十一、
学校のない日曜日の火点し頃。
章子は渚と昨晩のカレーをリメイクしてカレーうどんを台所で作り、居間で食べた。夕食は何を食べるか話をしている間に食欲を刺激され居づらくなったのか、正はランニングウェアに着替えてどこかへ行ってしまっていた。
あれから、正は変わった。まず、笑わなくなった。次に、話し掛けてこなくなった。二階の万年床で家族全員で眠るのをやめ、一人、一階の畳部屋で寝袋にくるまり就寝するようになった。そして、けじめ通り渚の金で食事をとらなくなった。近所のスーパーで手頃な価格で売られているバナナや割引シールの貼られた弁当などを買って来ては、畳部屋を自分の巣として定め、そこで毎日三食食べるようになった。
渚が泣きながら献身的に食事の載った盆を正のいる畳部屋まで持ち運ぶ姿を何度も見た。正はその都度、食事をとることを断っていると言う。
章子は渚に言われるがまま、ライムの香りがする洗剤をピンク色のスポンジに垂らし、空になったカレーうどんの皿と鍋、それから箸二膳とお玉一つを大雑把に洗った。洗い終えた皿類を真っ白な布巾で拭き上げ、食器棚へ戻すと、居間へ行って椅子に座った。
「このままだと、お父さん死んじゃうよ。どうしよう」
隣の椅子に座っている渚が、不安を隠しきれない様子で両手をしきりに揉み合わせている。
「放っておきなよ」
章子は不愉快そうな表情をして身動ぎし、我関せずといった態度をとる。
「冷たいねえ、あんたは。お父さんが餓死したら、章子、お前のせいだからね」
渚が恨みがましい念のこもった視線を送ってくる。
「大丈夫だよ。バナナとかお弁当買って来て食べてるの見たもん」
章子は邪魔くさいとばかりに、渚の視線を払いのけるように顔を動かして目を逸らした。
「それだけじゃ足りないでしょ。お父さん、糖尿病なんだよ。バランス良く食べなきゃ死んじゃ……」
渚は感情が高ぶって言葉を続けられず涙を流した。
「何でそんなに心配するの? お父さんのこと嫌いじゃなかったの?」
章子の問いに渚は顔を上げた。
「嫌いだよ。でも、家で死なれたら困るでしょ」
急に無表情になって即答する。
「よそで死なれた方が困るでしょ。お金がかかるんだよ」
章子はそう言いながら、電車の人身事故を起こすと遺族へ金を請求してくる、とテレビで見たことを思い返していた。
「ええっ、家で死なれる方がやだ。不気味だもん」
渚の顔からは涙が引いていた。
直後、玄関の引き戸が開く。正がランニングから帰って来た音が耳に入り込み、章子は思わず体が飛び上がりそうになった。今の話を聞かれていたらどうしよう、と渚と章子は互いに顔を見合わせる。
正は玄関框を上がりガラス引き戸を開けて、苦しげな呼吸音を発しながら居間へ入って来た。室内に汗の臭いが漂う。渚が用意した食事をとらなくなってからも、暇を見つけては走りに行く正の日課は変わらなかった。
渚が正の目を盗みながら、目顔で「喋るな」と章子へ合図を送る。章子も渚も、もちろん正も誰一人として喋らない。固く気まずい空気だけがこの場には充満している。
魂を抜かれて傀儡にでもなったかのように、浴室へ直行する正の姿を章子は目で追った。浴室の扉を開閉する音がした後、追ってシャワーの音が居間まで聞こえてくる。
「ねえ、章子。やっぱり、お父さん死んじゃうよ」
渚が心配そうに顔を歪めた。発する声は感傷的な色を濃く表している。
「まだ大丈夫だよ。それより、こんな時にでも走りに行くんだね」
「そうだよ。だって、お父さん千春マラソン大会に出るんだもん」
「えっ、そうなの?」
章子は驚いて目を見開いた。
「もう、一年くらい前に参加費払っちゃってる筈だから出ると思うよ」
渚は記憶を辿るように首を捻る。 正の千春マラソン大会へ参加する意向は、何があろうと変わらず揺るがないようだった。
章子は千春マラソン大会で、屈強な消防士ランナー達に囲まれながら、体重が落ちて痩せた体にも関わらず懸命に走る正の姿を想像した。胸に苦いものが降り積もる。気付いた時には、これまで正へ向けていたきつい敵意を緩めていた。
いつかの夕食時の口論を思う。正をあんな状態へ追い込んだ犯人は紛れもなく、章子である。募る正義感を抑えきれず言葉を放ち、追い詰めることに快感さえ得ていた。言い過ぎてしまったかもしれない。けれど、正に甘い渚の代わりにも伝えなければならないと思った。伝えた結果は、予想の斜め上をゆくけじめという行為を生み出した。食費を払わない代わりに渚の作った物を食べない。しかし、これでは何の解決にもならない。一気に老け込んだようにやつれた正は子どものような内面をしていた。
「あんな状態で大丈夫かな」
