1.聖女の散策
「いいお天気ですねえ……」
聖女カシナはしみじみとつぶやいた。
肩まで伸びた黒髪に、黒い瞳。顔立ちはそれなりに整ってるが目立った特徴はない。どちらかと言えば地味な顔立ちの少々内気そうな少女だ。
外見の印象と異なり、その笑顔は実に晴れ晴れとしたものだった。
イラウサージュ王国の王都ヴライベール。王城まで続く大通りは道幅は広く、いくつもの店が軒を連ねている。
晴れ渡った空。おだやかな陽気。散歩にはちょうどいい日だった。
「ああ、そうだな……嘘みたいにいい天気だ」
暗い声で答えるのはこの王国の第三王子エスインダル。
艶やかに流れる美しい金の髪に、気品ある佇まい。身に纏うのは金糸と細やかな刺繍で彩られた優雅で華美な装いは、一国の王子に相応しいものだ。
その口元には穏やかな笑みを浮かべている。それなのに、その瞳はどこか暗い陰が差していた。
イラウサージュ王国は、この大陸の中でも魔物の発生が多い。王国はこれまで何度も異世界から聖女を召喚し、その苦境を乗り越えてきた。
聖女カシナは異世界「ニホン」から召喚された。その浄化の力は王国史上最強と評されている。そしてこの王都に、かつてない絶対の平穏をもたらしたのだ。
「この通りってこんなに広かったんですね!」
聖女カシナは両手を広げてくるりと回った。狭い通りなら迷惑になりそうな振舞いも、この大通りではちっぽけなものだった。
近隣でも最大規模の繁栄を誇るイラウサージュ王国。王都の大通りの道幅は広く、四頭立ての馬車が5台並んでも余裕があるあるほどだ。
その広い大通りは閑散としていた。聖女と王子の二人しかいない。人通りが全くない。軒を連ねる店に店員の姿すら見えない。周囲の家の窓から誰かの顔が覗くことすらない。完全な無人だった。
普段なら多くの人々が行きかい、それを目当てにした商店の呼び込みの声で喧騒が絶えない場所だ。昼下がりの一番人通りのあるはずなのに、今は静寂がこの大通りを支配していた。
「この通りにはどういう由来があるんですか?」
聖女カシナの問いかけに、エスインダル王子は微笑んだ。どこか力のない、寂し気な微笑みだった。
「この大通りはイラウサージュ王国初代国王が王都を築いたときに初めに敷いた道と言われている。歴代の王たちもみなこの通りの整備には気を使っている。聖女が多大な戦果を挙げた時は、いつもこの通りでパレードをするんだ」
「なるほど。わたしもここでパレードしていたかもしれないんですね!」
つい一週間ほど前のこと。聖女カシナはその強大な浄化の力で大規模な魔物の群れを殲滅したばかりだ。もし戦勝パレードをしていたら、広い大通りを人が埋め尽くし、聖女をたたえる喝采が響き渡ったことだろう。
しかしこの大通りには彼女を迎える者はいない。聖女と王子以外に声を発する者もいない。ただ静かな平穏だけが、大通りを満たしていた。
大通りを抜けてやってきたのは大劇場だ。二人はその中に入っていった。観客を迎える事務員はいなかった。だが、劇場内の明かりはともっていた。
王国でも最大の規模の劇場は、千人の収容人数を誇る。整然と並ぶ客席に、しかし人影はひとつもない。舞台は幕が下りたままで公演の始まる気配もまるでない。
聖女カシナはそんな状況を気にした様子もなく、無人の劇場へと足を踏み入れた。
「こういのも趣があっていいですね……」
物珍し気にあちこちをまわり、客席に見て回ったり、舞台に上がって幕をひらひらとさせていた。
エスインダル王子は入り口に立ったまま、子供のようにはしゃぐ彼女をじっと眺めていた。
「エスインダル王子、この劇場には何か面白い歴史があるんですかー!?」
聖女カシナは舞台の上からエスインダル王子に向けて、大声で問いかけた。もともと舞台からの声がよく届くように設計された劇場だ。誰もいないこともあって、その声はよく響いた。
王子は苦笑しながら劇場の最前列まで行くと、舞台の上の聖女カシナに語りかけた。
「この劇場は今からおよそ100年前に建てられた。初めての公演では、聖女ネナミが歌ったそうだ」
「聖女が歌ったんですか?」
「ああそうだ。聖女ネナミは君と同じように『ニホン』から召喚された。『ニホン』にいた頃は『アイドル』という歌い手を目指していたそうだ。その甘くかわいらしい歌声は、観客全てを魅了したと伝わっている」
「素敵な話ですね……」
聖女カシナは感嘆のため息を吐いた。
全ての客席が埋まり、観客たちは聖女の歌声に耳を傾ける。きっとそれはさぞや華やかで素晴らしい光景だったのだろう。
しかし今、ここには二人しかいない。華やかさはどこにもなく、ただただ静かだった。
次に二人が訪れたのは美術館だ。王国の誇る文化を集めた場所だ。
