二十一、
章子にとっては、未だ苦痛を孕んだ二回目の情事が終わった。特に男性器の挿入時の痛みは、未だに一人きりでは耐えられないくらいの強い痛みを感じ、終了時は余韻で下半身がしばらくの間ズキズキと疼いた。
タダシとラブホテルから外へ出ると、朱色の絵の具をこぼしたかのような赤い夕焼けが空一面に広がっていた。魅了される夕焼け空。神秘的、されど不吉ささえ窺える。
車の往来、人の流れ、さすがは繁華街と言うだけあって、今朝を越える賑わいを見せている。コートのポケットから一瞬さらりと覗かせたスマホの画面を見ると、時刻は夕方の五時過ぎを告げていた。
章子はタダシと手を繋ぎ、等差を保ちながら並んで歩いた。タダシの手は、章子とは対照的に温かかった。その手の熱に浮かれそうになるくらい、章子は隣を歩くこの得体の知れない男相手に恋をしていた。
「初日と比べると、手を繋いだ時に、ちゃんと力を入れて握り返してくれるようになったね」
タダシは繋ぎ合わせた手を少し上へ持ち上げながら、その方へ視線を遣る。
「……えっ」
そう言われると、章子は天邪鬼にも繋いでいた手の握力を弱めてしまう。
「ほら、自分でも変わったって分からない?」
タダシは、握力が弱められたことを気にする素振りも見せず、微笑して章子を見つめる。
「……分からないです」
章子は胸をときめかせ耳まで赤く染めながら、俯いてそう答えるしかなかった。
「信頼してくれるようになったのかな、って思うと嬉しいよ」
タダシが前方の雑踏を見て言う。
「……そうですか」
そこまで信頼はしてないけど、と章子は心の中で呟く。
「めいは、本当におとなしいよね。変なキャッチのお兄さんとかについてっちゃダメだよ。寄り道しないで帰るんだよ」
タダシは繋いだ手に力を込めて章子へ笑いかけた。その微笑を目に入れた途端、章子は脳がとろけて冷静さを欠いた。破壊的な刺激と、失態を見せられないという緊張感と、ずっと浸っていたくなるような幸福感が脳内で混ざり合う。それなのに、繋がれた右手から、大事なものを抜き取られるかのようにぬくもりが離れてゆく。
「またね」
タダシは宙で先程まで繋いでいた手を振った。
「……ありがとうございました」
章子は小さく何度もお辞儀をしながら、控えめに手を振り返した。
タダシと別れ、章子は駅の改札口を通り抜けた。右手を握りしめ、残されたタダシの左手のぬくもりを確かめる。
楽しかった夢のような一時を、タダシとラブホテルで過ごしたことを章子は噛み締めていた。恋愛映画とスプラッター映画を一本ずつ見て体を重ね、昼過ぎの小腹が空いた時に熱々の鍋焼きうどんを食べ小休憩を挟み、備え付けのテレビゲームをプレイして白熱したバトルを繰り広げ盛り上がった。結局、金銭はもらえなかったが、ホテル代などはすべてタダシが支払ってくれたし、章子は何よりもう金など要らなかった。むしろ、体を愛してくれて、温かな料理を食べさせてくれて、孤独を癒してくれて、感謝しているくらいだ。
章子は歩みを進め、電車に乗って目星をつけていた空いている席に素早く座った。ちょうど運良く座れたが、ここで座っておかなければ到着駅まで遠く、後々立ち続けなくてはならなくなり、とんでもない苦痛を強いられる羽目になる。章子は生まれつき体力が少なく長時間立っていることが困難なため、我慢の限界を越えると、しゃがみこむしかなくなってしまう。そうなった章子に声を掛けてくれる優しい他人は滅多におらず、章子は世の厳しさを思い知らされるのだった。
電車の出すあらゆる音を聞きながら章子はまぶたを閉じた。そうするのには訳があって、眼球の動きを上手く制御できず、端から見れば他者を睨みつけているようにしか見えないことがあるためだ。この症状に悩み始めたのは三年生の頃で、章子の鋭い眼差しを、クラスメイトから指摘され揶揄されたことをきっかけに自覚するようになった。完全に身に染みついており、もう治らないのではないかと章子自身考えてもいる。
すると、スマホが鞄の中で振動した。章子は瞳を開き、タダシと会ってからずっと放置し続けていたスマホにしっかりと触れた。不在着信が六十一件、未読メールが二十四件と画面に表示されている。章子は驚愕して、目を殊更大きく見開いた。すぐにスマホを操作して確認する。
『今どこ?』
『電話して』
