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十七、

 税込価格五十九円で安売りしていた納豆のたれが甘くて口に合わないと章子は、朝から気分を害しながら元々行けば気分の悪くなる千春専門学校へお気に入りのリュックサックを背負って登校した。着席してすぐ、クラスメイト達数人から悪意や敵意のある眼差しを向けられるという異変に気がつくと、章子は自己防衛の為にもがくりと項垂れた。ひたすら自分の内側にこもり、心の声と軽い会話を交わした後、妄想に没頭した。

 ある日、学校でクラスメイトの一人の男子が発狂しゾンビ化して、手に持っている鉈を振り回し暴れ始めた。章子は何の前触れも脈絡もなく、不思議な力を天から授かって、クラスメイト達と担任を守りながら華麗な身体術を駆使して、そのゾンビ化したクラスメイトと戦い、無事息の根を止める。

 すると、どうだろう。周囲は章子の存在価値を認めるようになる。勇気ある行動を讃え、感謝される。今まで粗大ごみのような扱いをしてごめんね、と謝罪までされる。

 そうだ。そうして、この時になってようやく、初めて章子は九年D組のみんなから存在を受け入れてもらえるようになるのだ。

 ふふふふふ。

 章子は一人で、口を閉じたままもごもごと唇だけを動かしてニヤニヤ笑った。

「キモすぎ」

 隣の席にいる長谷川が棘だらけの小さな男声を発する。

 無数の棘が章子の胸に突き刺さるが、妄想の世界に没入している為に傷の深度はごく浅い。

 それとは別に、明らかに近くで人の気配がする。その気配はどんどん存在感を増してゆく。

 次の瞬間、章子の机の上に人影ができ、視界が薄暗くなった。

 バンッ。

 激しい音が教室内に響く。

 誰かが章子の机の上に、両手の平を叩き付けた。

 章子は、妄想の世界から強制帰還させられ、一瞬体を大きくびくりと震わせた。ゾンビの殺気を感知したかのように恐々顔を上げると、そこには凛として気高い雰囲気を纏ったクラスメイトの上位女子・学級委員長が真正面に立っていた。クールビューティーという言葉がよく似合う、そんな容貌をしている。

 学級委員長は、ゾンビではない。ここには、ゾンビはいない。章子は胸を撫で下ろし、乱れた呼吸を整えた。

 章子と学級委員長は何の因果か、六年生から九年生までずっと同じクラスだった。学級委員長のクラスメイト達をまとめ上げる統率力と気の強さは折り紙つきで、他の追随を許さない。合唱コンクールの練習をサボった中位男子数人を口喧嘩で負かして泣かせた逸話まである。

 一度も会話をしたことのない学級委員長が、一体章子に何の用だろう。

「丸井さん、海老原さんのこといじめたって本当? 自宅に呼ばれて、丸井さんと手押し相撲して遊んでたら、いきなり手の甲に爪立てられたって聞いたんだけど」

 目を丸くしながら章子は状況が把握できず、混乱しつつも周囲の様子を見渡した。黒板の前でちらちらとこちらを見ながら会話をしている角浦、海老原、円香、花田の姿を章子ははっきりと捉えた。

 海老原は俯きながら自分の胴体に腕を回し、心なしか泣いているようにも見える。その肩を、円香が優しく抱いている。少し距離を置いて、数人の上位女子と角浦が、海老原の身辺を守り固める騎士のように並んで立ち、章子を蔑むような目で見ていた。

「母親にちゃん付けで……甘やかされて……マザコン」

「…まじ……キモい……バカ」

「何それ? アスペって、人の気持ち分かんないみたいだし、付きまとってくるならはっきり言ってやった方が良いんじゃね? 人に怪我させてばっかじゃん」

「小木にも振られてるし嫌われてるって教えてやろうよ」

「……ね……」

「後輩いじめるなんて、丸井サイテー」

「ピアノ……嘘つきで……、……うざい」

 角浦、海老原、円香、花田とその他数人の微かな断片的な声を、章子の耳は地獄耳さながらに拾い上げた。固唾を呑む大多数のクラスメイト達の野次馬根性丸出しの気配までもが、ひしひしと感じ取れる。

「いい加減にしなっ!! 早く答えてっ!!!」

 学級委員長は、鋭利な氷の刃のような冷たい響きを持って、返事を催促した。

 章子は持ち前のおとなしい性格ゆえ、ぐうの音も出ず、眉間に皺を寄せ下唇を噛んだ。何故こんな目に遭うのだろう。優しくて自分に都合良くできている妄想の世界に、一刻も早く戻りたい。

