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二十、

 背後から複数の手が伸びてくる。章子は下級生達から学帽をとられないように、普段通り両手を頭の上にのせ用心しながら、登校班の班長として通学路を歩いた。

 千春専門校九年D組の教室のドアを開けて中へ入ると、定位置にあるはずの章子の机と椅子が消えていた。章子は目を見開き、首を動かして辺りを見回すと、少し離れた窓側の通路に投げ出すかのような形で、机と椅子が放置されているのを見つけた。

「あれ、丸井どうしたの? お前の席なんてこの教室にはないというのに」

「どちら様ですか? もしかして、教室を間違われたのではないですか?」

 一部のスクールカースト上位男子数名が顔に満面の笑みを張りつけて、章子の様子を猛禽類のような目つきで観察してくる。

 途端に、章子の体感温度が低下した。全身を纏っていた緊張感が一気に濃くなる。陰惨な死体遺棄現場を目撃でもしたかのような、容赦のない凶悪性が強引に纏う空気の中へと割り込んでくる。

 複数のクラスメイト達もこの場の状況をゲーム感覚で楽しんでいるようで、はっきりした薄笑いを浮かべている。弱り目に祟り目だ。朝から連続して他者からの悪意に触れた章子は、突然、空虚ばかりを感じる頭の中で何かがぶちりと切れた。気力が木っ端微塵に粉砕されたかのようだった。

 もう、我慢できない。もう、何もかもがやっていられない。自分の席がないならば帰ればいい。元々、この学校に関するすべてのものやことや人が嫌いだった。下位以上の同級生達は人を傷付ける言葉を平気で口にして、仲間同士で人の失敗を話のネタにして平気で笑って、何の躊躇や恐怖も見せずに平気で自己主張をする。

 明るくカラフルに色づいた世界で、安定した温情に包まれながら幸福げに生きている中位以上の同級生達。片や章子たち最下層の生徒達はと言えば、荒廃したモノクロ世界に身を置き、いつ下位以上の同級生達から鋭敏な槍で刺されるかとびくびくしながら日がな一日を送っていた。

 こんな弱肉強食な世の中で、一体いつまで、自分の感情を殺して生きていけばいいの? 私は、もう私が私であることが嫌だ、そう強く思った瞬間、章子は踵を返していた。

 教室のドアへ向かうと、

「負け犬がお帰りでーす」

「死ね」

「もう二度と来んじゃねえよ。ハハハハ」

 上位男子達の笑みを含んだ大きな声が、後ろから追いかけてきて、背中側から章子の胸を突いた。章子は何の反応も返さずに、廊下を颯爽と歩くと、そのまま職員室を通りすぎて、下駄箱で靴を履き替えた。

 学校の外に出ると、清々しい空気が風に乗って章子の鼻腔へと流れ込み、秋から冬になる中間の匂いを嗅いだ。嗅覚を刺激されることへの愉悦で、泣きたくなる気持ちを誤魔化しながら章子は前進した。門の前に立っている教職員の呼び掛けすらも無視して、自宅へ直行した。途中で、いつの間にか御守りのように固く握りしめていたスマホが、振動したことをきっかけに章子はハッと我に返った。

 少しずつ冷静さを取り戻してゆくと、誰にも何も告げず、学校を後にした自分の最前の行動を章子は恐れ始めた。担任はまず安否確認のため、章子の自宅に電話を掛けてくるだろう。その時に、家に誰もいなければいいが、どう足掻いたところで、章子が学校から逃げ出したという情報は渚の耳へ遅かれ早かれ入ってしまうだろう。そうなれば、渚は無茶苦茶に怒り狂って、その激情を暴力という形で章子へぶつけてくるに違いない。それだけは、どうにかして回避したい。章子はどこか遠くへ、落ち着いて安らげる自分だけの居場所を探し当てて、訪れたくてたまらなかった。

