十四、
「章子、学校っ!」
一階にいる渚が、二階の万年床で寝ている章子へ向けて大声で呼び掛ける。
既に目覚めていた章子は、渚の呼びかけに応じず聞こえぬふりを決め込んで、風を通さない分厚い掛け布団で全身をくるんだ。暗黒の息苦しい空間に顔を埋めているさなかでも、章子は意地でも布団から這い出ないつもりだった。なぜならば、章子は知っていた。獣めいた直感力により、今日の国語の授業は前回の授業ではできなかった生徒達による全校遠足の作文発表がまだ残っている、そして、あの担任は決して章子の逃げを許しはしない、そう感じていた。一度は身を削って逃げおおせた作文発表の時が、手招きしている可能性は高い。
すると、階段の方から章子を地獄へ連れて行こうとするかのような緊迫感のある大きな足音が聞こえてきた。紛れもない、あの足音を立てているのは渚だ。
章子は欠片もない信仰心で神や仏に命乞いをした。手ぐすねを引く余裕もなく、これから始まるであろう戦いに対して弱気になった。
「いつまで寝てんのよ!! 早く起きなっ!!!」
渚は二階の部屋に入るなり、そう怒鳴り散らした。
渚の声は固いものに遮られることなく、真っ直ぐ鮮明に章子の耳に飛び込んでくる。
章子は布団の中で目にぐっと力を入れたのち、
「具合が悪いから今日休みたい」
緊張と不安がとぐろを巻き体調も心なしか不調な中、震える心を揺らしながら主張した。
「甘えてんじゃないよ! 私がどんだけつらい思いをして毎朝仕事に行ってるか分かるかっ!!」
渚は鬼の形相をしながら電光石火の速さで近付くと、掛け布団を思い切り剥がし、章子の髪の毛を毛根から引き抜こうとするかのように引っ張り上げた。
「怠けるのも大概にしろよ!! お父さんは役立たずで働きもしない。お前もそれに似たな! とっとと起きろ!!」
あまりの痛みに章子は滑稽だと思いながらも、渚が髪の毛を引っ張る方向へ進んで頭を動かして痛みを和らげようとした。
「怠けてなんかない! 熱があるかも。体温計貸して。体温計貸してよ」
章子の声は不安定に高く、箇所によりかすれ、波を描くように揺れ動く。
「熱がなかったら学校な」
渚は章子の髪の毛から手を離すと一階へ下りていった。
痛みから突き放された章子は気ぜわしく、じっとしていられない様子で剥がされた掛け布団を拾うと、それを胸に抱きながら体を震わせ始めた。その最中にも階下から物音が聞こえてくるが、渚がどんな動きを仕掛けてくるか予測できず、気が気でない。
やがて、ぎしぎしと階段の木板を踏み締める足音が迫り来る。ついに、吽形像のように仏頂面をした渚が姿を現した。
「ほら、測りな」
章子は手渡された体温計を、腕を少し上げて脇の下へ入れた。
ややあって、体温計の音が鳴り響き、恐る恐る取り出すと、熱は平熱より高い三十六度九分であった。章子はその変えようのない事実に絶望した。学校を休んでも許される体温は、三十七度以上という渚の作った暗黙のルールがある。これでは、学校へ行かなくてはならない。そのため、章子は渚へ体温計を返すことを渋り、変わりもしない体温計の数値を半ば呆然と見つめていた。
「ほら、とっととよこしな」
渚に急かされ、章子は観念しながら体温計を差し出した。
「熱はないな。よし、学校に行けるな」
「でも、寒くて頭も痛いの」
章子は必死になって体調不良をアピールした。
「私の一番嫌いな人間はどういう人間か分かるか? お前みたいにずるをして学校を休もうとするやつだよ! 学校や仕事に行かないやつは大嫌いだ!! 早く来いっ!!!」
渚は怒声と共に、再びむんずと無造作に章子の髪の毛を束にして掴み上げると、そのまま歩き始めた。
「痛い! 痛い! 痛い! 分かった! 学校行く! 行くから離して!!」
章子が顔をくしゃくしゃに歪めながら絶叫すると、渚は投げるように章子の髪の毛から手を離した。
「今すぐ、ここで着替えろ!!」
渚はすっかり人格を変えており、腰に手を当てて仁王立ちをし、大きな威圧感を章子へ与える。
願いは届かず、必ず学校へ行かねばならないというこの状況。章子は天災が起こり、学校が休校になることを切実に願った。
まるで泥沼の中にいるかのような鈍重さで立ち上がり、着替えて階段を下りた。章子の症状は、大勢の人間を前にして喋れなくなるだけではなく、体を動かしづらくなるということも頻繁にあった。
