十九、
帰りの会が終わると、章子は誰にも気づかれないよう静かに深呼吸をし、胸を撫で下ろした。今日も無事すべての学校の授業が終了した。
クラスメイト達の前で学級委員長に詰問されたあのトラブル以来、周囲が章子を見る目の色は変わった。非難の色に、あからさまな侮蔑と加虐の色が含まれるようになった。
したことには尾ひれがつき、されたことには黙り込んでしまう傾向のある章子の性質は、円香にとって、或いは角浦や海老原などにとっても、外部に嫌がらせが発覚する恐れがなく好都合であったろう。言った者勝ちとはよく言ったものだ。
しかし、彼、彼女らは章子が口重で、自らの家族にさえも学校であった出来事についての話ができない人間だとは思えなかったようだ。そのため彼らは、大人たちの目の行き届かない水面下で章子を攻撃し始めた。
章子の朝は命懸けだった。精神状態は、ただの憂鬱で済まされる範疇ではなく、未成年にして病的なほどの鬱状態を抱えていた。登校班の下級生達に、今度は学生帽をとられるという被害に遭いながら、やっとの思いで登校し教室に入るも、一難去ってまた一難。
次は、心ない言葉をスクールカースト上位のクラスメイト達から投げつけられる。
「来たよ」
「不潔なバカ」
「おい、温水。俺の海老原に手ェ出すなって丸井に言ってやれよ」「うるせえなあ」
「美女に嫉妬して狂ったブス」
「罪悪感で死ね」
章子が着席するために机と机の間の通路を通ろうとすると、何者かの脚が大胆にも行く先を遮った。章子は伸びてきた長い脚を避けきれず、バランスを欠いて体勢を崩し、そのまま床の上に倒れ込んだ。衝撃で視界が、未曾有の大地震でも起きたかのようにぶれた。
腕と膝に、蕾が開いたかのような鮮烈な痛みが表面上に宿る。章子は驚いて半瞬目を大きく見開いたのちすぐに細めると、歯を食いしばった。思えば、章子は元々インドア派で外へ出て遊ぶといったことをしない為か、歳を重ねるにつれて転ぶと言ったことはほとんどなかった。転べば相応の痛みを感じることを、すっかり忘れていた。こんなにも痛かったのだ。
「ぷぷぷぷ」
「いつまでも寝てんじゃねえ。一人で幅とってんじゃねえよ」
中位男子二人の声が聞こえる。顔を見ていないため二人がどんな表情をしているのか分からないが、明らかに章子と言う人間を下に見ている。
章子は俯いたまま無言でゆっくりと立ち上がった。打ち付けた腕と膝の他に、心にも重篤な怪我を負ったかのようだった。
章子に手を出した者は、嫌がらせの原因を作ったのは完全に章子だとそれらしく話を盛って嘘をつき、自分達が犯した罪を隠蔽しようとした。彼らは、自分達が章子に対して行った嫌がらせを、裏で章子が家族や教職員に告げ口しているに違いないと考えて逆上し、被害妄想を膨らませて好戦的になる。そして、とびきりの嘲笑を口元に刻みながら章子を余計に悪しざまに貶し、底のない落とし穴に突き落とそうと企む始末だった。
彼らの保身故の罠にはめられた章子は、口さがないクラスメイト達からの正義という名の視線に射殺されそうだった。それは、時折章子が正へ向ける視線と類似していた。そのために、クラスメイト達が章子をどんな風に思っているのか嫌でも分かってしまう。
章子にはただでさえ、大勢の人々の前に立つと話せなくなってしまうという泣き所があった。それにより、教室では居場所が見つからず一人孤立していた。にも関わらず、章子が毎日学校に通学する理由はただ一つ。渚が厳しいからに他ならなかった。そうなると、章子は家にばかりいて働かずにいる正がぬくぬくしているようにしか見えず、正を憎むまでに至ってしまう。この時、章子自身がかつて犯した数々の悪事に対しての記憶は、都合良く頭の片隅へと追いやられ、随分長い間忘却の彼方へと葬り去られていた。
