5.聖女の望み
佳詩奈が聖女になってから9か月ほど経った頃。王国へ迫る大規模な魔物の軍勢が確認された。その数は、およそ10万。しかも高位魔族が指揮を執っているという。これまで相手にしてきた魔物の群れとは次元の異なる深刻な脅威だ。
もし召喚されたばかりの頃の佳詩奈だったら、恐ろしくて震えていたことだろう。だが聖女の力をすっかり使いこなせるようになった今の彼女は、不安は感じても逃げ出そうとは思わなかった。
どうも王国はこの魔物の軍勢の到来を予期していたらしい。そのために前もって佳詩奈のことを召喚した節がある。いろいろと思うところはあったが、この王国の危機を前に、聖女として戦うほかなかった。
王国軍主力の12万の騎士たちと共に佳詩奈は出立した。
戦場は平原となった。両軍が互いに決戦に選んだ場所だった。遮蔽物のほとんどない平地でなら、大軍の利点を最大限に生かせるからだ。
夜が明けて、日が高く昇り始め頃。戦いは始まった。
王国軍12万に対して魔物の軍勢は10万。数の上では王国軍が有利だが、相手には大型の魔物も多い。戦力としては魔物の軍勢が大きく上回る。その不利を覆すのが、聖女である佳詩奈の役割だった。
佳詩奈の役目は後方からの支援射撃だ。指揮官から指示を受けて移動し、指定されたポイントに最大出力で『浄化の光』を放つ。それをひたすらに繰り返した。
厳しく激しい戦いだった。中級以上の魔物が多い。その身体は鎧以上に頑強で、攻撃は大剣のように重く鋭い。それでもただ群れているだけなら、魔物との戦いに精通した騎士たちの脅威とはならない。
しかし、この魔物の軍勢は高位魔族が指揮している。ただでさえ厄介な魔物たちが、お互いの短所を補い合い、その長所を最大限に生かして組織だって攻めてくるのだ。その攻勢は凄まじく、精強と名高い王国の騎士たちであっても苦戦は免れない。
佳詩奈も懸命に聖女としての力を振るった。最大出力の『浄化の光』を放ち、すぐさま次の場所に移動しなければならない。後方支援と言っても弓や魔法の届く距離だ。安全とは言えない。体力も気力も削られる苦しい戦いだった。
それでも頑張るしかない。もし自分がミスをすれば王国軍は総崩れになってしまうかもしれない。そうすれば王国はおしまいだ。佳詩奈の命もないだろう。
佳詩奈は指揮官の指示通り正確に『浄化の光』を放っていた。それでも戦場で事故はつきものだ。ある時、『浄化の光』に前線の騎士を何人か巻き込んでしまった。佳詩奈の浄化の力は強力で、人間であって喰らえば気絶すると聞いていた。これほどの激戦の中、前線で気を失うことは死を意味する。
しかし、『浄化の光』を受けて倒れた騎士は見当たらなかった。その後も何度か巻き込んでしまったことがあったが、倒れた者は一人もいなかった。
これはいったいどういうことなのか。だが佳詩奈にそれをゆっくり考えている時間などなかった。戦闘はあまりに激しく、彼女は休む暇すらなく動き続けなければならなかったのだ。
最初は魔物の軍勢の方が優勢だったが、徐々に王国軍の有利に傾いていった。佳詩奈の『浄化の光』によって前衛を切り崩され、魔物の軍勢はやがて戦線を維持できなくなった。
朝から始まった平原の戦いは、日が落ちる頃には魔物の軍勢の撤退という形で終わった。
その後は王国軍の追撃戦が始まった。魔物の軍勢は巧みに逃げたが、王国軍は懸命に食らいつき、徐々に追い詰めていった。
そして一週間後。魔物の軍勢をついに追い詰めた。魔物の軍勢は廃城に陣取っていた。その廃城はほとんど朽ちてかけていたはずだ。だが遠目に見た限り、最低限の修復はされている。こうなることを予想して事前に補修しておいたのだろう。
魔物の軍勢を率いる高位魔族は軍略に長けているようだった。
籠城は援軍が来ることを前提とするものだ。攻城戦に時間をとられれば、高位魔族を倒しきれないかもしれない。
城を取り囲み、城攻めの作戦を練る騎士団長に対して、佳詩奈は自ら提案した。
「騎士団長。私なら城を包み込む『大規模浄化結界』を張り、魔物を殲滅することができます。どうかご許可をいただけないでしょうか」
「おお、聖女カシナ様! なんとありがたい申し出だ! ですが……あなたもこれまでの戦いでお疲れのはずだ。これ以上のご負担を強いるわけには……」
「大丈夫です、やれます。それより結界の準備をしている間、わたしは無防備となります。その間、魔物の軍勢に動きがあった時はお願いします」
「……わかりました。お願いします。あなたに女神様の加護があらんことを!」
佳詩奈も聖女として最低限の軍事教育は受けていた。城攻めは攻める側の損耗が激しいことを知っていた。ここが聖女の力の使いどころと言うものだ。
だが『大規模浄化結界』を提案した理由はそれだけではない。どうしても確かめなければならないことがあったのだ。
魔物の軍勢の動きに警戒しつつ『大規模浄化結界』の準備を進めた。城を取り囲むように四か所、魔法陣を作る。最後に佳詩奈が聖なる力を流し込めば、廃城を包み込み『大規模浄化結界』は発動し、魔物の軍勢を殲滅することができるはずだ。
準備中、騎士団はこれまで通り城攻めの準備を進め続けた。これは魔族の軍勢に聖女の動きを悟らせないためだ。それに佳詩奈の『大規模浄化結界』であっても魔物すべてを殲滅できるとは限らない。最終的には城攻めが必要になる可能性もある。準備しておくにこしたことはなかった。