章子が足取り重く台所へ向かうと、そのあとを渚も連いて来て、
「次は顔を洗え!」
と厳しい表情で発破を掛けてくる。
牛乳石鹸を湯に濡らしていると、
「髪の毛が邪魔になるから、これを使いな」
隣にいる渚がグレーのヘアバンドを差し出した。
章子は無言でヘアバンドを受け取ると、額に装着して前髪を上げ、泡を顔全体にくっ付け洗顔した。
「よし、洗ったな」
章子は頷き、渚から渡されたタオルで顔中の水気を拭きとった。
「今日はもう時間がないから朝食は食べないで行けよ!」
渚がリュックサックを両手で持ち上げ視線を送る。章子はくるりと背中を向けてリュックサックを背負った。
「気合い入れて、頑張って学校に行くんだよ!」
渚にぽんとリュックサックを優しく叩かれた瞬間、母親の温もりが胸中に流れ込み、章子は感極まりそうになる自分を嫌悪した。
玄関の引き戸を開けて外へ出ると、太陽を覆い隠すほどの雲が空一面に広がっており、ほんのり雨の匂いがした。
章子は登校班の列の一番前で、地面ばかりを見ながら通学路を歩いた。背後で不自然に人の動く気配がする。はっとした。章子は、すばやくリュックサックを前へ持ってゆくと赤子を抱くように抱き締めた。そのとっさの行動が功を奏したようだ。
「ちぇっ」
真後ろにいる一年生の男児がつまらなさそうに地団駄を踏む。章子は、登校班で先頭を歩くようになってから毎日のように、後ろを歩く下級生達からリュックサックのチャックを開けられて教科書類を道路に投げ捨てられるという被害に遭っていた。章子はその度に、どこへ向けたら良いのか分からない激しい憤りを感じていた。
章子はリュックサックの安全を守りつつ、日々の生活に疲れはてた浮浪者のように、肩を落として死んだように歩いた。
下駄箱に着くと、スニーカーから少し薄汚れた自分の上履きへと履き替えた。活気溢れる九年D組の教室へ闇の根源のような章子が、一人足を踏み入れるのはひどく勇気がいる。それを平日の週五日、時には土曜日も含めた週六日、毎日行う必要があるという現実は章子を深く苦しませた。
章子は学校へ毎朝通学することに意味を見出だせなくなりながらも、学校側が義務的に用意した席に着いた。
五時限目までの授業をかろうじてこなし、柱に掛かっている時計に目を遣った。無情にも時は刻々と進んで受け入れ難い時間が間近に迫ってくると、悪魔が章子の傍までやって来て周囲の空気を病的な冷気へと変える。
緊張を伴う恐怖が戦慄を走らせ、章子の気をきつく引き締めながら暗澹へと傾斜してゆく。叶うことならば席を立って教室を飛び出したいが、そんな望みを叶える勇気が自らにある筈もない。
章子の心臓をすべて隙間なく潰すかのように、冷酷なチャイムの音が始業を告げる。同時に、担任が教室へ入り、黒板の前に立って学生達を見渡した。
「じゃあ、この前の続きからだね。全校遠足の作文発表です。里中さんから順番でお願いします」
ついに、国語の授業が始まった。 章子の嫌な予感は見事的中し、全校遠足の作文発表の時間が訪れると、やけに頭の中まで冷えてゆくのを感じる。白く、白く、白く、緊張の猛吹雪が荒れる。章子は死の宣告でも受けたかのように、逃れられない絶望感に侵されながら担任の言葉を聞いていた。
章子が着席している真ん中の最前列に座る里中が、原稿用紙を手に持ち席を立った。黒板の前まで進み出ると、ためらうことなくすぐに読み始める。
章子の胃の中で体温の低い生物が蠢く。腹の粘膜を這うような感覚に加え、心臓の拍動が情け容赦なく激しさを増してゆくことへの苦痛から、章子は腹部を労るように撫で回した。
起こり得ないであろうが、章子より前にいるクラスメイト達全員が異常に長い作文を読むことを願った。時間稼ぎで苦痛が先延ばしされるだけと分かっていても、今、緊張から逃れられるのであればそれで良いとさえ思った。それか、何か奇想天外なハプニングが起きて授業どころではなくなるなどでも良いだろう。この際、上位女子達の叫びでもいい。誰でもいい、何でもいいから授業を中断させて欲しかった。発表の順番はゆっくりと、しかし、着実に近付きつつある。
章子の二つ前の席の女子が発表を終えると、今度は一つ前の席の女子が立ち上がった。