章子は着席すると、ある使命のような決意を抱いて顔を上げ、円香の姿を探した。その瞳には、昨日沸き起こった嗜虐の色はなく、ただ純粋に円香を心配する光だけが揺らめいていた。その光は、章子の一方的な仲間意識から生まれ出たものだった。
前方の席に着いた白いブラウスに身を包む円香の姿を章子は捉えた。大人っぽい清楚系のOL風コーディネートに思わず目を奪われた。円香は輪郭美人で、和の趣の強い愛嬌のある顔立ちをしている。
ふと、視線に気が付いたのか円香が涼しげな首元をゆっくりと回して章子の方を向いた。しかし、顔だけが動いただけで目は伏し目がち、視線がぶつかり合うことはなかった。章子がいくら視線を送っても、円香から視線が返ってくることはない。やはり、嫌われているのかもしれない、と思い章子は辛くなった。
円香も理由があって出会い系サイトに手を出し、金銭と引き換えにタダシと寝たのだろうか。円香は、章子から見る限り吹奏楽部に入り、身に纏っている洋服も真新しくお洒落で金銭に困っているようには見えないが、直感は当たっているだろうか。章子は自分の直感を大切にしていた。けれど、その一方で、直感に手酷く裏切られるという経験も存分に味わってきたため、これ以上憶測を深めることは控えた。
章子には、円香について気掛かりな点が三つあった。一つ目は、円香はタダシと今でも連絡をとり合い通じているのかということ。二つ目は、円香はタダシからちゃんと金銭をもらえたのかということ。三つ目は、円香は性的快感をきちんと得られていたのかということ。一つ目と二つ目は、聞けばタダシが教えてくれたかもしれないが、三つ目だけは円香本人に聞かなければ分からない。不快が溜まった壺の中を男性器が貫いて抜き差ししている感覚で、章子は性的快感など微塵も分からなかった。これは異常なことなのだろうか。アダルトサイトの動画の中で性交している女優の反応と、昨日のタダシとの性交で章子が感じた確かな感覚は、何もかもが違う気がしている。
写真の中で、扇情的で艶かしい格好をした円香の姿態が頭の中に思い浮かぶ。恥じらいがありつつも性に貪婪そうな顔の表情。
章子は、脳裏に映る円香から現実の円香へと視線を走らせた。その時、現実の円香の唇が小さく動いたような気がした。円香の口はスローモーションで動き、実際には聞こえるはずのない言葉がそこから漏れるのを章子は見逃さなかった。
あんたは、不感症。
章子は下唇を噛み目を丸くした。次に間髪を入れずに、タダシの色気のある美貌と筋肉質な体が脳裏に浮かぶ。タダシのあらわになっている腕が、キャミソール姿の円香の腰をしっかり抱き寄せている。日本において異性の腰に手を回すという行為は、相手を性的対象として見ている確率が高いと言う。章子は円香を心配する気持ちが濁り黒くなって、同情のかさが急速に音を立てて減ってゆくのを感じた。タダシは章子だけではなく円香のことも抱いている。それも恋人同士のように、熱く激しく燃えるようにーー。章子の性的魅力はないに等しく、完全に円香よりも劣っているということくらい、容姿を比較すれば火を見るより明らかだった。だから、円香は金をもらえて章子はもらえなかったのだ。それは当て推量の域を出なかったが、想像するだけで今まで存在すら忘れていた嫉妬の感情が嵐となって胸中を荒らし始めた。
章子は校門を抜け、学校の外へ出て帰路を歩いた。
今日は、下駄箱の中に鈴虫の死骸が四匹入っていた。これくらいならば、助かる。昨日はゴキブリのフィギュアがたくさん入っていたから恐慌した。思わず絶叫したその姿を、スマホで動画にとられ、隣の席の長谷川を中心に休み時間に視聴会が始まった。
「声も動きもきっもーい」
「こんなの甘えでしょ。本当は喋れるのに喋れないとかわがまますぎ」
「自己中心的だよね。ほんと、これだからB型は……」
