることが多かった。
以前、幼かった時に、買い物へ渚と出掛けた際に迷子になった時も、渚は章子を探しもせず平然と買い物を済ませると、そのまま家へ帰った。章子が泣きながら知らない道を歩いていると、通りすがりの親切な女性が手を繋いで交番まで連れていってくれた。交番の中に入ると、中年の警察官に丸椅子に座るよう言われて、幼い章子は黙って頷き言うことに従った。
「お父さんかお母さんが迎えに来てくれるからね。その間これ飲んでて」
警察官は、缶のファンタグレープジュースを買ってきてプルタブを開けてくれた。章子は躾の行き届いていない無作法者で、礼も言わず缶を受け取ると、小さな口を開けてちびちび炭酸飲料を飲み始めた。口内で細かく弾ける気泡が少し痛かった。
しばらく経って交番まで迎えに来てくれたのは、途中ではぐれた渚ではなく、愛想の良い笑みを浮かべた正だった。章子は途端に交番が自宅に取って変わったかのような安堵感を覚え、心の中だけが居丈高になり、ファンタグレープジュースを半分以上残して缶を机の上に置いた。
正は鳴かず飛ばずの売れないフリーカメラマンをしており、自由奔放な芸術家だった。渚はスーパーマーケットのレジスタッフをしていて、怒らせるとヒステリックになる一面があった。
両親は章子が大勢の人を前にすると喋れなくなるのを知っていた。一年生の時の担任教師から話を聞いていたようだった。
「章子は人とは違うから、そういった意味で注目を集めてはいけないよ。悪目立ちするのではなく、良いふうに目立たなくてはいけないよ」
ある日、章子は渚からそう忠言された。学校でも家にいる時と同じように話せるようになって欲しいという願いを込めて話したのだろうが、全然願い通りになれていないことを章子は苦く思っていた。
「待たせちゃってごめんね。緑茶だけど飲んで」
おぼろ気な白い水玉模様の散ったネイビーの湯呑み茶碗が、章子の目前の食卓の上に置かれた。うっすらと白く透明な気体を立ち上ぼらせ、ゆらゆら踊る湯気を見ていると、湯呑み茶碗に触れずとも緑茶の熱さが視覚を通して伝わってくる。
章子は礼の意味も込めて深く頭を下げた。
高木は章子の真正面の椅子に座った。
「遠慮せずにどんどん飲んでね。おかわりもあるから」
高木に促され、章子はうやうやしく湯飲み茶碗に手を触れた。持ち上げられないくらい高い熱がネイビーの陶器へ移りきっているのを感じると、反射的に手を引っ込めた。
「ごめん。熱かった?」
高木は身振りと口振りで驚きと心配を表現した。
章子が黙って首を横に振ると、高木は口を開けた。
「今日の道徳の時間は、多目的室で保健をやったね。性交についてだったけど、丸井さんは経験あるの?」
高木の厚すぎず薄すぎないふっくらとした血色の良い唇が細々と動く。
章子は一瞬押し黙ったのち、
「あります……」
と、呟くように言った。
実のところ、房事は未経験だった。だが、今回の保健も他の授業と同様に理解できなかったがために軽く聞き流し、ほとんど何も覚えていなかった。その為、咄嗟に適当に返事をしてしまった。
「そうなんだ! ってことは、彼氏いるのかな?」
「……いません」
「えっ! 大丈夫!? 相手はどんな人だったの? ちゃんとコンドームはつけてもらったの?」
「コ、コ、コ、コンバート?」
初めて聞く用語に、章子は目を白黒させた。
高木も、章子の返答に少し動揺したような素振りを見せたが、これ以上深追いはしなかった。
「そう言えば、丸井さんは卒業したらどこに就職したいの? インターンはするのかな?」
興味津々といった様子ですぐに新しい話題を振る。
章子は目蓋の皮膚を伸ばすように両方の眉毛を持ち上げてから、きょとんと首を傾げた。高木の問いかけの中に、知らない単語を聞き取った。章子には、その単語がどこかの国の常用語のように聞こえた。
「インテーフォン? 持ってないと思います」
章子はとっさに知ったかぶりをして、とんちんかんな答えを口にした。
「ごめん。気にしないでね」
高木は慌てた素振りで両方の手の平を章子へ向けて手を振るように動かした。
孤独を拗らせ、担任の話も軽く聞き流し、将来の行く末を家族で話し合ったことの全くない環境で育て上げられた章子には、何の話か見当もつかなかった。頭の中で、高木の言った章子の知らない単語は、砂時計の砂が上から下へ流れ落ちてゆくように消えていった。




