二、
昼の時間。日差しの暖かさで微睡みたくなる陽気ではあるが、食事の匂いが充満している教室内においては、眠気よりも食い気の方が強い。章子は四つの机がそれぞれ向き合うようにして班の形を作り、ピンク色の花柄が散ったテーブルクロスを机上に敷いた。
今日の給食は、毎月担任からわら半紙で配布される献立表通り、パン、クリームシチュー、春雨サラダ、牛乳だった。配膳台を挟んで並んでいる白ずくめの給食当番達の前をゆっくり横へ歩いてゆくと、パンやクリームシチューなどの料理をよそった皿が、次々と章子の持つ盆へと載せられてゆく。
しかし、メインであるクリームシチューの具は無いに等しく、一かじり程の小さなにんじんと玉ねぎの欠片が一つずつ入っているだけだった。章子は吹き溜まりのように集まってゆく不満を抱えながら、テーブルクロスが敷かれた自分の机上に盆を置くと椅子へ座った。何気なしに隣の女子の皿へ目をやると、クリームシチューの中には、鶏肉、にんじん、じゃがいも、玉ねぎなどの大きくて形がしっかりした具材がバランス良く入れられていた。
不平等だ、と章子は人生において損な役回りばかり背負う自身を嘆く。けれど、今、隣の女子のクリームシチューに入っている鶏肉を見れば分かるように、命は平等ではない。この世界において、平等なことはほぼないに違いない。
「準備は出来ましたか? じゃあ、日直さん、『いただきます』の挨拶をお願いします」
よく通る担任の声が教室の四隅までくまなく行き渡る。
それを聞いた章子は、困惑と不安のこもった眼差しで上目遣い気味に、真向かいに座る長谷川を一瞥した。章子はこういった挨拶を言おうとしても言えないため、隣に座る男子に任せっきりにすることしかできない。
長谷川は、いつもと変わらない表情の読みにくいポーカーフェイスのまま口を開く。
「ああ、はい。いただきます」
長谷川の挨拶で、クラスメイト達は一斉に給食を食べ始め、食器同士がかち合う音が四方八方から聞こえてくる。話し声はほとんどなく、皆、食べることに夢中だ。
そんな中、一人の中位男子が、
「マーガリンいらない人はくださーい!」
と、声を張り上げた。
数人が呼び掛けに反応して手を挙げる。
「マーガリンあげる」
「ありがとう」
上位女子の一人がマーガリンを中位男子へ手渡しているのを、章子はまぶしすぎる光源でも見るかのように目を細めながら遠目から眺めた。率直に言うと、憧れた。ああして前向きに自分を主張し、我欲を満たすために他者へ要求する姿は、章子にとっては考えられない、スクールカーストの順位が高い選ばれし者のみが許される言動だと思った。
中位男子は、しまいには手を挙げていないクラスメイト達の席まで順番に回り、ついには章子の席までやって来て、
「マーガリン、もらってもいい?」
と柔らかな物腰で尋ねた。
押しに弱い章子は断りづらさのために思わず了承して頷きマーガリンを手渡した。
しかし、中位男子は他のクラスメイト達へは必ず言ってきたであろう礼を、今回に限っては言わず、章子へ背を向けるとそのまま席に着き、マーガリンの数を指を折りながら声を大にして数え始めた。
ないがしろにされたことにより、章子は暗然とし、視界にかすかな薄闇がかかるのを感じた。
「やったあ、全部で二十六個ある!」
中位男子の嬉々とした声が教室中に響く。その様子を周囲は微笑ましそうに見守っている。
だが、章子だけはその声が少し耳障りだった。これ以上、思考が進んで中位男子へのただの不満が完全なる嫌悪へと変わらぬ前に、章子はパンを一口サイズにちぎることに神経を注いだ。パンをすべてちぎり終えると、口の中に入れ咀嚼した。
ふと、斜め右前方向から視線を感じて目を遣ると、満面の笑顔の下位男子・山寺と目が合った。山寺は言わずと知れたアニメオタクで、たまに語尾に「でし」を付けることで知られている。
すると、何の前触れもなく、
「丸井って、黒魔術使いそうだよな。きぃえーへっへっ」
山寺が特有の笑い声を出しながら章子を指差しからかった。
「まじ、うけるー」
間髪を入れず、長谷川が無表情に抑揚のない声で章子を見て言った。
章子は長谷川と刹那的に目が合うと、気恥ずかしさからすぐさま机上のクリームシチューに視線を落とした。
「ねえ、やめなよ」
章子の隣に座っている中位女子が、自らの机を叩いて男子二人に注意する。
しかし、章子は黒魔術が使えるという言葉に惹かれ、胸中ではまんざらでもなかった。
教室内では次第に食器同士のかち合う音が減り、代わりに談笑する声が増えていった。