 歩きながらスマホのロックを外し、メール画面を見た。タダシからだった。前回と同じ待ち合わせ場所に今から来れないか、という簡素な内容のメールだった。

 章子の心は、充ちるような嬉しさで揺れ動いた。だが、前回と同様に金が貰えないのであれば、再びタダシと会う必要はなくなる。最後まで今か今かと待ち望んでいた金銭の授受が、一向に行われなかった時の悔しさがよみがえる。それにも関わらず、章子はタダシの洋服の袖を引っ張って、こちらに関心を持ってくれるよう仕向けたくなった。その理由は恐らく、目を覆いたくなるほどの学校生活から逃れたいから、円香への嫉妬心が駆け登って来たから、汚された体の責任をとってほしいから、峻烈な愛情飢餓を満たしてほしいから、かもしれない。

 章子はスマホを左手で持ちながら、空いている右手の人差し指が自然と動くに任せて文字を打ち込んだ。一言、簡潔に、今から向かいます、と。

 章子は足早に自宅まで帰ると、居間の自分の椅子の上にリュックサックをおろすと、あわててパスモとスマホと財布を黒のショルダーバッグに詰め込み、最寄り駅まで駆け出した。

 考えなしに電車に乗り込んだが、新つつじヶ丘駅周辺の待ち合わせ場所まで、どんなに急いだところで一時間以上はかかってしまう。タダシは移動時間を考慮して、章子との約束を守ってくれるだろうか。一度は約束を反古にした男だ。初対面の際に、恐怖と軽薄な印象しか持てなかったタダシに対して、繰り返し交互に訪れる焦燥と不信が章子の胸中を跳び回った。

 電車を一度乗り換え、歩くべきところは競歩に近いスピードでひたすら歩いているうちに、章子は気温の低い電車外で汗ばんでいた。汗が肌に密着している下着を濡らして、体を冷やす。電車の中で見たスマホのメール画面には、寒いから月山喫茶店の中で待っている、というタダシからの連絡がうつされていた。

 章子はスマホを握りしめ、タダシのことだけを考えようとする。それでも、思考の隙間を縫って、脳裏に浮かび上がるのは今朝、学校で起きたばかりの忌まわしき出来事についてだった。定位置から机と椅子をどかされ、乱暴な口調で「お前の席なんてねえよ」と面と向かって言われたようなものだ。無量無数の悲しみと悔しさで、胸が容量の限度を越え張り裂けてしまいそうだった。

 なぜ、ああいう有象無象の連中には天罰が下らず、弱者である章子にだけ多難が降りかかってくるのだろう。章子は暖房のきいた電車内で、手すりに身を預けながら目を閉じた。

 美味しそうな温気のある匂いがする。章子は、今、給食当番の白衣を着て九年D組の教室にいた。目の前の配膳台の上には、食欲をそそる食事の入ったシルバーの入れ物や鍋が並べられている。章子は、春雨と鶏の肉団子とチンゲン菜が具材の汁物を食器によそる担当になった。

 担任の指示により、一班と二班がまず最初に給食をもらいに列を成した。汁物は一番最後、配膳台の右の隅に位置づけられている。

 章子は一班と二班の顔ぶれをさっと横目で確認すると、利き腕である右腕を通常より少し上へ不自然に持ち上げた。

 いた。長谷川と仲の良い、章子にだけ人が変わったかのように嫌悪を剥き出しにして聞こえよがしに悪口を言う、普段は陽気な上位男子・有馬が列の先頭でこちらへ向かって来る。

 章子は手品師のように白衣の袖に、フレディが愛用していたと聞く毒物・タリウムが入った容器を忍ばせている。腕を少し上下に振るだけでタリウムが数滴、真下へ落ちるという仕組みである。

 有馬は、コッペパンとビーフシチューを盆の上にのせると、あっという間に章子の前まで来た。章子はお玉で汁物をすくい食器によそった。その際、食器の上で右腕を思い切り下へ振り下ろした。そして、何事もなかったかのように有馬の持っている盆の上に置いた。