章子は感情の込もらない単調さで呟く。
「そうだよお。心配だよお。お父さんをあんな状態で走らせるなんてできない。可哀想だよ、お父さんが」
渚の上半身が大きく揺れた。感情を声だけでなく、身振りでも表現している。渚の中で正への好感度が哀れみと共にうなぎ登りに上昇してゆくのを、章子は肌で感じながらもそのことを快くは思えなかった。
「もう、やんなっちゃう。結婚して子どもが生まれたらお父さんも変わってくれるって思ってた。章子がもっと良い子だったらなあ。お父さんやこの家を良い方向へ導いてくれたのかなあって期待したんだよ。ホント期待外れも良いとこよ。それと、お父さんに向かって生活費のことを言うのはやめて。お父さんは繊細で弱い人なんだよ。章子のせいであんな風になっちゃったじゃないの」
渚は標的を変え、眉間に皺を寄せながら立て板に水で愚痴を吐き出してゆく。
「ああ~ああ、円香ちゃんみたいなしっかり者で賢い子が娘だったら良かったのに。円香ちゃんはみんなから愛されていて友達もたくさんいるんでしょ? 愛嬌があって可愛い子だもんねえ」
渚は章子の友達第一号として紹介した円香を気に入ったのか、それ以来何かあると引き合いに出してきては娘と比べることが多かった。
円香と章子は、接点のない無関係と言っても差し支えのない関係を維持していた。
思い出す、勇気を振り絞り円香に話し掛けたある昼休みの時間の出来事を。円香に辛辣に拒絶されたあの時の記憶が、章子の瞳孔を開かせる。
円香が章子を本当の友達として扱わないように、章子も無意識のうちに円香を友達という枠組みの線から外へ押し出し遠くへ追いやっていた。極力円香のことを考えないようにすることで、忌まわしい記憶を改竄し、円香の存在ごと頭の中から消してしまおうと章子は目論んでいた。けれど、何故か今回は上手く行きそうにない。渚に話題にされた途端、円香の存在感は再び章子の中でたちどころに大きく膨らみ出す。まるで、家の中で発見したのにも関わらず恐ろしくて退治できず、野放しにしたまま放置したゴキブリを見つけてしまったかのように。
章子は両目をすぼめて、出そうになる重い溜め息を唇中の粘膜に力を入れて噛み殺した。
「ちゃんと円香ちゃんと学校で話とかしてるの? まあ、しょうがないよね。円香ちゃんとあんたじゃレベルが違いすぎるもの。相手にされないのも当然よ。円香ちゃんと違って、あんたは学校のみんなから好かれていないし必要とされていない。可哀想な子だね。これから新しく友達ができるようなことがあっても、すぐにあんたは友達を失うよ。あんたと友達になってくれるような優しい子は、友達ができやすいだろうからね」
耳を塞ぎたくなるような文句の数々に章子は辟易した。
渚は気まぐれにも愚痴の標的を章子へ向けたまま固定した。章子はなぜ、渚がこちらを攻撃してくるのかが分からなかった。今まで正を共に批判することで歪んだ母子愛を強めてきたではないか。それなのに、どうして互いの悪心から築き上げてきた今までの関係を壊すような真似をするのだろうか。章子は、家族という本来であれば、極めて強い結びつきがなくてはならないはずの群れから、突然出て行けと追放されたかのように感じた。
章子は目に見えない胸の傷口をついばまれているかのような痛みを覚え、顔をひきつらせた。バラバラになって四方に飛び散りそうになる心を抑え込むために、自分に酷烈な我慢を強いて押し黙った。そのまま、渚のうだるような愚痴を聞きながらたちまちの内に精神的に追い込まれてゆく。
唐突にも、章子は明日の国語の授業のことまで思い出してしまった。逃れがたい全校遠足の作文発表が、身を震わすほどの緊張感を引き連れて、両手を広げ待ち構えている。なぜ今までこんな重大なことを忘れていたのだろうか。それに関しては甚だ疑問ではあるが、複数の原因が章子の気持ちを無軌道にねじ曲げ、振り回したからに違いない。
窓から見える空の色が暗さを増してゆく。
章子は家庭と学校の両方から板挟みに遭い、憂慮に堪えず、思わず窮屈そうに顔を歪めた。自然と苦痛に呻くように目が細まり視界が狭まる。恐怖と不安により、柔な胸は簡単に押し潰されてしまいそうだった。
正は浴室へ入ったまま戻って来ず、渚は二階へ洗濯物を干しに行って、居間に残るのは章子一人しかいない。そうなると、章子はろくなことを考えない傾向がある。暇があるとストレス解消のため性的なことを考える癖があるが、今は蛇に睨まれた蛙さながら、そんな心の余裕はない。頭の全てが全校遠足の作文発表のことで支配され、それにより章子はすこぶる緊張を催していた。