「はい、時間です。日直さん、『ごちそうさまでした』の挨拶お願いします」
すると、担任が章子と長谷川の方へ顔を向けて呼び掛ける。
長谷川がちらっと冷たい眼差しで章子を一瞬睨んだ。
「ごちそうさまでした」
長谷川だけの挨拶が済むと、食べ終わったクラスメイト達は椅子から立ち上がり、盆を両手で持って配膳台へ向かう。
章子は残されたパンをゆっくりと口の中に詰めて牛乳で流し込み、時間を掛けてすべての皿を空にすると腰を上げた。皿と盆と牛乳ビンを片付け、テーブルクロスをたたんで布袋にしまった。
給食を食べ終わり、片付けて、席を定位置に戻した人から、二十分間の昼休みに入ることができる。友達のいない章子は席に着いて、ただ時間が過ぎるのを待った。
九年D組のクラスメイトの人数は、全員で三十二人。章子の他に、教室に残っているクラスメイトの人数を数えると、両手で収まるくらいしかいない。
「田村くん、まだ食べてないの? それ食べないと昼休み遊べないよ」
担任が田村に、いたわるように優しげな声調で言葉を投げかけた。
章子が前方を見ると、未だ机を班の形にしたままの田村が泣きながらクリームシチューを食べている。皿の中のクリームシチューは、ほぼ手つかずな状態であった。よほど、苦手なのだろう。章子は自分より田村の方がクリームシチューの具材に恵まれていそうなのにもったいない、と珍獣でも見たような思いがした。
「食べられないなら、昼休み終わっちゃうから給食室まで行って返してきな」
担任に言われ、田村は涙を服の袖で拭ってから盆を持ち、教室を出ていった。
章子はふいに喉の渇きを覚え、席を立った。水道水を飲むため、教室の開けっ放しになっている後ろの引き戸へ近付くと、
「ねえ、山寺いる?」
面識のない男子から急に声を掛けられた。
章子はその男子の顔を半瞬見てどきりとし、その後しばらく狼狽し、かと思いきや眉間に皺を寄せるという不自然極まりない百面相をした。その面識のない男子は、美少年の部類に入る容姿をしていた。章子は美男子を前にすると、心と正反対の言動をしてしまう傾向があった。
「あの、丸井さん……だよね? ちょっと山寺呼んで来てもらえないかな?」
面識のないはずの美少年に名字を呼ばれたことで天にも昇る気持ちがした章子は、顔をしかめて目をしばたたきながら頷くと山寺の元へ向かった。
山寺は同じクラスメイトの下位男子と一対一で会話をしており、弾んだ声が聞こえてくる。
「今期の深夜アニメはどうよ?」
「全部チェックしてるけど、当たり外れ大きいね。コスコスが一押し」
「コスコス? 俺、録画したけどまだ見てねえわ。百点満点中、何点でし?」
「えー、何点だろ。ちょっと待って」
「あ、あの、山寺くん」
章子は一対一の会話に割り込むような形で、山寺の背中へ向かって声を絞り出した。
だが、か細い蚊の鳴くような声は、山寺には届かなかったようだ。
「あの、山寺くん」
章子はもう一度、喉に力を込めて懸命に呼び掛けた。
ようやく背中を見せていた山寺がくるりと振り返った。ところが、山寺は笑んだ表情を瞬時に歪めて胡乱な目付きで章子を見る。
「ああん、なんだ、丸井かよ!」
給食の時の山寺のからかいを、章子は好意のあらわれだと捉えていたが、今、目と鼻の先にいる山寺はすげない対応をした。
「あの、ドアのところにいる人が呼んでます」
「わぁーったよ、邪魔だ! そこどけっ!!」
章子は言われるままに脇に逸れ、山寺は面識のない男子の元へと歩いて行った。
スクールカースト最下位の章子は、端から一人の人間とさえ見られていないのだろう。ぞんざいな扱いには、日々の積み重ねにより充分に慣れきっていたが、何も感じないという訳ではなくて微かな悲哀の雫が胸中へ落ちてゆく。
章子は気を取り直して、水分補給のために前方の引き戸から教室を出た。後方の引き戸付近にいるはずの面識のない男子の姿は既になく、よく周囲を見渡すと山寺の姿まで消えている。二人してどこかへ出掛けたのだろうか。それにしては、恐るべき雲隠れの早業だ。章子は水道水を口に含み喉を潤した後、自分の席へ着いて引き出しを開けた。
人間不信をテーマとした物語の文庫本を出して、しおりを挟んだ箇所から続きを読み始めた。過去に罪を犯したがために、周囲から後ろ指を指されながらも懸命に人生を生き抜いた、一人のフランス人男性が主人公の小説だった。主人公の生きざまは、常に何かしらの苦労と悲しみがついて回った。章子はそんな主人公の境遇に対し、深い憐憫の情を抱いた。




