一、
章子は、冷たい緊張に晒されながら千春専門学校九年D組の教室にいた。手足が頼りなくふらつきそうになるのを両手で拳を作り、握りしめることによって耐える。黒板の前で少し折れ曲がったマッチ棒のように、猫背で立ち尽くしていた。
体は緊張で固まったまま、口を開いても言葉が出て来なかった。クラスメイト達の視線を否応なしに浴びている。その注がれる視線の数々が、いくら優しくても厳しくても、口から言葉が出てくるか出てこないかには直結しないようだった。章子を見つめるクラスメイト達の視線の色は様々だが、大きな偏りはある。 章子は眼球のみを彷徨わせて、クラスメイト達の表情を窺った。口角を上げている者もいるが、話をするよう催促する非難の色が大半を占めている。
こんなところに無力で立ち尽くしたままでいる自分は一体何をしたいのか分からない。姿を見せるためだけに黒板の前へ出てきた訳ではないはずだ。話さなければならないのに話せないと自覚するや、本当は違う理由でこうして立っているのかもしれないとさえ思うようになる。
章子はさっきまで薄く開けていた口を、今ではぴったり真一文字に閉じてしまい、喋る気力さえ湧いて来れないようだった。
章子は日直として朝の会の進行という役目を背負い、隣の席の邪悪なアザラシのような顔をしたスクールカースト上位男子・長谷川と共に黒板の前に立っている。章子から見て長谷川は、文武両道の優等生だが人を選んで嫌がらせをする、そんなクラスメイトだった。
発言を求められてから時間は地獄にいるかのようにゆっくりと進むが、着実に五分は経過している。この間に、章子がひたすら天に願ったのは、人前でのスピーチの終了か、自らの終焉か、向けられている数多の目の消失か、いずれかの成就だった。
「丸井さん、一言だけでも喋ってもらっていい?」
石のように固まったまま微動だにせず発言しない章子に、ジャージ姿にポニーテールヘアといった風貌の担任教師はどう扱ったらいいのか分からないといった表情で章子を凝視している。
章子の場合、家では完全に話をすることができるけれど、学校では話せる時と話せない時の両面を持ち合わせていた。担任はそんな章子の、出席確認の際の「はい」といった返事や、着席しながらの問題解答への発言はできていながら、なぜ黒板の前へ出ると途端に言葉が出て来なくなるのか、単なるわがままなだけではないのか、と不審がっているのかもしれない。
しかし、ここでは話せて、向こうに行ったら声が出なくなる、などそんな不分明な変化の要因なぞ、当人である章子にさえ分からなかった。ただ単純に、黒板の前に立つと言葉を失うという事実だけが存在しているだけだった。
「まじで丸井いらない。死ねよ」
普段お調子者のスクールカースト上位男子・小木が苛立ったような深いため息を吐いた。
「ホント頭おかしい、バカ」
隣に立っている長谷川も小木に触発されたかのように、章子にしか聞こえないような小声で呟く。
今日は一時限目から大抵の運動神経の良い学生達を喜ばせる科目、体育が控えていた。当然機嫌は悪くなるだろう。小木と長谷川は、運動会のリレーの選手常連だった。
章子は、眼球だけを動かして周囲を見ることを止めると、誰とも目を合わさずに俯いた。二人の冷たい打撃が心から消えて無くなるのを待った。担任に促されながらも、言葉一つ出て来ない自分の頑なさに負けた。ただ棒のように突っ立っているだけで、声がせり上がって来ないのはひどく惨めだった。
「何で話せないのかなあ? もういいです。席に戻ってください」
担任は、一音も声を漏らさず佇むだけの章子に怒気を孕んだような調子で言った。章子は担任の救いの一声に安堵し、この短時間で幾度となく生死の境を彷徨ったような気になった。
章子が真ん中の最後列の自分の席へ座ると、入れ替わるようにしてクラスメイト達が体操袋を持って椅子から立ち上がった。
章子は手入れしていないボサボサの蓬髪を掻くと、不潔な白い頭垢が机の上に落ちる。幼い頃は、大の風呂好きだった。ところが、五、六年生になってから風呂に入るという動作が、ことさら億劫で苦痛になっていた。
周囲が男女に分かれ教室移動をしてゆく中、章子には共に多目的室へ行く友達もいなかった。一人で、ベージュがかった白色の光沢のある廊下を歩いて、黄色い声が飛び交う多目的室内に誰よりも遅れて入った。古くさい書籍のような匂いが鼻をくすぐる。毎日のように学生達が掃除している筈だが、壁にまで染みついた匂いまでは落としきれないようだった。