章子は掛け時計に目を走らせた。現在の時刻では、章子まで容易に作文発表の順番が来てしまうだろう。緊張が胸に纏わりつき、いやらしく絡みつく。
次回に持ち越しなのはひとかたならずしんどいが、順番が訪れてしまうのも非常に苦痛だ。数回連続でまばたきをすると、まぶたを閉じた時に鳴る微かな音すら気になり始める。殊更の不安を掻き立てられ、表情は否応なしに雲ってゆく。もうすぐ、発表の順番が回って来る。
章子は自身を落ち着かせるために、前の席の女子が発表している声に耳を傾けた。新入生が可愛くて、他の学年の学生達とも上手く協調できたと言っている。
新入生と言うと、章子はすっかり忘却していたあのはな垂れ女児の存在を思い出す。女児の幼い心は、章子の行動によりきっと傷ついているだろう。しかし、章子はその気持ちを深く考えたくなどなかった。女児には、それくらいで傷ついたなんて思って欲しくなかったのだ。
前の席の女子の発表が終わり、大きな拍手が起こる。高くよく響く耳障りな音が、章子の精神を限界近くまで追い詰めてゆく。
前にある椅子が引かれるより少し前に、章子は不器用に立ち上がった。自分の椅子を引いて戻す時の音が、妙に高圧的に耳に残る。体を奮い立たせ、震え出しそうになる膝を無理やりに動かしながら黒板の前まで歩いた。立ち止まって足の向きを変え、クラスメイト達の視線を体の正面のすべてで受け入れる。
原稿用紙の端を震え上がる両手で持ち目の前に掲げると、縦書きの筆圧の弱い文字が並んでいる。最初の一文は、タイトル名である『最後の全校遠足』。続いて、章子のフルネームである『丸井章子』という文字。
章子は、何度も何度も目線で同じ文字をなぞっては飽きるくらい繰り返し黙読するが、一度も声に出して読むことができなかった。最初の一言が喉に引っ掛かって口から出て来れない。脳髄を突き抜けるかのように盛る緊張に気が狂いそうだった。ストレスで急死した者はいないか、記憶の中に手を突っ込んで必死に探すが掴めない。
章子は、こんな恥ばかりしか晒すことのできない自分を消してしまいたい、空気と同化して透明になりどこまでも消えてしまいたい、と思った。
「ん? 読めないの?」
担任の問いに、章子は棒立ちの状態を維持したまま返事もしない。
「みんな読んでるんだから、丸井さんだけ特別に読まなくてもいいなんてできないよ。頑張って読んでください」
章子は目の前の原稿用紙にしか目を向けられない。両腕と両膝以外微動だにしない体は、血の通っていない物体のように凍りついている。
最後の全校遠足
漢字六文字と平仮名一文字。
まずは、それからーー。
章子はようやく口を大きめに開いた。
さいごのぜんこうえんそく
と、平仮名に変換する。
章子は、いよいよ覚悟を決めて殻を破り、口から声を出して読まなければならないと思った。
さいごのぜ
せめて、平仮名の最初の五文字だけでもーー。
しかし、視覚で捉えた文字を音として表へと出すことが出来ず、章子は唇を震わした。どうしたって、読めない、変われない。あっという間に挫け散る気持ちに引っ張られ、表情までもがさらに暗く沈んでゆく。こうなると、もう話そうとする意欲さえも萎んでゆき、暗鬱とした無気力のど壺へと嵌まり込む。二つの唇の境に強力な接着剤を塗られでもしたかのように、口を開くことさえ困難になってくる。
章子は表情を消し、俯き加減で、時折眼球を不安げに右往左往させた。オーバードーズの後遺症のせいか、頭が空っぽな感覚に加え、思考力が一段と落ちたような気がしている。
ベリーショートヘアをした上位女子が、
「はぁ」
と息を吐き出して両手の平で顔を覆った。
五分刈りの中位男子は、両手を頭の後ろで組んで目を細めている。
クラスメイト達は、皆一様にじれったそうにしていた。彼、彼女らの目に映る章子は、恐らく臆病風に吹かれ続ける卑怯者にしか見えないのだろう。
「んー、どうしよう」
担任が困惑した声を出す。
「時間がないから今日はここで終わるけど、また次回発表できたらしてください。とりあえず席に戻ってください」
そう言われた瞬間、章子は腹の底から安堵した。拍手は起きず、章子は俯いたままクラスメイトの誰一人の顔も見ずに通路を歩くと、膝が震え足から力が抜けて、前方に崩れ落ちそうになりながら着席した。




