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十三、

 章子は最悪の気分で目を覚まし、ほとんど日常的になっている朝一でのスマホ操作を行ってから万年床を抜け出た。乱れた髪と布団からは、昨晩、意識混濁の苦痛と死闘した形跡が生々しく見受けられた。渚は仕事へ出掛けたようで、掛け布団のわずかな膨らみを残して既にいなかった。

 章子は大慌てで一階の居間まで移動すると、そのままトイレに駆け込み便座を上げた。もう我慢の限界だとばかりに張り詰めていた緊張の糸が切れる。苦しそうに口に右手を当ててその場にうずくまると、吐瀉物をばしゃばしゃ流し落とした。

 荒れ果てた気持ちを整えようと、肩で大きく呼吸を繰り返す。緩慢な動きで手の平を見ると、章子はそこに鮮血でも認めたかのように小刻みに右手を震わせた。昨晩食べたキムチ炒飯とわかめスープと薬と酒が混ざり合い、その吐瀉物が右手を悪臭まみれにしひどく汚していた。

 章子は発作のように訪れた次の吐き気に逆らうことなく、今度は苦痛に満ちた声とともに勢いよくえずいた。

「おえええっ」

 左右の眼球が浮く。呼吸が激しく乱れる。辛さを代弁するかのような荒い息遣いが、清掃の行き届いた静謐なトイレの雰囲気さえもけがしてゆく。

 章子は、涙目になりながら自分はまだ生きているのだと悟りつつ、ゆっくり顔を上げた。額からは冷や汗、目からは涙が溢れる。

 辛くて苦しい。

 体内にある水分がすべて外へ流れ出てゆくようだ。

 誰でも良い。誰でも良いから、この抗いようのない苦痛から自分を切り離して欲しい。

 そんな願いが叶う訳もなく、第三波、第四波が無情にも訪れる。

 気持ちが弱ってくると、嘔吐の苦しみに負けて体が幾度も倒れてしまいそうになった。必死で気丈に振る舞って、負けまい負けまいと己を奮い立たせる。

 回数を忘れるくらいの激しいえずきを乗り越えて、章子はトイレから出ると居間に入った。すると、目の前に畳部屋で寝転び、にゃんを腹の上にのせ戯れている正の姿があった。

 時が止まったような気がした。章子は事態が飲み込めず、全身が一瞬凍結したかのようにしばし呼吸を忘れた。

 正は血の繋がった肉親であると言うのにも関わらず、苦しい時に助けてもくれないと言うことか。そのようなことは学校に居る時においては日常茶飯事だが、ここは曲がりなりにも自宅だ。正の冷たすぎる仕打ちに、章子は驚愕のあまり目を大きく見開いた。

「……お父さん、私が吐いてたの全く気が付かなかったの?」

 陽気さを完全に失った正の虚ろとも言える表情のない顔が、おもむろに章子の方へ向いた。

 生気の宿らない死人のような正の目は章子の鼻のあたりをしかと見た。

「は? 意味分かんないんだけど吐いてたのか?」

「吐いてたよっ!! トイレの扉、全開でゲーゲーしてたのに気が付かない訳がないでしょ! なんで娘が吐いてんのに放ったらかしにすんのよ!」

 えずきの苦痛を思い出すと章子は頭にカッと血がのぼった。勢いのまま半ば叫びながら正に思いの丈を訴えると、

「そんなの知らないよ」

 正はそう呟いて、にゃんを腹の上から畳の上へ移動させて立ち上がった。居間の方へ向かって歩いて来たかと思いきや、何事もなかったかのように畳部屋へ身を置いたままふすまを閉めた。

 稲妻が全身を駆け抜け、章子は目を見張った。その目から血涙が流れだし、頬を伝い落ちても違和感のないくらいの凄まじい衝撃を受けた。

 章子の視線の先にいたであろう正とにゃんは、経年ゆえ薄汚れて黄ばんだ白いふすまにより遮られ姿を消していた。

「ぇ」

 衝撃に狼狽えた言葉が、遅れて章子の口から小さく出る。

 普通であれば、ここは一時停戦。固く険しい表情を解いて娘の不調を心配するのが正常なはずだが、目障りだとでも言わんばかりの正の行動が正気の沙汰だとは思えず、章子は混乱を招いた。正はけじめ中のために、このような冷酷な行動を平然と取ったのだろうか。

 章子は正に見捨てられたという気持ちを強く抱き、嘔吐の苦しみとはまた違った意味で痛切に泣けてきた。お父さんも同じ目に遭って同じように苦しむがいいと胸中で思い切り毒づきながら、居間の椅子にどかりと座った。久しぶりの父娘との会話が、こんな形で唐突に始まり、あっという間に終わってしまうのは悲しい。

 ふと、気まぐれに顔を上げた先には置時計があり、章子は分針と時針を読み取ろうと目を細めると、時刻はもう十時を回っていた。死ねはしなかったが学校を休むことはできたようだ、という達成感が、章子の左右の目尻に穏やかな皺を作らせた。

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