スクールカースト。それは学校における絶対階級制度だ。スクールカースト上位、中位、下位、最下層と大まかに四つのグループに分かれている。
章子は最下位の立ち位置にいた。どのグループにも交わらず、クラスメイトの女子達から少し離れた机上に体操袋を置き口を開けて、半袖半ズボンの体操服と紅白のリバーシブルの帽子を一着ずつ出した。
章子は、何をするにしても動作が遅かった。遅いスピードで体操服に着替えてゆく。クラスメイトの女子達は着替え終わると、何人かで固まり、連れだって多目的室をあとにする。残されたのは、章子ただ一人だけだった。焦りを覚えながらも、目を伏せて淡々と着替えるのみだった。
長袖の黄色いポロシャツを脱いで上半身が白のブラジャーだけになると、寒さのあまり身が縮み上がり、歯が不健康そうにがちがちと音を立てて鳴り始めた。これほどまでに寒くては、のんびりながらも急ぎたいという気持ちが沸き起こるのは当然だ。章子にしてはすばやい動きで、半袖の体操服を着て、その上に紺色のジャージを羽織り、最後にズボンを履いた。
体操服は素肌に触れると、どれも素っ気ないほどに冷たい。どの体操服にもオレンジ色の太い糸で刺繍が施されており、名字がよく目につく場所に縫いつけられている。
多目的室を出て、階段を下り、本館と体育館を結ぶ通路を渡った。
目的地である体育館の中へ入ると、予鈴が鳴った。周りが友達の輪を作り、好きなアイドルの話や学校の同級生達の噂話に花を咲かせている中、章子はどの群れにも属していない中性的で大柄な最下層の女子学生の隣へ向かった。
「間中さん」
「よお、丸井」
間中の軽めのジャブが章子のみぞおちに入り、一瞬呼吸が止まった。章子は思わず腹の上に手を置いた。
「もう、間中さん、そういうことするのやめてよ」
章子は自分の肉体の危機に怒った調子で文句を言った。軽めのジャブは、間中にとっては挨拶代わりでも章子にとっては、ただの暴力に過ぎない。間中は気まずそうに苦笑した。
本鈴が鳴ると、女子達は一斉にジャージを脱いで適当にたたみ、舞台の上へ置いた。章子の腕には数えきれないくらいの鳥肌が立っている。寒いのに体育の授業中は、ジャージを着てはいけないという学校側からの決まりごとを疑問視していた。
体育教師の指示により、整列、ラジオ体操、二つのチームのメンバー決めが行われた。最初にリーダーを決めて、じゃんけんをし交互に欲しいメンバーを選んでゆくといったやり方で、間中は上位女子のリーダーに、章子は中位女子のリーダーに貰われた。
試合は、間中チームと章子チームが対戦すると決まった。ホイッスルが鳴り、バスケットボールの試合が始まった。ボールは、すぐに間中チームの女子の手に渡り、巧みなドリブルでゴールに近づいてゆく。章子チームの女子が、それを食い止めようとボールに手を伸ばす。
その時だった。
「ああああーー!! ざけんなよ! おい!!」
と甲高い叫び声が上がった。
しんとした体育館中に黄色い声が響き渡る。
章子チームの女子は、その叫びに怯んだようだった。動きが止まる。
その間に、章子チーム側のゴールネットが大きく揺れてボールが通り抜け点数が入った。試合は続き、間中チームの女子達の叫びは連鎖して、間中を除く七人が試合中、
「あああああああああーーーー!!!」
と、やる方ない憤懣でも発散するかのような叫び声を上げて、やりたい放題といった様子だった。途中、鋭く刺さるような剣幕で注意する体育教師の声も、上位女子達の叫び声にのまれて掻き消えるだけだった。
「こら、そこうるさいよ! 叫ぶのやめなさい!」
体育教師が膝を屈伸するように折り曲げて全身で注意をあらわしてゆく姿を目の当たりにすると、章子は同情した。
しかし、間中チームの女子達の叫びは実は今に始まったことではなかった。数週間ほど前から授業中に集団で叫ぶと言う奇行にうってでる様子を幾度となく章子は目撃していた。傾向として、若く舐められやすい顔立ちの新任教師が受け持つ体育の授業や、大人しい男性教師が教鞭をとる理科の授業では、叫ぶ確率が高かった。どうやら教師により、借りてきた猫になるか、吠え癖のついた犬になるか、決めているようだった。
騒動は、体育教師の連続したけたたましいホイッスルの音により終わりを迎え、バスケットボールの試合も終了時間となった。章子は、ただでさえ上位女子と接するときは普段からおどおどしてしまうのに、バスケットボールの試合に臨む彼女達の覇気に圧倒された。出すぎた真似をすれば、図々しく思われてしまうかもしれない、という懸念からボールを取ろうと手を伸ばすこともできなかった。




