二十三、
濃い暗闇に支配された室内を、唯一、洗面室から漏れる光だけが柔らかく周囲を照らしだす。
ダブルベッドの上で、章子はタダシから唇を熱烈に奪われていた。その唾液の味は甘さがなく、章子の舌は生理的に受け入れを拒むかのように口蓋に張り付き、徐々に口を閉ざしてゆく。
章子が薄く目を開けると、タダシの端正な顔が不自然に大きくぼやけて見えた。これでは美貌が形無し、視覚だけでは興奮材料にもならない重大な理由が一つあって、章子はタダシの規則的な腰の動きに耐えられず、目の端から幾筋もの涙を流していた。初日ほどのどぎつい痛みは感じないが、未だにきつい圧迫感がある。暖房の効いている室内だが、章子の二の腕には苦痛のあまり無数の鳥肌が立っていた。
妄想の中の円香が未来予知した通り、章子は相変わらずの不感症だったのだ。
「暑いよね? 脱がなくて平気?」
興奮し体から熱を発するタダシは腰の動きを休めることなく、章子がかろうじて身につけているバスローブを肩から外そうとする。章子は体を揺すられながら、バスローブを脱がそうとするタダシの手を自分の手の平で包み込むようにして止めた。
「もしかして、まだ痛む?」
タダシは、眉間に苦しそうに皺を寄せている章子の顔を見て、動きを停止した。
「……痛いと言うより、苦しいです」
章子は苦痛の余韻に侵されながら掠れた声で訴えた。
「ごめん」
タダシはすぐに身を起こすと、章子の隣へ向き合うようにして寝転んだ。
苦痛から解放された状態で見るタダシの顔は、章子の逆立っていた気持ちをいとも容易く懐柔した。キスは苦い、性交は苦しい、けれど、タダシの美貌だけは本物でずっとこの目に焼き付けていたい。章子はしばし欲求のままに、タダシの顔を熟視した。
初日と違い、タダシは章子に無理を通そうとしなくなった。そこに、まるで恋人同士であるかのような思いやりを感じて、章子は少し嬉しくなる。
「……最後までできなくて、すみません」
章子は、ともすれば涙があふれ出そうな潤んだ瞳を細めて、タダシに謝った。
「大丈夫。全然気にする必要ないよ。さっき指を挿入した時に分かったんだけど、めいは膣が二つあるね」
タダシは穏やかな笑みを浮かべながら事も無げに言う。
「えっ……」
章子は目を見開き絶句した。
「正確には一つだけど、途中から二つに枝分かれしてる。膣が狭いから、まだ性交痛がするのもそれが原因かもしれないよ」
まるで、医師が診察でもしているかのようなタダシの口ぶりに、章子は生真面目に相槌を打つ。
「それは、どうすれば治るんでしょうか?」
章子の意に反して唇が勝手に動き出し、疑問を明らかにするべく口から言葉が紡がれる。
「婦人科で相談してみるとか、かな」
「ふじん、科……」
「そんなに身構えなくても、怖い場所じゃないと思うよ。女子なら一生に一度は必ず行かなきゃならないところだろうし、それにセックスが楽しめないのは辛くない?」
「……はい。ふじん、科考えてみます」
「うん」
章子はまばたきをしたのち目を閉じて深く息を吸い込んだ。そして、おもむろに目と口を開いた。
「ぁ……あの、一つ聞いてもいいですか?」
「ん? 何?」
「えっと、あの……どうして、タダシさんはそんなに円香ちゃんに会いたいんですか?」
父親と同じ男の名前を口にするのは若干気が引けた。だが、章子はずっと胸に秘めていた疑問を勇気を振り絞って訊ねた。
タダシは少し驚いたような表情を見せた。
「えっ?」
「あ、……違う話題にしてすみません」
「いや、いいよ。別に大した理由はないんだけど、ただ単に懐かしくなっただけだよ。元気にしてるかな~って」
「そう……ですか」
「どうして? 理由を気にしてたの? 大丈夫だよ。俺の一番は、今はめいだけだよ」
タダシの甘い言葉に、章子は頬が熱くなってゆくのを感じる。
「……私、タダシさんのために円香ちゃんから連絡先をもう一度教えてもらおうとしたんですが、とてもそんな雰囲気じゃなくて……向こうは私のこと、もう友達だと思っていないみたいなんです」
章子はこういう言い方をすることによって、タダシが円香に抱いている執着を解いてくれるだろうと思った。しかし、タダシが次に発した言葉は、章子の期待を大いに裏切るものだった。
「そっかあ。……あ、良いこと考えた。今から円香の全裸の写真、めいのスマホに送るからそれ使ったらどう?」
「……どういうことですか?」
「写真見せて脅せって意味。上手く行けば、円香のことを言いなりにできる」
章子は耳を疑った。先程あんなに貪るように章子を抱き、体も気遣ってくれて、めいが一番だと耳元で囁いてくれたタダシが言う言葉だろうか。脅迫まがいのことをしてまでも、円香と再び関係を持ちたいというタダシの願望が露骨にあらわれている。これでは、タダシにとっての今の一番が章子だと言うのは真っ赤な嘘で、本当の一番は円香だということになる。そんな気はしていたが、タダシの常軌を逸した大胆な発言に、章子は自分の両耳が蓋をされたかのように一気に遠くなってゆくのを感じた。