 あの日、海老原の手の甲をつねってしまったことは間違いない。しかし、章子が海老原と手押し相撲をしたことは一度もない。仮に怪我をさせたかもしれないことだって、やむを得ない事情があった。あれは、不可抗力だったのだ。責められる筋合いはない。

「あのさ、丸井さんって円香達と一緒にいる時は饒舌なんでしょ!? 赤ちゃんじゃないんだから、黙ってないでちゃんと喋れよっ!!!」

 語気をさらに強め、凄みを利かせて決めつけにかかる学級委員長は何かを誤解しているだけなのか、それともただ単に章子を厭い責めたいだけなのか。

 章子は、裁判長から判決を下されるのを待つ罪人のように、ただただ怖気づき、体を細かく震わせ、押し黙っている。

「全校遠足で新入生の女の子と手繋いだ時も、その子の手に爪立てて怪我させたんだってね。一生消えないトラウマを、新入生のその女の子に植え付けたんだよ。あんたって、人間として最低なことしてるんだって、ちゃんと自覚してるの?」

 章子は真っ向から受けて立つことなど到底できず、萎縮するだけで何の反論も身動きもできなかった。新入生の女の子というのは、あのはな垂れ女児のことを指しているのだろう。

「可愛い新入生の女の子にまで意地悪してんだ? 何で? 理由は? 正当な理由があんなら聞くけど。ブスだからって嫉妬してんじゃねえよ!!」

 学級委員長は、随分とはな垂れ女児の気持ちに対して敏感で思慮深いように思える。章子の見えないところで密接な繋がりでもあるのだろうか。そのために、孤立無援状態で怯えている章子を、弱者に対しては苛立ちから強く出る性格を隠そうともせず、一方的に責め立てるのだろうか。

 まさか、章子が女児の手を強く握り締めたことにより相手の骨を折ってしまった可能性はあり得るだろうか。しかし、そこまで強く力は入れていない筈だし、女児も痛がる気配の一つさえ見せていなかった。と言うことは、女児が大袈裟に上級生の何者かに訴えたとしか考えられない。

 いずれにせよ、章子が不本意ながらも女児に何かしらの手出しをしてしまったことは事実だった。

 章子は女児への後ろめたさと学級委員長の気迫と場の雰囲気に押されて、気がついた時には深々と頭を下げていた。

「……すみません……」

 消え入りそうな声を細かく震わせて謝る。

「謝るってことは、今、私が言ったこと全部本当なんだ?」

 学級委員長は冷たさだけを孕んだ声調で、見下げ果てたように言う。

「えー、本当だったの? 丸井、サイテーだな」

「うわぁ……」

「性格悪っ」

「えびちゃん、可哀想」

「えび、痛かったねえ。辛かったねえ。よく耐えたね。よしよし」

「可愛いは正義! 俺はいつだって海老原の味方だ」

 学級委員長の言葉の後に続いて、発せられる幾つかの声を聞いて章子ははっとした。自分の最前の行動を訂正したくて堪らなかった。

 学級委員長は、はな垂れ女児のことだけを言ったのではない。海老原のことも言っていたのだ。章子は直前のことしか覚えていられず、最初に言われたことを綺麗さっぱり忘れていた。

 章子は、クラスメイト達の非難や軽蔑を含んだ視線による集中豪雨を受けながら、脱け殻になったかのように呆然とした。

 教室の引き戸が開く音がすると、学級委員長達は蜘蛛の子を散らすように一斉に自分達の席へと戻った。それ以上のことは、担任が教室へ入ってきたことにより中断され、何事も起きなかった。

 チャイムが鳴って授業が始まり、先程のトラブルなどなかったかのように学級委員長や円香達はノートに板書を写している。

 今になって章子の胸に、学級委員長に謝ったことで生まれた後悔の念が、大群となって押し寄せ、渦を巻いた。一人気持ちを切り替えられず燻り続ける章子は、脳裏で学級委員長が口にしたことについて考えざるを得ない。章子が海老原を自宅に招いた挙げ句いじめて手の甲に怪我まで負わせた、と言う学級委員長の発言は末恐ろしい。詳細な経緯は不明だが、大方手の甲にできたと思われる傷を海老原が円香あたりに見せ、その際、事実を歪曲して話し、円香や角浦がスピーカーのように噂を周囲に流布して、それが学級委員長の耳にも入ったのだろう。そう考えると、友達だと思ったことのある円香は、今や章子にとって、どのように見ても目の上のこぶにしか見えなかった。

