十六、
章子は慣れた手つきでリュックサックの脇ポケットの中をまさぐると、そこから鍵を取り出して自宅の引き戸を開けた。
案の定、居間には誰もいなかった。居間の奥まで進み、黄ばんだふすまを開け、畳部屋を覗いても誰もいない。
「お父さん、お母さん、いるー?」
章子は念には念を入れ、安全確認のため、家中に届くような大声で両親を呼ぶが返事はない。まるで、打ち捨てられた廃屋内に住んでいるかのように物音一つせず、辺りは静寂に染まっている。ということは、今この家には、章子を除いて誰もいないということになる。
頻脈に急き立てられるように、章子は親のいない間に、二つの禁断の行為をなそうと企んでいた。
まず手始めに、仏壇近くにある棚の引き出しを開け、渚のノートパソコンを手に取り、畳部屋のテーブルの上に置いて電源を入れ、起動させる。このノートパソコンは立ち上がるまでに相当な時間を要する筈だ、と章子は思う。
「前は起動させるのに、こんなに時間掛からなかったよねえ、章子。なんで起動するのに一時間も掛かるんだろう? ホント不思議」
意味深めいた渚の言葉を思い出す。
章子がこのノートパソコンを使って、性に費やしてきた時間ははかり知れず、それにより章子は貴重な余暇の時間と渚からの信頼を同時に失っていた。
「ねえ、最近ノートパソコンの調子がおかしいのよねえ。章子、何か知らない? 章子が使い始めてから何か変なのよねえ。章子が変なもの見たとしか考えられないんだけど」
まるで、すべての行動を読んでいるかのような渚の発言に、
「えっ、……知らないよ」
章子は下手な演技をして、徹底的に白を切る他、選択肢がなかった。
ノートパソコンがウイルスに感染しながらも健気に起動するべく奮闘している間に、薬棚の引き出しを開けて中を探った。図書館から借りてきた六法全書並の厚さを誇る薬事典を開き、手に取った風邪薬と照合する。
裏面の成分表を見ると、アスベリンが多く含まれていることが分かる。
アスベリン。一般名は、チペピジンヒベンズ酸塩。鎮咳剤。副作用は、眠気・不眠・めまい・食欲不振・便秘・口の乾き・胃部不快感・膨満感・軟便・下痢・吐き気・掻痒感。
章子は、それらの情報をひたすら漏れなくノートに書き写してゆく。薬の名前がカタカナで格好良いと感じたから、フレディのことを思い出したから、恐らくはそんな浅薄な思いが理由の多くを占めているだろう。
ウィーン。
ノートパソコンの真っ暗だった画面がようやく、晴れた日に見上げたいつかの空のような、爽快で明るい青色へと変化する。章子はノートパソコンの背を優しく撫で、今日は調子が良いかもしれない、とほくそ笑んだ。ストレスまみれのこの日常においては、欲求不満を慰める安らぎと現実を忘れさせてくれる刺激の両方の摂取が欠かせない。そのためには、このノートパソコンが必要不可欠なのだ。
しかし、章子が期待に胸をはち切れんばかりに膨らませる中、ノートパソコンにある異変が訪れる。画面が、青色から一時的にまた元の真っ暗へと戻った。かと思いきや、次の瞬間、AV女優が全裸でポーズをとっている画像が画面一杯に写し出された。期待だけでできていた胸中の風船が半瞬で破裂し、一気に肝が冷えた。
急いでタッチパットを人差し指の腹で撫でる。反応がない。
今度は人差し指の腹で音を立てて軽く叩いた。変化が見られない。
こうなってしまっては奥の手を使う他あるまい、と章子は電源ボタンを長押しして強制終了を試みた。だが、電源が落ちない。
章子は焦りのあまり自棄を引き起こし、ノートパソコンに備わっているありとあらゆるボタンを叩いたり長押ししたりした。
数分間に及ぶ格闘の末、ようやく画面が起動前の真っ暗へと戻ったものの、大人の冒険をさせ過ぎたノートパソコンはもはや使い物にならなくなっていた。
ノートパソコンを元にあった場所へ戻し、章子はしばらくの間、魂が抜けたかのように畳の上にへたり込んだ。安くない金で購入したであろう、渚のノートパソコンを完全に壊した。その事について渚から聞かれたとしても、知らぬ存ぜぬで通せば良いと思ってはいるが、緊張を伴う喪失感が章子を気抜けにした。
おぼつかない足元で立ち上がると、台所まで行って急須に湯沸し器の湯を入れた。淹れたての緑茶を一口飲むと、幾ばくか心が解きほぐれるような癒やしを得た。