章子は未だにタダシに依存していた。目を覆いたくなるほどの学校生活から逃避させてくれて、触れ合っている最中は円香への募る嫉妬心さえ忘れさせてくれて、汚された体を後戻りできないくらい泥塗れにして上塗りの刺激を与えてくれて、峻烈な愛情飢餓を少量の甘い蜜で満たしながら心に虫食いのようにまばらな穴をあけて空虚さを与えてくれる。 そんな稀有な存在であるタダシを誰にも渡したくない。それなのに、円香との再会を待ちわびていそうなタダシの様子を見る度に章子は胸が痛む。タダシは円香のどこが好きなのだろうか。常に誰かしらに好かれ守られている円香。章子は、そんな円香を好きになろうとする一歩手前で、ひょんなことから円香に打ちのめされてしまった。
どんな時であろうと、章子は複数いる人の中から選ばれて好かれるといった経験がなかった。きっと、タダシは円香と再び連絡を取れるようになれば、章子のことをあっさり捨て去るに違いない。
「冗談だよ、冗談。もしかして、本気にした?」
深刻な顔をして黙り込む章子に、タダシはいたずらっ子のような笑みを見せた。
「もう、円香の話はよそう。俺はめいさえ傍にいてくれたらそれで良いから」
タダシの言葉が嘘か真か分からないまま、しかし、章子は信じることしかできなかった。
だらしなくよだれを垂らし愛情だけを欲しがる怪物にでもなったかのように、章子はタダシへすがろうとした。そっと静かに身を寄せる。タダシは、すり寄ってきた章子の頬を優しく撫でた。章子の中で、タダシへの熱い想いが満ちてゆく。
章子はタダシの美貌を目の中に吸収するかのように見つめながら、ある決意を胸に抱いた。自分は絶対に、円香とタダシを再び繋ぐ架け橋にはならない。その役目は負わない、と。
タダシは身を起こして、室内にあるミニ冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを一本取り出すと章子へ手渡した。
「ありがとうございます」
章子はベッドの上で正座をすると、消え入りそうな掠れた声で礼を言ってから、ペットボトルの蓋を開けて渇いたのどを潤した。その横でタダシが突然、真剣な面持ちを見せる。
「めいだから打ち明けるんだけど……」
「はい」
章子はタダシの言うことであれば何でも聞こうという気持ちでいた。タダシは、忠犬のように見つめてくる章子を見て、ふっと頬を緩めた。
「ありがとう。……実は俺、この辺りでバーテンやってるんだ。この間オーナーが脱税で警察に捕まったらしくて、店が潰れちゃったんだよね。その時に多額の借金背負ったみたいで俺も連帯保証人だから、今、金がなくてさ。悪いんだけど、めい、今日のホテル代は代わりに全額支払ってくれないかな?」
章子は、ちょうどミネラルウォーターを口に含んだ最中だった。ペットボトルのラベルには“新鮮で美味しい水”と記されているのに、タダシの言葉を聞いて水の味が一気に不味くなった。奥深い苦味を感じたのだ。味覚とは、その時の人間の心理状態により、大いに変動を及ぼすものなのだろう。
援助交際をしているつもりが、援助金は未払いのまま逆に相手からホテル代を要求されるとは思ってもみなかった。もちろん、今回もタダシが金を渡してくれる可能性はほぼないだろうことくらい推理力の乏しい章子でさえ分かる。
しかし、それでも自覚したばかりの嬉しい恋の熱は冷めなかった。それに加え、章子は激しく円香を憎んだ。タダシと円香のただならない親密な関係を想像すると、嫉妬により情緒が乱れて心が壊れそうだった。気が触れそうだった。醜い感情に取り憑かれて、どこまでも狂いに狂って暴走してしまいそうだった。
黒のショルダーバッグから鞄と同じ色の財布を取り出すと、紙幣入れスペースから手持ちの全財産である千円札二枚をタダシへ差し出した。 すると、タダシは豹変した。愛想の良かった温厚な仮面を脱ぎ捨てると、横柄さを剥き出しにしながら章子から金を受け取った。
「ハハハ。二千円ぽっちじゃあ、全然話になんないんだけど。めいのお財布に万札入ってないの? 見せてよ」
章子は半瞬、心臓が浮き上がるような感覚を覚え、途端に呼吸しづらくなった。それでも素早く従順に頷くと、急いで財布を手渡した。
「そっかあ。未成年だし、こんなもんかな」
タダシは丹念に章子の財布を余すところなく調べ尽くすと、肩こりでも解消するかのように首を左右交互にゆっくり回しながら眉間に皺を寄せた。こいつなら雑に扱ってもいい、と言わんばかりのタダシの態度はまさに暴君そのものだった。
章子は投げるように返された自らの財布を胸でしっかりと受け止めた。
「じゃあ、この二千円はもらっとくね。残りのホテル代……一万円で良いから。次会う時にちゃんと持ってきてね。分かった?」
章子がタダシを見る目に、得体の知れないものでも見るような底知れない恐怖が入り交じった。面識のない大人から理不尽に叱られる幼児にでもなったかのような気がした。
考えてみれば、インターネットの掲示板で出会って援助交際をする行為自体が普通ではない。普通ではないことをする人間は、非常識極まりない。犯罪者気質を持っている。まるで、フレディがタダシになりかわっているかのように章子は感じた。
タダシの驚くほど様変わりした氷のように冷たい表情と声調は、章子にきつい衝撃を与えた。章子はその衝撃に負けて茫然自失となると、ぼんやりしながら大きく頷いた。
冷淡な本性をあらわにしたタダシは、章子の二千円の他に、自分の財布から出した紙幣と硬貨を淡々と自動精算機の投入口に入れた。
『ありがとうございました』
自動精算機が機械的な女性の声を出した。
帰り支度を整え、靴を履き終わった章子とタダシはラブホテルの一室から外へ出た。