魔物の斥候が偵察に来たことは確認されたが、本隊が動く気配はなかった。『大規模浄化結界』の準備は滞りなく進んだ。
そして三日後。ついに準備は整った。佳詩奈は魔物の力が最も弱くなる夜明けの時間に『大規模浄化結界』を発動させた。
歴代の聖女のなかでも最強と評された佳詩奈。彼女の作り上げた『大規模浄化結界』は、廃城を真っ白な光で包み込んだ。それだけでなく、騎士団すらもその光の中に呑み込んだ。
『大規模浄化結界』の発動から一時間後。佳詩奈は魔力探知で廃城の中を探った。魔物の気配は一切ない。魔物の軍勢は無事殲滅されたようだ。
周囲を見渡しながら、魔力探知を続ける。佳詩奈の周囲には誰もいない。佳詩奈を護衛していた騎士たちも、廃城を包囲していた騎士たちもいない。魔力感知で確かめた限り、廃城の周囲には誰もいない。10万近くいた騎士団は、誰一人残っていなかった。
「……女神様。歴代最強の浄化の力を授けてくださったのは、こういうことだったんですね」
考えてみれば当たり前のことだった。
聖女の持つ最大の力は浄化だ。穢れたものを消滅させることができる。だから魔物に対して絶対の攻撃力を有する。
本来、人間に浄化の力を振るっても効果はない。人間にだって穢れた悪人はいるが、それだけで消滅することはない。せいぜいが気絶する程度だ。女神の教えでは、人の罪は人が裁くべきだとされているからだ。
だが、イラウサージュ王国の人々にそれが当てはまるだろうか。
イラウサージュ王国はその歴史において、女神の力を利用して何人もの聖女を召喚してきた。『親愛による縛鎖』で心を縛り、魔物討伐の兵器として都合よく運用した。その犠牲によって繁栄を遂げた。
女神の力を濫用することは、正しいことと言えるのか。関係のない少女の人生を奪うのは、許されることなのか。イラウサージュ王国は、穢れていないと言えるだろうか。
平原での魔物の軍勢との戦いの時。佳詩奈の『浄化の光』を受けて、気絶した者は見られなかった。誰一人として、倒れなかった。
それは『浄化の光』がまったく効かなかったということだろうか。そうではなく、実は逆だったのではないか。
それを確かめるために『大規模浄化結界』の範囲を広げて騎士団を巻き込んだ。
結果、誰もいなくなった。彼らは王国の平和のために命がけで戦った立派な騎士たちだった。しかし穢れた王国に属する者でもあった。だから佳詩奈の浄化の力をその身に受ければ消滅するしかなかったのだ。
つまり佳詩奈は、10万もの騎士たちを、意図的に虐殺した。
それなのに、彼女の顔に後悔の色はなかった。恐怖も、悲しみも、怒りすらもなかった。
頬が紅潮していた。瞳がうるんでいた。口元からは笑みがこぼれた。
「ああ、これは、これは、これは……! なんてすばらしい力なのでしょう!」
その顔は、希望に光り輝いていた。
強制的に聖女にさせられたことを恨んだのではない。過去の聖女たちの境遇を憐れみ、義憤に駆られたわけでもない。
佳詩奈はただ、可能性を見出したのだ。
佳詩奈は廃墟が好きだ。しかし彼女は、厳密には廃墟マニアではない。佳詩奈が好きなのは『人のいない建物』だ。無人の静寂に身を浸していると、その廃墟が『自分だけの特別な場所』になったように思える。その感覚が好きだった。彼女にとって「人がいない」ということが絶対の条件であり、荒廃していなくてもかまわなかった。
週に一度程度、廃墟を訪ねるだけでそれなりに満たされていた。
しかし佳詩奈が内に秘めた本当の願望は、そんなささやかなものではなかった。彼女は欲望はもっと巨大で破滅的なものだった。
建物一つでは足りない。廃村程度では満たされたない。彼女が本当に望んでいたのは、誰もいない街だ。巨大な街ひとつを『自分だけの特別な場所』にしたかったのだ。
元の世界ではその欲望に気づくことすらなかっただろう。現代の日本において佳詩奈は一介の高校生に過ぎない。街から人間を排除する手段を得ることなど、万に一つもあり得ない。
しかし、聖女となって浄化の力を得た。この力を使えば、王都から全ての人間を消滅させることができる。
骨の一片、血の一滴すら残すことなく、綺麗に無人にできる。
佳詩奈はもともとは虫を殺すことすら忌避するような少女だった。だが、今は違う。穢れたものを浄化することには対しては何の抵抗も感じない。どれほど人に近い姿だろうと、魔物であればためらいなく『浄化の光』を放つことができる。王国の施した教育と、聖女としてこなしてきた戦いが、彼女の心を作り変えた。
だから。イラウサージュ王国が穢れていると言うのなら、王都を浄化することに何の抵抗も感じない。つい先ほど、王国軍の騎士たちを消滅させた。彼らは共に死線を潜り抜けた同胞だった。
しかし佳詩奈は、何の罪悪感も覚えていなかった。
――あなたが本当に望むことを見出したのなら、ためらわずに進んでください。
召喚されたとき、女神は言った。
これだ。これがそうなのだと、佳詩奈は確信した。
夢をかなえる手段がある。大義名分がある。正当性がある。止められる者はいない。精神的な歯止めすら存在しない。王国が奉じる女神に後押しさえされている。
佳詩奈は嬉しくてたまらなかった。
自分の本当の望みに気づくことが、こんなにも素敵なことだなんて知らなかった。
夢に向かって突き進むことが、こんなにも胸を熱く焦がすものだなんて知らなかった。
幸せで。幸せ過ぎて。もう彼女は、止まることなんてできなかった。