名探偵様のお通りです
「つまり、あなたは最初からそうするつもりだったんでしょ?」
午前9時15分。会社の蛍光灯がまだ完全に馴染まない白さで天井を照らしている頃。わたしはその言葉を聞いて、そっとマグカップを置いた。コーヒーの表面が、かすかに揺れた。
決めつけるのが得意な人は、たいてい自分の心が見えすぎている。だから他人を鏡にして、先に傷をつけてしまう。あんたもきっと、そういう人だ。
「いや、ちがいます」と言っても意味はない。返事なんて求めてないのだろう。だいたい、返事があってもなくても、あの人の中ではもう結論が出ている。勝手に謎を作って、勝手に解決して、勝手に“納得”している。
それはまるで、安っぽいミステリのようだ。
犯人も動機もぜんぶ決まりきっていて、読んでるこっちはページをめくる気力もない。あらすじで十分。というより、むしろ、あらすじすら不要。
「なんかさ、考え方が浅いっていうか、すぐ顔に出るよね」
はいはい、また始まった。口調は柔らかい。でも中身は確実に尖ってる。わたしは目を合わせないまま、画面のファイルを一つ開いて閉じた。開いた意味はない。そうしないとやりきれないだけだ。
この人は、わたしを“わかってる”気になっている。わかってるってことにして、優越感を維持してる。なのに本人は、それを「観察力」だと思ってるらしい。
ほんとうは、不安なんだろう。きっと。
相手の意図を先回りして潰しておかないと、自分が「見抜かれる」側になるのが怖いんだ。
でも、そうだとして、わたしに関係ある?
誰が何を思っていようが、わたしの残業が減るわけでもないし、心が軽くなるわけでもない。だから黙って聞き流す。それだけ。
昼休み、トイレの鏡で自分の顔を見た。アイラインが少しにじんでいる。直す気にもならなかった。誰も見ていないし、誰も期待していない。
午後、書類の山を前にふと視線を上げたとき、彼女と目が合った。
「そういう目するんだね。へえ」
あぁ、まただ。またこの人は自分の中で、わたしという登場人物を整理して、フォルダにしまっている。
“弱そうだけど、ちょっと攻撃的なタイプ”
“押せば折れるけど、急に噛みついてくるかも”
“自信がないふりして、人に期待してる”
そんな分類。うんざりする。
でも、わたしはもう、言い返すのにも飽きていた。
だからただ、笑った。
それが一番、あの人を混乱させるって知っていたから。
本当の名探偵ってのは、事件を解くより、自分のことを黙ってる人だ。口数は少なく、証拠が揃うまで動かない。誰もが黙った空白に、そっと意味を置いていく。
でもこの人はちがう。音で埋めようとする。沈黙が怖いから。
わたしは、探偵にはなれない。でも、せめて「わからないものを、わからないままにしておく力」くらいは、持っていたい。
だってこの世界、わかりきった顔をしてる人間ほど、なにも見えていないのだから。
そう思いながら、わたしはふたたびマグカップを持ち上げた。さっきよりもコーヒーは冷たくなっていたけれど、苦みはちょうどよかった。
そして思う。
わたしは事件じゃない。
そして、あんたは探偵なんかじゃない。