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ー渚ー

 スーパーマーケットの従業員専用休憩室内にある、空調機の出す小うるさい作動音が負けるくらい、二人の女声はくっきりと輪郭を保ち、互いの耳の中へと入ってゆく。

「私が親から愛されずに育ったから、章子のことをちゃんと育てられるのか不安でしようがないんです。それに、章子はちょっと変わっているところがあって……グレーゾーンなんですよ、うちの子」

「グレーゾーンって、なんの?」

「知的障害と発達障害の両方です。うちの子、変わり者だから以前、精神科を受診させたことがあるんですけど、その時医師からそう診断されて……」

「そうなんだ。でも、章子ちゃん良い子でしょ? 渚ちゃんもあまり気負わず、気楽に育てていけば良いんじゃないの? 何かあったら全部、旦那さんに任せてさ」

「任せられれば良いんですけど……。よく、結婚相手にする人は一人暮らし経験者が良いって言うじゃないですか? 本当にその通りで、うちの旦那、ずっと実家暮らしで尚且つ社会に出てちゃんと働いたことがないから家事や労働の苦労を知らないんです。本当に何もしない、縦のものを横にもしない人で、章子も父親に似たのかそういう悪いところがそっくりで……。たまに、気が向いた時だけ章子がお手伝いしてくれるくらいで……。私、生まれつき病弱だから疲れやすくて、仕事で疲れて帰ってきても、協力してくれる人がうちの中には誰もいないんです。正常な人間が私一人しかいないみたいで……苦しい時でもお構いなしに、旦那も章子もグータラして無関心。家事と育児と仕事と、全部ぜんぶゼ~ンブ自分一人でやらなくちゃいけないのが、本当に辛くてたまらないんです」

 渚の生まれた環境は、周囲の人達と比べて良いとは言えない。

 母親は気性が荒く、難癖をつけてはよく娘である渚に手を上げた。初めは素手だったが、手が痛くなるからという理由で、最終的には背中かき棒で渚の頭を殴り付けるようになった。暴力沙汰は家庭内では収まらず、近隣住民に下らない理由で喧嘩を吹っ掛けては居づらくなって引っ越しを繰り返した。それに比べ父親は母親とは正反対の温厚な性格をしており、脳卒中で他界するまでずっと清掃の仕事をし、奴隷のように妻の言いなりだった。

 家事を手伝おうと母親に近付く度「来るなっ!」と体を突き倒される日々ではあったが、渚は母親を嫌いになりきれずいた。

 しかし、十五歳の秋、決定的に母親を嫌う出来事が起きた。

「私は今までお前を育てて面倒を見てきてやった。随分と金がかかった。お前ももう良い年になったんだから中学を卒業したら、荷物をまとめて家を出な。外に出てちゃんと住み込みで働いて金を毎月決まった額、私あてに振り込むんだよ」

 ぼろぼろの畳の上に向き合う形で座り、渚は語気鋭い母親の言葉を拳を握り締め聞いていた。

「母親が私をきちんと愛してくれなかったことが未だに胸に引っ掛かっていて……。食事も紙を食べさせるし、癇癪持ちですぐに殴るし、反撃したら針で刺してくるし、引っ越しばかりするから友達と別れなくちゃならなかったし、とにかく貧乏で、ろくに話も聞いてもらえず家を追い出されて……」

 渚はパート先の同僚と休憩室で話をしているうちに涙が止まらなくなっていた。

「章子のこと心配だけど、情緒不安定になると自分に鬼が乗り移ったかのように余裕がなくなって、章子の欠点ばかりが目についてイライラして、気が付いたら私、泣きながら章子のこと殴ってるんです」

「……辛い生い立ちなのねえ。今まで色んな人に出会ってきたけど、あなたが一番辛い思いしてるわよ。聞いてるこっちも辛くなっちゃう。私だったら、そんな旦那と娘すぐに捨てて逃げちゃうわ。でも、逃げずに乗り越えてきた渚ちゃんは本当にすごいよ。尊敬する」

「そんな……そんなに優しいこと言ってくれるの松永さんだけですよ。ありがとうございます」

「何かあったら、いつでも相談に乗るわよ。はい、これ。昼食まだだったでしょ。少しだけど」

 渚はレースの白いハンカチで瞼を軽く押さえながら、同僚に差し出されたサンドイッチを二つ受け取った。

「わあ、私、タマゴサンドとカツサンド大好きなんです。良いんですか?」

「いいのいいの。ここのタマゴサンドとカツサンドは絶品よね。どちらにもカラシが適量入ってるから癖になる」

「本当にありがとうございます。私の下らない暗い話まで聞いてくださって……」

「全然、全然。下らなくなんてないわよ。こちらこそ、変なこと聞いちゃってごめんなさいねえ。渚ちゃん、大変ね。苦労してるわねえ。きっと、これから良いことあるわよ。じゃ、私は早めに仕事に戻るけど、渚ちゃんはゆっくりしてね」

「はい。ありがとうございます」

 渚はぷっくりした涙袋をより盛り上がらせて、愛嬌満点の笑みを咲かせた。そして、休憩室から出てゆく同僚を、深甚なる感謝を込めた眼差しで見送った。

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