円香にしか教えていない章子の血液型を彼らは知っていた。世間では、人間を四つのタイプに分類する血液型占いが流行っていた。
その後、動画はクラスメイト達の間で瞬く間に拡散されたようだったが、友達のいない章子にはそれを確認する術を持ち合わせてはいなかった。
章子は、俯き加減でコンクリートの地面を見ながら前進した。茶色がかった小さな蟻がジグザグに歩いているのを見つけると、踏まないように細心の注意を払いながら章子は、もしかすると自分はそこら辺にいる蟻よりも不幸なのかもしれない、と本気で思ったりした。
灰色の電柱を避けるために顔を上げた。すると、近景でも遠景でもない中間程度の眼前に、高木と小金井の後ろ姿が見えた。二人は付かず離れずの距離を保ち、会話をしているようだった。
章子は目を見開き察した。高木の家はこちらで合っている筈だが、小金井の通学路は反対方向のはずだ。寄り道してまでも高木の傍にいたい、という小金井の想いが伝わってくる。章子は眼球が唐突にパサついて水分を欲する感覚を覚え、目を何度も瞬いた。処女を喪失したことにより生まれた束の間の青い優越感は、本物の青春を前にして呆気なく霧散した。崖から突き落とされたかのように足元が不安定になり、気持ちが奥底まで落下してゆく。
高木は温厚で優しかった。章子を断罪し、差別的な振る舞いをしかけてくるクラスメイトがいる中で高木は今までと態度を変えなかった。会えば章子にも気軽に挨拶をしてくれるし、登下校の道で出くわすとフレンドリーに声を掛けてくれる。周囲はそんな高木を放っておかず、常に誰かしらは傍にいてお喋りを楽しんでいた。章子は、人たらしな高木に自ら近づいてゆくことは出来なかった。
高木と小金井の距離は急速に接近したかと思うと、露骨に離れたり、かと思えば再び近づいて、高木も小金井も互いに弾けるような笑顔を見せ合っている。そこには、温かく灯る恋慕の焔がハート型を描き、二人を包み込んでいる。
噂通りの二人だ。
章子は歩みを止め、目を細め、顔を伏せて、これ以上二人のいちゃつき様が目に飛び込んでこないようにした。
「もう、小金井ムカつくぅ」
言葉とは裏腹な高木の明るい美声が、章子の耳を打つ。その甘ったるさでコーティングされたかのような声の響きを聞いただけで、章子は今にも口から砂糖を吐きそうだった。
どうせ、小金井がからかいでもしたのだろう。小金井は、小木に日頃から「ドS様」と呼ぶことを強制し、そう呼ばれることを誇りにしているような上位男子だ。それに対し高木は愛され上手の中位女子で、いじられキャラでもある。まさに、小金井と高木は誰が見てもお似合いのカップルだった。
二人の仲睦まじい後ろ姿を、章子は立ち止まって灰色の電柱の後ろに身を隠しながら見つめていた。微笑ましい筈なのに、羨ましくて妬ましい。
初体験をどこの馬の骨とも知れないタダシと事に及んだ章子は、充分すぎるほど臍を噛み、痛い想いをした。タダシは約束を反故にし、事前に二人の間で取り決めていた一万五千円の現金を渡してくれなかった。章子ははるばる援助交際のために隣県まで電車を使って遠出をしていた。タダシからの援助金で往復の交通費くらい余裕で補えると踏んでいたのに、これでは損しかしていない。タダシの二枚舌を許すことはできない。守銭奴な章子は気でも狂ったかと思うほど、内心乱れに乱れた。タダシは、「次も会おう。今度は円香も誘おうね。またね」と飄々と別れを告げると、手を振って章子に背中を向け、繁華街の雑踏の中に消えていった。
章子は、すべてのオキシトシンを奪われでもしたかのように、心がカサカサに乾燥していた。気持ちのない男との粘膜同士の接触は、寂しい心の隙間を埋めてくれる訳でもなく、章子から正気を吸いとり絶え間なく蝕んでゆくようだった。