気分一新のため電源を入れたテレビを縋るような目で見つめると、世界を震撼させた様々な凶悪犯罪事件を取り上げるバラエティ番組が放送されていた。章子はリモコンを小刻みに微動させながらテーブルの上に置いた。
そのバラエティ番組の影響で、章子は萎えて閉ざした心の目を、ある愉悦により大きく見開くこととなる。
フレディ・ジョンソンは、ヨーロッパの牧歌的な雰囲気の残るのどかな町で生を受けた。フレディは両親と仲が悪く、友達もおらず、孤独な少年だった。幼少の頃より化学に興味を持ち、化学に関する書物を読みあさり、八歳の時には既に高校生と肩を並べられるほどの知識を身につけていたと言う。底知れない孤独感と両親からの暴力で受けた傷を癒すかのように、フレディが何よりも深く打ち込んだものは毒薬の研究と実験だった。
フレディは九歳という幼さで一人薬局へ赴いて毒薬を購入し、次々と身近にいる人間を殺害していった。手始めに自らの母親を、続けて気に入らない学校の同級生を、しまいには取るに足らないスーパーマーケットの客にまで、被害者は多岐に及ぶ。
章子はフレディの写真とVTRを一目見た瞬間から、彼に宿る吸い寄せられるような禍々しい魔力に魅入られていた。
不良少年と毒薬。その二つの狂気は、有無を言わさない魔力で章子の弱った心を誘惑し拐かして、一度立ち入ったら二度と戻れない魅惑的な渦へと引きずり込もうとする。重すぎる試練にもがき苦しみ、悪の道に走った彼に否応なしに惹かれてしまう。
殺人というのは、唯一弱者が強者に一矢報いることのできる最恐の方法だ。その中でも毒殺は、殴る蹴る刺すといった野性的な殺害方法とは違って、対象者をじわじわと時間をかけて苦しませ死に追いやってゆく味わい深さがある。狂気に染まった持続的な力を傍観者へ見せつけることもできる。
川の水が上から下へ流れ落ちてゆくように、自然と章子の心も得体の知れない闇の中へと呑みこまれてゆく。
章子は奇しくも両親がほぼ同時に居間へ入ってくる気配を本能的に察した為、バラエティ番組のエンドロールを見届け終える前にテレビの電源をリモコンで切った。
やがて、暗い興奮が鎮まってゆくと見たくもない現実が再び章子の中に姿を現して暴れだす。
明日の学校を絶対に休みたい、という痛切なる願い。章子は逃げることしか頭になかった。担任とクラスメイト達の視線を受ける中で声も出せず、恥辱にまみれるだけの思いを断固阻止するべく、脳内で危険を示す獰猛な赤色信号が点滅し始める。
章子はついに手軽にその願望を叶えられそうな方法を思いつくと、忍者のように息を潜めて両親の目をかいくぐり、いそいそと居間にある薬棚の引き出しを開けた。
そう、薬だ。あの薬を使えばーー。
章子を駆り立てる行動の背後には、先程テレビで見たあの毒殺犯がいた。まるで、フレディに命令でもされたかのように章子はただならぬ高揚感を得ながら薬棚の引き出し内を探す。
二年前、渚から「この薬はお父さん方のお祖母ちゃんがうつ病の時に病院から出された強力な薬だから絶対に飲んじゃだめよ」と念押しされたことを章子は思い返していた。
ようやく見つけ出した精神安定剤の入った白い紙製の袋を、章子は今、掌中に収めている。袋から小さな輪ゴムでとめてある束になった薬剤シートを取り出すと、白い錠剤を一切合切シートから押し出して手の平の上に全てのせた。
章子は忍び寄りすうっと浸透してくるような背徳を感じた。無辺際な闇だけが定住し、優しい光の差し込みにくいこの人生を壊したい。
そのまま手を握り締め拳を作ったまま台所へ行くと、マグカップの中に料理用の赤ワインを並々たっぷり注ぎ入れた。マグカップに口をつけ、一錠一錠を味わいでもするかのようにゆっくり赤ワインで精神安定剤を食道へと流し込んでゆく。薬と酒を口にすると、一気に大人になったようで強くなれた気がした。
これは毒薬ではないけれど、飲んだ量が多いからきっと何かしらの副作用が身体にあらわれてくるだろう。下手をしたら、内臓が壊れるかもしれない。スマホで調べた情報にも、オーバードーズ(薬物過剰摂取)という行為はリスクのみがつきまとうと記されていた。
内臓を壊す。
その言葉は、社会の常識と他者からの温情が不足している無知蒙昧な章子の目から見る分には充分耐えられると思った。学校に行かずに済むのなら、内臓の一つや二つ差し出してもいいとさえ思った。たとえ命を削ることになったとしても、章子は死すら厭わなかった。
後は、明日の学校への欠席を確実なものとし、あまつさえ寝ている間に死ねたら死にたいがために、章子は赤ワインを死力を尽くして飲み続けた。その間、喉は終始焼けるような悲鳴を上げていた。




