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二十二、

 章子は、タダシの願望を思い出すと同時にその願望を叶えるべく、胸に手を当てた。そのまま数秒間目を閉じると、タダシへの恋愛感情や円香に対する嫉妬心が、胸に染み渡ってゆくようだった。

 ラブホテルでのタダシとの会話が想起される。

「ねえ、円香の連絡先教えてよ」

 タダシはガウンを羽織り、ベッドの上に腰掛けている。

「連絡先……ですか?」

 章子もガウンを着て、タダシの隣に座りながらウェルカムサービスの杏仁豆腐を一口一口味わうように食べていたが、ふとその手を止めた。 タダシが円香の名前を出したことにより、胸中がいやにざわめき始める。章子は激しい自己喪失感と焦燥感を覚えた。愛憎の感情が渦を巻く。

「うん。最近、円香と連絡とれないんだよね」

 タダシは未練がましく円香に執着している。その理由は、章子には分からない。

「連絡先……もう、消しました」

 全ては円香に非があることがタダシに伝わりますように、と願いを込めながら章子は低い声で呟く。

「えー、消しちゃったの? 友達なんでしょ。悪い子だね」

 タダシは、そう言って笑みを見せると章子の頭を撫でた。心地良いスキンシップに、章子は猫のように恍惚に浸りながら目を細めた。

 その目を章子はゆっくりと時間をかけて開いてゆく。

 眼前には、いつもの九年D組の教室が広がり、視線の更に奥には大海のような深い緑色をした黒板が見えた。あそこの前に立つと、章子は喉が塞がる感覚を覚えて喋れなくなってしまう。章子にとっては、まさしく鬼門の場所だ。

 章子は深呼吸をして気持ちを鎮めたのち椅子から立ち上がると、花田と笑いながら立ち話をしている円香の元へ一歩また一歩と確実に距離を詰めていった。ついには、会話内容が鮮明に聞こえるほど二人に近付いたところで歩みを止めた。

 章子はどう声を掛けたら良いのか分からず、しばらくぼんやりと思案に暮れて、円香の鼻の下辺りを凝視していた。

 すると、

「えっ、何!? 何!? 怖い、怖い、怖い」

 章子の眼差しに気が付いた円香は瞬時に表情を歪ませると、怯えた様子で花田の背中にしがみついた。その大袈裟な反応の一挙手一投足を見て、一体タダシはこんな奴のどこに魅力を感じているのだろう、容姿の良し悪しでは負けていたとしても内面の良し悪しでは勝てているような気がするのに、と章子は釈然とせず憤然とした。

「おい! 円香は、あんたのこと嫌がってんだよ!! あっち行け!!! 近寄るんじゃねえよ!」

 花田が円香を後ろにかばい、野生動物が天敵と対峙した時のように声を張り上げて、章子を威嚇する。章子は、その声質の鋭さと表情の気迫さに、目を丸くしてたじろいだ。

「友人からも見放されるバカ井。哀れなり」

「よっ、稀代の嫌われ者」

 上位男子が無邪気な笑みを浮かべながら、円香と花田に加勢するかのように、章子へ向けて辛辣な野次を飛ばす。

 クラスメイト達の好奇の目に晒されながら、章子はすぐさま教室内を移動し自分の席へと戻った。両腕の中に顔を埋め、寝ているふりをしながら、抑えきれず顔中を濡らした涙を洋服で拭った。

 円香と花田に人前で拒絶されたことよりも、一部の上位男子達による野次の方が遥かに精神的にこたえた。『バカ』『嫌われ者』流れるように放たれた罵言が章子の全身に無数の穴を空け、そこから大量の血涙が吹き出した。怒り憎しみ悲しみ、一斉に産出される負の情動が、章子の胸中で狂い咲く。

 そんな底へ落ちてゆくだけの精神を救い上げるかのような絶妙なタイミングで、チャイムが教室中に鳴り響いた。クラスメイト達が自席に着く音があちこちから聞こえてくる。章子は、涙を流した痕跡のある顔をようやく上げて前を見た。誰からの視線も感じない。章子は安堵の息を吐く。

 徐々に気が休まり始めると、ある一つの疑問が頭をもたげてくる。なぜ、私はこんなにもクラスメイト達から嫌われるまでに至ってしまったのか、章子は額に指の腹を当て、過去の記憶から原因を探し当てようとする。海老原、円香、はな垂れ女児……。だが、それより以前にもっと違う何かがあったような気がする。あれは、確かーー