 天と地ほどの差がある多勢に無勢だ。後ろ楯のない章子には真実を伝える相手はおらず、片や海老原にはたくさんの味方がいて、周りが何艘にも渡って助け舟を用意してくれているようにも感じる。

 心臓の音が五月蝿いくらい鮮明に聞こえるが、章子はトラブルについて対処しようと行動することはなく、滔々と違うことを考え始めた。そう、そんなことよりも章子には胸が高鳴るような嬉しい出来事があったのだ。タダシから真夜中に写メールが送られてきた。めいに送ってもらうだけでは悪いから、とタダシも自分の自撮り写真を送信してくれたのだ。そのことが、章子は何よりも嬉しかった。タダシが誠実な人柄であることが伝わってくるのはもちろんのこと、送られてきた写真に写るタダシの顔が意外にも章子の好みであったと同時に、タダシが“正”ではなかったことがしっかりと判明した瞬間だった。

 タダシは黒髪で色白で、二重瞼ではあるが狐を彷彿とさせるようなつり上がった双眸をしており、鼻筋は綺麗に高く通っている。その双眸をどこかで見たことがあるような気さえするが、思い出せない。恐らくそれだけ、章子がタダシの容姿に惹かれているということだろう。

 上位女子達の中に性経験がある者はいても、体を売って金をもらった経験のある者はいないだろう。いつも章子につらく当たってくることの多い上位女子達より、一足先に不健全な大人の階段を上れるのだと考えると、底知れない刺激を感じて嬉しくもあり怖くもあった。

 授業が終わり、五分間休憩は引き続き妄想をしながら、筆記用具からボールペンを出して、側面に貼られてあるシールの印字を黙読するなどして暇を潰そうとしていた。

 ふいに人の気配がする。もしや、再び学級委員長が問い詰めに来たのではないか、と章子の全身を多くの不安が駆け抜ける。顔を上げると、クラスメイトの下位男子・高橋が満開の笑みを顔に貼り付けて章子を見下ろしていた。

 高橋は無言で章子の触っていたボールペンを取り上げると、ノック部分をカチカチと威嚇でもするかのように数回押してから、分解し始めた。

 ボールペンを返して、と注意することもできない。

 章子は首を反射的に竦め、高橋の不気味な行動と危険な笑みに寒気を感じていた。その面影は昨日、突然、自宅訪問にやって来た角浦によく似ている。地味な外見なのに、今にも毒を吐きそうな口元の雰囲気がそっくりだった。現に高橋が角浦や海老原と共によく三人組になって、会話をしたり行動したりしているのを見たことがあった。類は友を呼ぶというが、そのことわざはあながち間違っていないのかもしれない。

 高橋は分解し終えたボールペンの部品を章子の机上へ置いた。

 そして、

「ねえねえ、ここのツボ押すと頭がおかしくなるんだって」

 と、唐突に突拍子もないことを言うと、親指で章子の頭皮に触れ、そこからへこむくらい何度も強く頭の一箇所を押し始めた。

「天罰」

 高橋は表情を崩すことなくそう言って、章子の頭に自分の親指をじりじりと押しつける。

 痛みのある圧迫感を受けながらも章子はやめてとは言えなかった。親交のない高橋がいきなり近付いてきて、話し掛けてきて、頭に触れてきたことによって、章子はすっかり恐怖から体を固まらせてしまっていた。いじめをしたことのある人間はいじめられても仕方がないと言わんばかりの高橋の暴挙を、章子は無言で尚且つ無抵抗に受け入れる他なかった。つい先程、妄想の中で高橋も含めたクラスメイト達全員の命を助けてやったのにやらなければ良かった、と人知れず臍を噛んだ。

 高橋は数回頭がおかしくなるツボを押してゆくと、満足したのか自分の席へと戻っていった。不幸は重なるものだ。章子はおとなしいがゆえに、すべての負を集め、吸収してしまうかのようだった。タダシの美貌への想いで一度は持ち上がった章子の心も、相変わらずの孤独と無力さから再び陰鬱に零落していった。

 もうじき五分間休憩が明ける。

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