 章子はその手順を繰り返し、日頃恨みに思っているクラスメイト達の汁物へ次々とタリウムを垂らしていった。その行為は、章子へ悪質な期待と喜びをもたらした。

 今の章子には、九年D組の担任を含むクラスメイト全員の命の生殺与奪の権がある。嫌いな担任やクラスメイト達が悶え苦しむ姿は、想像するだけで、かつて類をみないほどの極上の爽快感を章子へ与えた。その時の章子の表情は、冷酷な、極めて薄情で、厭人的な要素を持つ、嬉々とした鬼の面をしていた。

 すると、

「次は、新つつじヶ丘~新つつじヶ丘です」

 駅員の低い声が耳へ入り込む。章子は息つく暇もなく妄想から現実へと引き戻され、目を開けた。

 ようやくたどり着いた新つつじヶ丘駅から目的地である月山喫茶店までは、歩いて五分ほどだとスマホの地図は示している。

 外へ出ると、青空に絵に描いたような雲がたなびいている。章子は息を切らしながら早歩きした。静かで、張り詰めた恐ろしさのある朝の空気に心細さが増す。

 章子は呼吸音を限界まで潜めて、幾人もの人々と街中ですれ違った。雑貨屋の店員が看板を出し、開店準備をしている傍を通りすぎる。

 章子は足を止め、軽く深呼吸したのち、月山喫茶店の扉を開けた。店内は木材の匂いが薫る、レトロチックな内装をしている。愛想の良い制服姿の壮年の男性店員が章子を迎え、

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

 と、笑みを崩さずに尋ねた。

「ぁ、あの、連れが先に来て、ていて、と思いますが……」

「かしこまりました。どうぞ」

 男性店員は少し頭を下げると、店内へ入るよう片腕を持ち上げた。章子は深々と頭を下げると、広々とした店内を見渡した。光沢のある木材のテーブルに、若草色の布地のソファー。

 章子は、動きのある一点に視線を固定した。そこには、笑みを浮かべながら章子へ向けて手を振る、上下黒の洋服に身を包んだタダシの姿があった。

「いきなりごめんね。また、会いたいと思ったからさ」

 章子が近付いてゆくと、タダシが微笑みながら話し掛けてくる。

 章子はその微笑みを半瞬見て、反射的に目を逸らした。途端に、体がカァーッと茹でたように熱くなった。

 初対面でラブホテルへ行った時は、魔法でもかけられていたかのように平常心でいられた。それなのに、改まって二度目の対面を果たした今日、タダシの美貌を前に動揺が痙攣のように激しく章子の身体中を巡った。

「どうしたの? 早く座りなよ」

 傍へ寄ってから直立したままの章子へ、タダシが目の前のソファー席を指差す。

 章子は深く頷くと、タダシの真正面である若草色のソファーへゆっくり腰をおろした。

「学校はどう? 楽しい?」

 タダシの視線を感じ、章子は覚悟を決めて顔を上げた。タダシの三日月形に細められた目と目が合った瞬間、稲妻が章子の心臓を突き刺した。タダシの口元は見るものを虜にするような魅力を放っており、これ以上の凝視は章子の目を溶かしてしまう恐れがあった。

「……楽しくはないです」

 しばらくの沈黙の末、章子は緊張感のある震え声で答えた。

 ソファーの色と同じ若草色の灰皿の中には、タダシが吸い終えたと見られる縮んだ煙草の吸殻が四本入っていた。

「そっか。俺の学生時代もそんな感じ。退屈だったなぁ……だるくてさ。友達と夜遊びしてる方が何百倍も楽しかった」

 タダシがコーヒーカップを持ち上げると、今まで隠れていたソーサーの全面があらわれ、ソーサーに描かれている草花の模様がよく見えた。

 話が弾む訳でもなく、沈黙によりまどろっこしい空気が対面している二人の間に流れた。

「じゃあ、移動しようか」

 月山喫茶店を後にし、章子とタダシは横並びでラブホテル街の小道を歩いた。

 一組のカップルがラブホテルへ入ってゆくのを、章子は何気なしに見ていると突然腰に手を置かれ、そのままタダシの方へと引き寄せられた。章子は一瞬呼吸が止まり、頭の中で電球が灯って、目を見開いた。