『どうして、学校にいないの?』
『学校から電話かかってきたよ』
『ちゃんと学校行け』
『とりあえず、連絡して』
『なんで学校から逃げた?』
『何かあったの?』
『心配だからメールください』
『無責任なことをするな』
『非常識すぎる奴は帰ってくるな』
など、すべてのメールは渚から送られている。
渚はパートタイムの早番として働いており、午後四時半には大体帰宅している。およそ三十分の間にこんなにも大量の電話とメールを送ってきたのかと思うと、愛憎渦巻く昼ドラのワンシーンでも体験しているかのようで、章子の背筋を震えが走った。
今日は朝、学校から逃走した状態でタダシと会い、その間両親のいずれかにも連絡を入れず、今に至っている。章子の家では、門限が定められていない。そのため、帰宅時間が遅いことに関しては許してくれるかもしれないが、問題は学校から逃走したことについてだろう。
渚は相当おかんむりのようだ。下手をすれば、予想していたより大事になっているかもしれない。章子は、早く帰宅しなければならないと焦慮に駆られるが、出来れば永久に帰宅したくないという矛盾した気持ちも抱く。
電車の扉が、駅名を告げるアナウンスに続いて、プシューッと音を立てて開いた。どうやら、章子の自宅の最寄り駅へ着いたようだ。心臓の拍動が速度を増す。気乗りしない心で懸命に体を動かした。ここまで来たならば、否が応でも帰らなければならないだろう。章子は駅から出て、自宅への道を進む。
不安が脳全体を覆うように貼りついた。タダシとのことを渚に知られてしまったらどうしよう。そんなことがあったら、もう二度とタダシに会えなくなってしまうかもしれない。しかし、今、一番心配すべきなのは、これからの章子自身の身の上だろう。両親からどんな制裁を下されるか予測できず、恐ろしくて仕方ない。
目の前には、我が家がある。家に着いた。着いてしまった。章子は表情を歪め、拳を作って、下唇を噛み締めた。自宅なのに、家全体が今までにない荘厳な雰囲気を纏っている。まるで、ゲームに登場するラスボスとこれから対面でも果たすかのように、章子は苦しげに自宅を見上げた。
亀が歩くようにゆっくりと、章子は自宅の引き戸に手を伸ばした。その手を、膨れ上がる負の感情が引き留めようとする。
屋外は寒い。最後は寒さが後押しする形となって、章子は勇気を振り絞り手指に力を入れた。思い切り引き戸を開ける。玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると、続けざまに、花模様が浮き出ている透明なガラス引き戸を引いて居間に入った。 居間の中心に立っている正が振り返り、章子の目を射抜くように凝視した。怒髪天を衝く形相に、章子は本能的な恐怖を感じ、急いで正の横を通りすぎようとする。
「今までどこにいた!? 学校から電話がかかってきたぞ!! このバカたれがっ!!!」
すると、正は顔を真っ赤に染めながら怒鳴り、章子の背中を全力で叩いた。章子は強張った表情をみるみるうちに崩し、ついには火がついたように泣き出した。
「うわああああああん! あああああん! あああああん!」
「まあ、章子。どうしたの?」
渚が騒ぎを聞いて二階から下りて来ると、居間の出入り口から顔を覗かせた。
「お父さんがぶったああ! あああああん! あああああん!」
章子は渚の方も正の方も見ずに壁に向かって声を張り上げ、苦痛を外へ絞り出すかのように泣き続けた。
「お父さん、今まで愛情かけて章子のことを育てきた? そうじゃない人が、娘に手をあげたら、章子の心がお父さんからはなれてゆくばかりだよ」
章子の背後で、渚が正へ諭すように忠言する。正は溜め息を吐くと、居間を出て姿を消した。
渚が章子に近付き、章子の髪の毛に鼻を寄せる。
「髪が艶々してる……匂いもうちのシャンプーの匂いじゃない。どこ行ってたの?」
章子は的確に真実を言い当てようとする渚を前に、ぴたりと泣くのを止めた。
「首に痣あるよ。どうしたの?」
「えっ?」
「男の人にお金もらったの?」
「……ううん」
「そう。章子はあんまり可愛い子じゃないからねえ。しょうがないね」
そう言うと、渚は章子の頭を、幼い子どもをあやすかのような優しい手つきで数回叩いた。まるで、すべてを包容する女神のようだった。