     ◆

 章子は絵を描くことより文字を書くことを好んだ。文字を書くことが得意だったからではない。絵を描くことを非常に苦手としていたためだ。それは、千春専門学校に入学し、授業で初めて絵を描くことになった、あの日もそうだったのだろう。

 クラスメイト達が色鮮やかなクレヨンと真っ白な画用紙を机に出して、自由に絵を描いている中、章子は椅子に背を預け後ろの席の机にもたれかかって、その机の側面に覚えたてのカタカナを二文字、単語の意味も知らずに黄緑色のクレヨンで書いた。

 授業が終わり放課後になって、章子は担任の雨宮先生から声を掛けられた。中年の銀縁眼鏡をかけた人の良さそうな女性教師だった。

「丸井さん、一つ聞いてもいいかな? 山田くんの机にクレヨンで落書きしたの丸井さんじゃないよね?」

 章子は思わず、目を見開くことと息を呑むこと、この二つの動作を同時に行った。

「……知らないです」

 ワンテンポ遅れて、独り言を呟くようにうそぶくと首を横に振った。

「そっか、それなら良いのよ。疑うようなことを言ってごめんね。山田くんきっと悲しんでいると思うし、もし丸井さんがやったのならちゃんと謝って欲しかったの。でも、今、勇気を出して言ってくれたように丸井さんがやったんじゃないんだよね?」

 章子は恐る恐るといったふうに頷いた。

「そうだよね。ごめんね。丸井さん、何か学校で困ったことや辛いことがあったりしたら、いつでも言ってね。先生、相談に乗るからね。それじゃあ、ね。さようなら。気をつけて帰ってね」

 優しい雨宮先生の声に送り出されて、章子は下校した。

 あれから、章子が少しでもミスや失敗をすると、やたら周囲が些事を大事と捉えて揚げ足を取ることが相次ぐようになり、章子はそのことで悩み抜くようになっていた。

「バカじゃない?」

「丸井って、ホント馬鹿」

「あんたって、本当にバカねえ」

 人間関係もそうだった。仲良くなれたかと思いきや、移動教室の際には章子一人置いてけぼりにされたり、漢字テストの答え合わせが終わったテスト用紙を奪われ大声で点数を読み上げられたり、およそ対等とは言えないような軽く見下げた扱いを受けることが大概だった。

 あの時の中位男子・山田の机の側面には、黄緑色の文字で大きく『バカ』と書かれていた。

     ◆

     ◆

 章子はかつて、ごく短期間だが快活で、普通に愛想笑いを作ることが苦ではない時期があった。怒っていないのであれば笑っていなければならないと、自分なりのマイルールを決めており、無表情で優しさの見えない人が嫌いだった。

 ある中位女子は、章子の嫌いな人まさにそのものだった。目が合っても愛想笑いの一つも浮かべず、話し掛けても無愛想に剣のある声で「うん」と「ううん」しか言わない。それは相手の気持ちを考えず自分にしか目を向けていない証拠だ、と章子は独断と偏見の目で中位女子を見ていた。

 夏休みが明けて、章子は自由研究で蝉の脱け殻を大量に集めてきて、レポート用紙に写真を貼り付け感想などを書いた。蝉の脱け殻を初めて目にした時は若干怖いと思ったけれど、慣れてしまえば命が宿っていた器に尊ささえ感じた。特に、琥珀色の優美で高貴なカラーはとても美しかった。

 夏休みの自由研究は、廊下に縦長の机を持ってきて、その上に並べられた。自由に手にとって、クラスメイト達の自由研究を見ることができた。章子は机の左側から順番に見ていった。宇宙の神秘、ドライカレー作り、朝顔の成長記録、皆趣向を凝らして数枚のレポート用紙に思い思いにまとめている。

 すると、章子の耳に中位女子とその友達の声が飛び込んできた。

「虫の死骸集めるとか趣味悪すぎ~。気持ち悪い」

 中位女子は小声に加虐をのせて、からかうように言った。

「ねえ、本人すぐそこにいるよ」

 友達が、章子の方をちらりと見てから中位女子の腕に触れ、声を潜めた。

 章子は、人の気持ちをおろそかにした中位女子の発言に、無性に腹が立った。それに何より、中位女子は章子の自由研究を指差してそう言ったのだ。

 翌朝、章子は昨日大急ぎでとってきた蝉の脱け殻を大量に中位女子の引き出しの中にぶち込んだ。自席の引き出しを開けた中位女子は、びっしり敷き詰められた蝉の脱け殻を見て、

