2.聖女の召喚
西条 佳詩奈は高校2年の少女だった。
肩まで届く黒髪に、黒い瞳。顔立ちはそれなり整っているが、化粧っけはなく、地味と言う印象が強い。性格も内向的で友達は少ない。学校の成績は中の下くらいだ。
誰からも注目されることのない、どこにでもいる地味な少女。それが西条 佳詩奈だった。
そんな佳詩奈だったが、少し変わった趣味を持っていた。それは廃墟めぐりだ。
平日はスマホで廃墟の情報を集める。週末は自転車に乗って近くの廃墟に赴く。長期の休みになると、貯めたお小遣いで遠出して、有名な廃墟を訪ねることもあった。
誰もいない廃墟は佳詩奈にとって安らげる場所だった。静寂に身をゆだね、崩れかけた建物や残骸に想いを馳せる。それが彼女にとって、何より落ち着く大切な時間だった。
そんな風にして廃墟めぐりの趣味を楽しんでいた佳詩奈だったが、ここ最近は学校の行事や家の用事で趣味を楽しむことができなかった。
そこで放課後の校舎を散策することにした。図書室が閉まるまで時間を潰す。閉館時間が迫ったころ、校内に繰り出した。
この時間になると校舎にはほとんどいなくなる。大半の生徒は下校しているし、部活の生徒も校庭や体育館、部室棟で活動しているからだ。
放課後に理由もなく校舎をうろついていると教師に注意を受けることもあるが、その心配はない。佳詩奈は既に教師の巡回ルートも把握している。こうしたことはちょくちょくやって慣れているのだ。
夕日も落ち始めた薄暗い校舎の中。人通りの絶えた廊下を歩く。校庭の喧噪が遠く、静かな場所。世界に一人だけになったような気持ちになる。
通い慣れた場所なのに、人がいないというだけで違った場所に思える。今だけ『自分だけの特別な場所』になったように思える。密やかで穏やかな安寧。廃墟を訪れた時に近い満足感が彼女の胸を満たすのだ。
しかし今日は、その安寧を乱す声がした。
「佳詩奈……西条 佳詩奈……」
どこからか名前を呼ばれた気がした。遠くから聞こえるように感じるのに、妙に耳にはっきりと届く声だった。
ふと振り返ると景色が一変していた。先ほどまで歩いていたはずの廊下がない。壁も床もない。ただ、白かった。あわてて前に向き直ると、何もなくなっていた。校舎はどこかに消えていた。右も左も前も後ろも。上も下も。目に映るのは白ばかりで、床や壁があるのかすらわからない。
床を踏みしめている感触がない。手を伸ばしても触れるものが無い。進むことも戻ることもできない。浮いているのか落ちているかもわからない。
そんな奇妙な状況に戸惑っていると、いくつもの声が耳に飛び込んできた。
「かわいそうに……」「選ばれてしまった……」「もう逃げられない……」「召喚される……」「剣と魔法の異世界……」「聖女……」「選ばれた……」「聖女にさせられる……」「やめられない……」「あらがえない……」「偽りの愛……」「子供さえいなければ……」「戦わされる……」「使い潰される……」
無数の声が耳に飛び込み身体に染みわたる。暗く湿った声だった。耳をふさいでも聞こえる。それはまるで一滴の黒いインクを白い紙に垂らしたように、その言葉は胸の内にどうしようもなくしみこんでいく。
自分が内側から腐らされるような感覚。寒気がする。吐き気がする。身体がぶるぶると震えだした。
「やめてください! なんなんですか、これはっ!?」
たまらず叫ぶと、唐突に声は聞こえなくなった。そして目の前に忽然と、一人の女性が現れた。
光り輝く豊かな金の髪。慈愛に満ち溢れた面差し。身に纏うのは、ギリシア神話にでも出てきそうな白いローブ。その姿はあまりに美しく、そして清浄だった。さきほどまで身体を襲っていたおぞましい感覚が消えていた。まるでこの女性の登場で、不浄なものが消え去ったかのようだった。
「あなたは誰ですか……?」
「私は女神。女神アインフィラーヴェ」
目の前に現れた金髪の美人が女神を自称し始めた。これが街中だったなら、新興宗教の関係者かなにかと疑うことだろう。すぐにでも距離を取りたいところだ。
だが、この壁も床もない白い空間では動くこともままならない。それ以前に動こうとすら思えなかった。目の前の女神を自称する女性身に纏うあまりにも神聖な雰囲気に、理性より先に本能が認めていた。この人は本当に女神なのだ、と。
それでも佳詩奈はを問わずにはいられなかった。
「本当に……女神様なんですか?」
「ええ、そうです」
佳詩奈の疑問は落ち着いた上品な声で肯定された。信じられない状況だったが、疑ってばかりでは話が進まない。ひとまず目の前の女性が女神であることを受け入れることにした。
そうすると、どうしても確かめなくてはならないことがあった。
「……もしかして、わたしは死んでしまったんですか?」
突然こんなおかしな場所にいた。それで目の前に女神がいる。死んであの世に来たと言うのなら一応の説明はつく。
しかし女神アインフィラーヴェは悲し気に首を横に振った。
「いいえ、違います。あなたは、今までいた世界とは異なる世界から、聖女となるべく召喚されたのです。あなたは聖女として、王国を守るために魔物と戦うことになるのです」
どこかで聞いたような話だった。佳詩奈もそうした小説をいくつか読んだことはある。現代の日本から召喚されて聖女となったヒロインがひどい扱いを受ける。そして王家に復讐したり、隣国に逃げて幸せになったりするという内容だ。授業の空き時間や廃墟へ向かう電車での暇つぶしにスマホで読んでいた。
物語として楽しんだことがあっても、異世界に行くことに憧れたことはなかった。今の暮らしに不満がないわけではない。しかしこの世界にはまだ訪れたことのない廃墟がいくつもある。佳詩奈にとっては未知の異世界より、外国の廃墟の方がずっと魅力的があった。まして聖女として戦わされるなんて、頼まれたってやりたくないことだ。
「そんな、嫌です! 勝手に召喚なんてされたら困ります! キャンセルできませんか!?」
「ごめんなさい。その願いは聞くことはできません。私は『約定』に縛られていて、あなたの召喚を取り消すことはできないのです」
「そんな……」
「私ができることは二つの助言を授けることだけです」
「助言?」
「一つ目の助言は、王家に対して常に警戒の心を持ってほしいということです。異世界に召喚されたあなたは、王族に対して親しみを抱くことでしょう。ですがそれは召喚に組み込まれた『親愛による縛鎖』という魔法によるものなのです。どうかくれぐれも気をつけてください」
物語において、聖女を召喚する王家は信用ならない。そもそも自国の防衛のために異世界から強制的に人を呼び出して戦わせるなんて身勝手この上ないことだ。それに加えて心を操る魔法をかけるなんて、どれだけひどい王家なのだろう。佳詩奈は嫌悪感に身を震わせた。
「二つ目の助言は……もし、あなたが本当に望むことを見出したのなら、ためらわずに進んでください、ということです」
「わたしが本当に望むこと……?」
「あなたには歴代最強の浄化の力を与えます。浄化の力は必ずや、あなたの望みをかなえる助けとなるでしょう。あなたの望みをかなえることが、私の望みをかなえることにもなります。だから、どうか負けないでください……」
その言葉を最後に女神アインフィラーヴェの姿は消えた。再び周囲は真っ白な世界になった。女神の言葉の意味を考える間もなく、佳詩奈の意識は急速に遠のいていった。