 昨日、妄想の中で見た円香とタダシの恋人同士のように親密な姿が想起される。頭に浮かんだあのポーズに、章子は並々ならない嫉妬心を抱いていた。けれど、今、こうしてタダシの左手の温もりを、章子の腰の骨である大腿骨で感じられている。タダシの行為は、章子を性的対象として求めている証と言っても過言ではないだろう。たったそれだけのことが、これほどまでに嬉しいことだとは思わず、章子は緊張感が少しずつほぐれてゆくのを覚えた。

「あれから、他の男とセックスした?」

 タダシが口を開いた。

「……いえ」

 章子は二拍置いて正直に答える。

「この前は、初体験なのに激しくしてごめんね。今日は、優しくするって約束するから」

 タダシが章子の腰回りを優しく撫でる。

「……はい」

 章子はあっという間に顔が赤くなった。

「めいのお父さん、お母さんにはバレなかった? 服についた煙草の匂いとか、上手く隠し通せた?」

 タダシが意味深なことを問う。

「……多分、大丈夫、です」

 両親はきっと気付いていない、と章子は思った。

「女の子って、回数重ねるごとに気持ちよくなるみたいだよ。めいもハマると良いね」

 タダシの言葉は上手いセールストークのように、甘い誘惑となって章子の胸に浸透する。章子は照れと期待と後ろ暗さから返答することができなかった。

「円香とは友達なの? 今度、三人でヤってみない? 連絡先持ってる? 円香を誘ってみてよ」

 タダシが密着を強めながら章子を見つめて言う。

 円香。

 ごく短期間だけ章子の友達、だった女の子。

 複雑な気持ちが章子の胸に去来する。明るさの根源である太陽が、真っ黒な大群の雲に覆われて、空が暗闇に包まれるかのように章子の開けていた気持ちも塞がってゆく。

「……話してみます」

 章子は小さく深呼吸をし、意を決して言葉を紡いだ。静かに長く息を吐いて、円香の存在を振り払う。

 それからのタダシの雑談に、章子は一抹の怯えから大袈裟に頭を振って答え、傾聴しているアピールをした。

 その最中に、章子は奥歯の隙間に挟まった食べ物のように頭の片隅に引っ掛かっていた、ある映像と画像を思い起こしていた。タダシは似ている、フレディに。特に狐を思わせる二つの目は、生き写しではないかと錯覚させるほど瓜二つだった。二人の双眸は、まさに“犯罪者の目”であった。改めて冷静に思考すると、気持ちにブレーキがかかるが、その言葉を“悪い男の目”と置き換えてみると頷けた。章子は、アニメや小説の中に登場する正義のヒーローよりも、カリスマ性のある悪党に惹かれてしまう気質が幼き頃よりあった。「どうしたの? めい、考え事?」

 タダシの薄く笑んだ顔が、章子の顔にくっついてしまいそうなほど間近に迫り来る。

 章子は目を大きく見開き、思わずタダシから数歩後退りした。その様子を見てタダシが、

「大丈夫?」

 と、言って余裕たっぷりに笑う。

 瞬間、章子は察してしまった。タダシの笑顔にどんな意味が含まれていようと、たとえそれが嘲りや苛立ちであるとしても、章子の目に今、映ったタダシの笑顔は太陽の光のようにまぶしかった。そう、小金井の笑顔と同じように。

 小金井へ抱く片想いの気持ちと、タダシに対する想いとが、似ているどころかまるで同じ感情であると言うことを、章子自身が自覚した瞬間だった。

「具合悪いとかじゃないんならホテル行こうよ」

 タダシに促され、章子は言い訳できないほどに赤面すると首を大きく縦に振った。

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