テレビ台の方にある棚の引き出しを開けると、中にはたくさんの菓子が詰まっている。そこから、煎餅とチョコ棒を手に持つと、居間の椅子に腰かけて、時折緑茶で喉を潤しながら主食にするいきおいで食べ始めた。
気が済むまで食べ尽くすと、片付けをして居間の椅子へ座る。
「ここが丸井さんの家?」
「うん。円香ちゃんが教えてくれたから間違いないと思う」
突如、章子の耳に男女の小さくこもった声が入り込んできた。それは外から聞こえてきた。
と、ほぼ同時に、自宅の呼び鈴が鳴った。
章子は心の中でよっこらしょと呟きながら重い腰を上げ、不安げに玄関の引き戸を開けた。そこには、今まで会話の一言二言も交わしたことのない、クラスメイトの下位女子・海老原と同じく下位男子の角浦が立っていた。
「ど、どうもー」
清楚な高木とはまたテイストの違う可愛らしさと年不相応に豊満な胸の膨らみを持つ海老原が口元を緩め、どこか親しげに手を振る。章子も無視するのは可哀想だと思い手を振り返した。
「家、お邪魔してもいい?」
地味な顔付きだが中身はやんちゃそうな、年の割に妙に人慣れしすぎた雰囲気を持つ角浦が、微笑みながら既に家に入って来るような動きをしている。
「えっ、あ、うん」
突然のクラスメイト二人による家庭訪問に章子は動揺した。とっさに家に上がることを承諾してしまったが、本音で言えば拒否したかった。
土足で家に一歩足を踏み入れた角浦に、
「待って、靴脱いで」
と、章子は思わず眉をひそめ声を上げた。
「ちょっと~、角浦くん何してるんですかぁ」
海老原が媚びを売るような黄色く艶かしい声を出した。角浦は悪びれもせず、ああそうだった、と言うように玄関框から下りる。
すると、二人は靴を脱いで家に上がり込むと、章子の脇を通ってずんずん室内の奥へと進んでゆく。居間を通り越し、そのまま畳部屋まで行くと、どかりと腰を下ろした。この堂々としたならず者はなんだろう。角浦はあぐら、海老原は横座りをして、寛いで座っている。ここの住人である章子より住人然としている。
章子は、唖然として二人のあとをついて行った。玄関から居間へ進み、畳部屋へ入ると、海老原と角浦と章子、人間を用いたいびつな三角形を描くような形で畳の上に座った。
角浦は口元に笑みを浮かべながら物色でも企んでいるかのように室内を見渡すと、章子を見て
「客人なのにお茶も出してくれないの?」
と、臆面もなく言った。
突然の要求に、章子は重ねていた両手の指先をびくりと震わせた。
「角浦くん、そういうことを言うのはやめた方が……」
海老原が右手で角浦の肩を親しげに軽く叩く。
その様子を目撃した章子は、居心地悪そうに竦めていた首をさらに竦めた。
「えー、だって、喉渇いたし。海老原さんだって、何か飲みたいんじゃない?」
角浦は満面の笑みをこぼしながら、未だ自分の肩にのっている海老原の右手に、自分の右手を優しく重ねた。
海老原は少しの驚きを見せた後、わざとらしく慌てた素振りをして角浦の肩から右手をどかすと、
「う、うーん。実は私も非常に喉は渇いていますけど、そういうことは言わないお約束というか……」
そのまま何かを宣言するかのように、肘を曲げ、おずおずと右手を挙手した。
「海老原さんのそういうところ、本当に可愛いよね。丸井さん、飲み物二人分お願い」
角浦は、そんな海老原の様子を微笑ましげに見つめて、ファミレスで料理を二品注文する時のような気軽さで章子に行動するよう促した。
「ぁ、うん」
章子はどう動くのが正解なのか分からず、角浦に言われるがまま、出がらし気味の緑茶を三人分マグカップに注いでテーブルの上に置いた。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
二人から会釈と礼の言葉が返ってくる。
三人はそれぞれ生ぬるい緑茶を啜りながら思い思いの一服をついた。
そして、奇妙な時は流れた。
角浦と海老原は時折顔を見合わせて、担任やクラスメイトの揚げ足取りや授業のテスト問題について面白おかしく茶化しながら談笑している。
「田村ぼっち過ぎてウケるよね」
「休み時間にいつも机に突っ伏してますよね」
「まじ笑うよね。田村、絶賛机が友達大作戦やってるけど、誰も相手にしないからさあ」
「うーん、最近ずっと一人でいるから可哀想かな~なんて。一体、田村くんどうしちゃったんでしょうね?」