「絶対、丸井の仕業なのぅ」

 と大声で叫んで泣いた。

     ◆

     ◆

 教室に入ると、上位女子が微笑みながら章子の元へ近付いてきた。

「丸井さん、おはよう」

「……おはよう」

「これ、この前、ドイツに行った時のお土産。余ったから丸井さんにもあげる」

 章子は上位女子から、温かみのある木製の男の子と女の子のペアの人形をもらった。ペアの木製人形は持っていると、持ち主に幸運が訪れるのだと上位女子は楽しげに説明してくれた。章子は人から物をプレゼントされた経験が、今までの人生の中で一度もなかったため、今回のことに感動し喜色満面の笑みをこぼした。

 しかし、章子は我が家は貧乏だとよく渚が口にしているせいもあって、お返しのプレゼントを買うことはできないと思った。そこで、家の棚の引き出しの中身を片っ端から調べ尽くし、良さげな物を探すことに決めた。

 すると、数年前に、家族と行った科学博物館で買った“食べられる雪みたいな菓子”を発見した。章子は心踊った。この物珍しい菓子をお返しのプレゼントにあげれば、きっと上位女子は喜んでくれるに違いない。

 黒を基調としたスタイリッシュなパッケージの裏面を見ると、右端に小さく、けれどはっきりした印字で賞味期限の日付けが記されていた。現在の日付けと照らし合わせたところ、章子は“食べられる雪みたいな菓子”の賞味期限が既に切れていることを知った。

 突然、勢力の強い冷えた嵐が章子の体中を走り抜けたかのような、激しい悪寒がした。お返しのプレゼントとして相応しい品は、懸命に探し回った結果、“食べられる雪みたいな菓子”の他見つからなかった。

 どうしよう。

 章子は急に情緒が乱れ、脈が不安定になり、胸がそわそわし始めた。 これしかないのに、これではダメだなんて。

 章子は震える指先で何度も“食べられる雪みたいな菓子”の賞味期限切れの印字を強く擦ってみた。だが、印字が薄まることはなかった。それでも、章子は気でも狂ったかのように印字を擦り続けた。そうこうする内に、章子は自我を喪失し、しまいには水溶性の色ペンで青く塗り潰したセロハンテープを、隠すように賞味期限切れの印字の上に貼り付けた。そして、それをお返しのプレゼントとして後日、ペアの木製人形をくれた上位女子に何食わぬ顔をして手渡した。

     ◆

 やった方は忘れているがやられた方は覚えている、と言うのはよく聞く話で、章子は自分が犯した過去の悪事について、すっかり失念していた。そもそも悪気がないため、罪悪感も薄く、記憶に残らなかったのだろう。しかし、いくら金を積んでも帳消しにならない過去の汚点によって、今までずっと周囲から苛まれてきたのだということに章子自身ようやく気が付き始めた。

 そんなもやもやした気持ちを吹っ切ろうと、章子は引き出しを開けるため椅子を思い切り引いた。その時、放り投げられたぬいぐるみを宙で受けとめた時のような、軽い衝撃を背中で感じた。

「ちっ」

 舌打ちが真後ろから聞こえてくる。章子はその方へ上半身ごと振り返ると、上位女子が黒色のスカートを手で強くはたいていた。例のーーよく率先して叫び声を上げているーー女子だった。

 章子は息を呑み動揺した。急に主人に仕えるメイドにでもなったかのように、謙抑的な気持ちが胸のうちを占めて狼狽えた。どうやら、ぶつかった拍子に、後ろにある黒板のトレイに置かれてあった黒板消しが落下し、それが上位女子のスカートに命中してしまったようだった。

「すみません」 

 章子は慌てて軽く頭を下げ謝った。

「サイアク」

 上位女子は章子を一瞥もせず、吐き捨てるように言った。

「うわっ、大丈夫? スカート、ヤバイことになってるよ」

 普段からよくつるんでいる上位女子集団の仲間の一人が声を掛けた。

「丸井、最悪」

「えっ、なに、丸井にやられたの?」

「うん」

「こいつ、マジいなくていい存在だよね」

「ねっ。丸井、死ね」

 後ろの通路でもたついている上位女子二人の会話の内容が、その距離間から章子には丸聞こえだった。嫌悪を含む言葉が、いたく章子の胸に刺さった。

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