取るに足らない過去と濡れた壁
お読み頂き有難う御座います。
古式ゆかしい絵文字が出てきますので、苦手な方はご遠慮くださいませ。
昔、近所に住んでいた幼馴染がいた。
幼い頃は仲が良かったが、次第に遊ばなくなって疎遠になっている幼馴染が。
もう、会えない筈の幼馴染のことを思い出すのは何故だろうか。
何時も膝丈しかない水量の用水路で遊んだのを思い出したのは、何故だろうか。
名前は……なんだった?
大学に通う為上京して、就職して……忘れていた筈なのに。
ふとした帰り道の背後に、疲れてウトウトとした電車の席で、水たまりを踏んだ時……酷く彼の気配を感じる。
「疲れた……」
早朝から雨が降っていて、漸く止んだものの。
仕事を終えて帰る頃には、どっしりとした熱気と湿気が体中を包みこんでいた。
あまりにも暑くて嫌になる。冷蔵庫に何があっただろうか。
水遊びで冷えた手足と胃を温かく満たすうどん。
滑らかに練られたじゃがいもに、僅かな挽肉が潜むコロッケ。
麦茶が人数分添えられて……。
ウンウン、炭水化物ばかりでゴメンね、と優しい声が聞こえるのはあの日の昼ごはんだった。
……あの日とは? 何時だっけ。そんなご飯、両親が用意した日は有った?
母親は何時も居なくて、偶に居ると怒鳴ってた。
父親はずっと寝てた。
祖父母なんて見たこともない。
あの日とは、本当に実家の記憶?
いや、あんなカビ臭いホコリだらけの家じゃなかった。
物は多いけど、ちゃんと片付けられてて、ゴミを踏むなんてことなかった。
私の話を頷いてよく聞いてくれて、家族も優しくて羨ましかったなあ。絵文字の使い方教えてくれたのもあの子で。
あの子の家の子になりたかった。
「!? な、なに……」
気を抜いて凭れた壁が、濡れている。
水漏れだろうか。
此処は……自分の力で抜け出して得た家だ。
そう、あの毒親達から、手を借りて必死に抜け出して……。
誰の手を借りたっけ。
ウンウンウザいし口出しが鬱陶しくて邪魔になって振り払って、水路に落とした体が……水飛沫を上げていた。
派手に落ちてくれて目眩ましになった、よね。
……ちょっと待って。
……そんなの、思い出してどうするの。
誰だったかも思い出せないのに、遥か昔の話なのに。
それより、壁を伝う水漏れを何とかしなきゃ。
賃貸だから、大家さんかな……。番号は、何だっけ。
xxxx-xxx-xxxx……?
いや、違う……。この番号は、使われておりませんって……アナウンス聞こえる。違う、違う……。
切らなきゃ、切らなきゃ!! 違う!
「ギャッ……!」
雑誌に足を取られて滑って転んだ。背中が痛い。
用水路に打ち付けたかのように、背中が痛い。
濡れた面積が、増えていく。
『ナB-)ンデオ*\0/*(◕ᴗ◕✿)イテクʘ‿ʘノ(╹▽╹)ォ』
「ひっ!?」
何で画面にこんなメッセージ来るの!?
アプリも何も開いてない!
水嵩が増えていく。膝まで水が、いや、ここ……家なのに……。4階なのに!?
『ゴハ(◕ᴗ◕✿)ンタಡ͜ʖಡベタ(。•̀ᴗ-)✧?』
「やだ、許して……」
『オカ(*´ω`*)ネカ(◠‿・)—☆エシテ』
アイツだ。あの子だ。
振り切って、殺した……勝手に死んだ幼馴染の、あの子だ!
「逃げたかったの! ねえ、分かるでしょ! ウチの家異常だったじゃん! 死ぬところだった!」
『ワタシノカ◉‿◉ゾクカエシテ』
恐ろしすぎて、気持ち悪い!
そうだ、水だ。
不気味なメッセージしか受信しないスマホを水の中に叩き込んだら、動かなくなる筈。
狭い我が家、出口も近い。
「はっ、アンタみたいなお人好し、怖くも何ともないし! 終わったことでグチグチ煩えわ。精々恨むのね! くっだらない」
私は走って、スマホを投げ捨て……変な画面が消えて、静寂が戻った。なんでか水は引かないけど……はは、バカみたい。ブラックアウトしたよ、バーカ。
この、変な怪奇現象に勝ったんだ!
やっぱ、狡賢くても生き汚くやらないと……損なんかしてられないよね。
さて。この水漏れ何とかさせなきゃ。
歩きにくいなあ。足に何か絡まった?
私は、大家に文句を言うべくドアを開けようとして……。
躓いた。
薄い板……放り投げたスマートフォンに。
『クダラナʘ‿ʘイノハお前だ』
「……404の人が、水漏れ起こしたみたいなんだけど、誰も居なかったの」
「困りますね、お風呂が溢れたのかな?」
小さなアパートの一角で、大家の女性が困ったように近所の人達と立ち話をしていた。
プライバシーも有ったものではないな、と通行人は思ったことだろう。
「いえね。何度もチャイム鳴らして居ないものだから、警察の人に言ってね。マスターキーで入ったら誰も居ないのよ。
でも、部屋は散らかってて、カラッカラの干からびたゴミだらけ」
大家が困ったように言うと、近所の人はウンウンと頷いた。彼女も問題の人物に心当たりが有るらしい。
「あの、派手な人ですね。格好派手な割に何か……臭いが独特だと思ったら、そうなんだ……」
「ああ、洗濯機も洗剤も何も無かったの。洗濯してないのかしら。
それで、身内にお電話したら……連絡先、嘘だったみたいで」
「ええ……?」
奇妙な話に、近所の人の眉根が寄る。身元調査に間違いがあったの、と大家は言った。
「誰も住んでない家を連絡先にしてたみたいなの。しかも、親戚でもない人を養い親にしたとか嘘を付いて」
「……ウンウン、変わってるね……」
「最初は、普通の女の人だと思ったのよ。でもなんか、一昨日背中がずぶ濡れで歩いてたから……あ、だからあの臭いかあ」
「ずぶ濡れ? この寒いのに? 変わってるね」
近所の人はウンウンと頷く。
「そうなの。でも、おかしいのよね」
「どうしたの?」
「あの404の人、水道代を滅茶苦茶長く払ってなかったみたいで……この一週間は、水が止められてた筈。水道局の人がメーター回ってないって言ってたの」
「……」
近所の人は、表情を無くして動きを止めたが、大家は気にしなかった。
「引き留めてごめんね。今からお仕事?」
「ううん、今から実家に帰るの。休みを貰えたから」
大家が振り向くと、どぼり……と音がした。続けてズズ、スブ……ズ……と何か詰まった音が、近くでする。
「側溝が詰まってる……? ……最近雨も降ってないのに」
……え? ああ、昔おかしい子が住んでたわね。
あの台風でウチの子が亡くなってすぐ、おばちゃんちの子になりたいって押しかけてきたのよ。何を考えてるんだか。
可哀想だと思ってお昼やらご馳走したのに味を占めたみたい。
あんな子、ネグレクトされてて可哀想だと思うんじゃなかった。
すぐに引っ越したわ。思い出すだけで腹立たしい。
ウチの子?
ええ、あの子はずっとウチの子ですよ。
あんなおかしな子にも優しい自慢の子でした。
お盆でも何時でも帰ってきていいのに……うう……。
……あら? 今誰か来たのかしら?