「ちっちゃい子みたいに、ふてくされてんだよ。愛想良くしないと周りから置いてかれるのが分かんないのかな」
「まあ、可哀想ではありますけどねえ」
章子は俯いて角浦と海老原の会話を聞いていた。どのように聞いても、田村が角浦から苛められているようにしか聞こえない。それでも、かつては田村が、角浦や海老原と仲良くつるんでいるところを章子は見掛けたことがあった。それが、今では田村だけが一人グループから外れている。
章子は、今この場にいる二人のことが恐ろしくてたまらなかった。
しばらくして、談笑が一段落したのか、
「何か隠したりしてないよね」
角浦は笑みを崩さずして、章子へ視線を遣りながら唐突に真意を測りかねることを言うとすっくと立ち上がった。
章子は何事かと角浦を見上げた。
角浦は本棚まで行くと、整理整頓して並べられている本を一冊ずつ取り出して無造作にページをめくった後、何かを探すかのように本棚の奥を覗き込んだ。そこには、学校で使用する教科書や、自宅学習のための参考書、興味本位で買った世界遺産の本があった。角浦の手がそれらに触れた。
その触り方がイヤだった。章子は自分の中にある何か重大なものが蹂躙されているかのような感覚を覚え、大切な本達が涙を流しているような気さえした。
「やめてっ! 人の物、勝手に触らないで!」
耐えられず章子はぎゅっと両目を瞑り必死に声を張り上げて、角浦の動きを止めようとした。
「なんだ。普通に大声出せるんじゃん。意味不明」
章子の心底からの訴えも聞かず、角浦は皮肉を込めて言葉を吐き捨てつつ人の本を触ることを止めない。章子は角浦から弱点を露骨に指摘されたことにより、しばらくの間、消沈し呼吸さえ忘れて棒立ちになった。
「わーい!」
海老原は注意するでもなく、反対に角浦の真似をして本を弄り始めた。
章子は目の前で起きている現実に、息が止まりそうになるほど胸を痛めた。海老原の手でも、本は悲しみの声を上げているかのようだった。
本棚を荒らすのが一人だったのが二人に増え、章子は突然迷宮に迷い込んだかのような発作的で持続的な不安感に陥りながら憤った。
「いい加減にして。二人ともやめてよ」
章子は、どうにもならない二人の暴走を止めようと、近くにいた海老原へ距離を詰めた。
「海老原さん、やめて!」
これ以上の横暴は許せない、と章子は警告するかのように言葉を発した。
海老原はそれを無視し、角浦と同様に本をぱらぱら開いて流し読みしたり、指の腹を使い紙に跡がつきそうなくらい雑にページをめくったりしている。
「やめて!!」
怒り心頭に発した章子は、本を持っている海老原の色白な手の甲を一瞬躊躇ったのち人差し指と親指でつねった。
「いたっ!」
海老原は、突然水をかけられた猫のように、素早い動きをして手を引っ込めた。
先ほどまで海老原が持っていた本がカーペットの上へ落ちる。
章子は海老原よりも真っ先に本の状態を心配した。ブックカバーが落ちた衝撃で外れている。急いで本を拾い上げると、折れや歪み、傷などはなく無事のようだった。
「大丈夫?」
角浦の声が頭上から聞こえる。
章子が顔を上げると、角浦が海老原の手に触れていた。
「いったーい」
海老原は俯いて小声で呟く。もう片方の手で、つねられた手を労るように擦っている。
その海老原が恨みがましい目で章子を一瞥した。章子は、私のせいじゃない、と腹の底から声を出して叫びたかった。たとえ、海老原に怪我をさせたとしても謝る気にすらならなかった。
海老原は再び視線を落とすと、わがままを通そうとする幼稚園児のように体を揺すりながら手を擦り続けている。
角浦が海老原の肩に手の平をのせ、
「帰ろう」
と優しく声を掛けた。
「うん」
海老原は、幼子のように従順に頷いた。
二人は、章子を透明人間のようにそこにいない者と思い込んでいるのか、玄関の引き戸へ直行すると何も言わずに出ていった。
まるで、爪痕を残すためだけに訪れたかのような、そんな威力の激しい嵐がまさしく通り過ぎていったようだった。
二人は一体何をしにここに来たのだろう。気まぐれに章子の家に上がり込んで来たのか、何なのか、どんな魂胆を孕んでいたのか、それさえも分からなかった。ただ軽く見られているということだけは充分に分かった。
章子は畳部屋でくずおれて天井を見た。古びた天井の木材が、不吉な一生を占うかのように、禍々しく黒ずみ渦を巻いていた。