会場は色とりどりの絵画に、美しい彫刻がいくつも並んでいる。聖女カシナは絢爛な美術品の数々を眺めながら歩いていく。その歩みが止まることはない。ひとつひとつの美術品にはさほど興味がないようだった。ただ退屈している様子はない。無人の館内を歩くこと自体を楽しんでいるようだった。王子はそのあとについていく。こちらは美術品に目を向けず、聖女カシナのことだけを見つめていた。
聖女カシナの足が、不意に止まった。
「なんですかこれ?」
それは動物をかたどった木彫りの像だった。石像が大半のこの美術館ではそれだけで目立つが、何より異彩を放っているのはその姿だ。
ゆるいS字を描く長い首。V字形に広げた見事な翼。長く細い優美な足。
鶴だ。このイラウサージュ王国には存在しないはずの鳥の木像だった。
「それは200年前の聖女コノミが彫ったものだ。彼女は『ニホン』にいたころは木彫りの彫刻家を目指していたそうだ」
「きっと才能のある人だったんでしょうね……」
木彫りの鶴は今にも飛び立ちそうな躍動感があった。この世界では見ることのできない鳥を、ここまで生き生きとした姿に彫り上げるのは簡単なことではない。聖女コノミは確かな技術と豊かな感性を持っていたのだろう。
200年の間、多くの人々がこの美術館を訪れ、この見事な木像を称賛していたことだろう。
しかし今、この木像を眺めるのは聖女カシナとエスインダル王子の二人だけだった。
そろそろ夕日が沈もうとしていた。
王都を散策する二人はひろびろとした公園を訪れていた。ここは王都の人々の憩いの場として王家主導で作りあげた王立公園だ。
入園に身分の制限はなく、主に平民たちが利用するのどかな場所だった。貴族がお忍びで訪れることも多かった。こうした公園を作る余裕があるほどに王国は豊かだった。
いつもなら人々が思い思いに過ごすのどかな場所だが、今日は誰一人としていなかった。公園に設けられたベンチも、噴水の周りにも、人影一つ見られなかった。
「前から気になっていたんですけど、この公園の木も聖女がらみだそうですね」
公園の中央に差し掛かった時、聖女カシナは問いかけた。そこには見事な枝ぶりの大木があった。
「あれは150年ほど前の聖女キョウコが植えたものだ。彼女は『ニホン』にいたころ、自然環境を保護する活動をしていたそうだ。王都の発展にばかりとらわれず、自然の癒しを忘れないで欲しい……そんな願いを込めて聖女自らが植えたのがこの木だそうだ。平民たちの間では、『この木が元気でいる限り王国は繁栄する』などと噂されていると聞く」
樹齢150年とは思えないほど青々としている。この王都は近年目覚ましい発展を遂げている。平民たちがそんな噂を口にするのも無理はないことだった。
「それにしても……この王都にはどこもかしこも聖女の伝説が残っているんですね……」
聖女カシナは感心と呆れの入り混じったため息を吐いた。
その言葉を受けて、エスインダル王子はなぜ顔を伏せた。
「ああそうだ。この王国は聖女の存在によって支えられてきた。王国は召喚した聖女を大切にしてきた。人々はみな、聖女を愛していた。それがっ……! それがまさか、こんなことになるなんて……!」
エスインダル王子は両手で顔を覆い震えた。ひどく頼りなく悲しげな姿だった。
そんな王子の姿を、聖女カシナはじっと見つけた。その目には労わりの気持ちは感じられない。置物の配置を変えた水槽で、魚がどう泳ぐかを観察するような目だった。
「すまない、情けない姿を見せてしまったな」
王子はしばらくすると顔を上げた。先ほど見せた気弱さなどない穏やかな顔だった。
「日も落ちてきた。城に戻らないか? 晩餐の用意をしてあるんだ」
そう言って王子の促す先。公園の出入り口には四頭立ての立派な馬車が止まっていた。
馬車に揺られて二人は王城に行った。城に入るとずらりと並ぶ使用人たちが恭しく頭を下げた。
そして二人は執事長に迎えられ、王家専用のダイニングルームへと導かれた。二人が席に着くと飲み物が運ばれてきた。晩餐の席につくのは二人だけのようだった。
そして次々と料理が運ばれてきた。旬の野菜を使った上品で色鮮やかなオードブル。濃厚で上品なスープ。上質で柔らかな肉料理。瑞々しく身の締まった魚料理。どれも王族のダイニングルームに出すのにふさわしい上品で高級な料理だった。
王子はもちろんのこと、聖女もまたテーブルマナーは心得ていた。二人は上品かつ穏やかに、豪勢な食事を楽しんだ。
料理のコースも一通り終わった頃。王子は楽し気な笑みを浮かべて聖女カシナに向けて口を開いた。
「君のためにとっておきのデザートを用意してあるんだ」
「あら、なにがあるんでしょうか?」
聖女カシナが小首を傾げた。
その途端、彼女の足元から眩い光が立ち上った。聖女カシナが足元を見ると、そこには光を放つ魔法陣があった。普通の魔法とは思えない精緻にして複雑な様式の魔法陣だった。
「エスインダル王子、これは一体……?」
「強制帰還の魔法陣だ。君を聖女としてよくやってくれた。だからその褒美として、元の世界に返してあげようと思うんだ」
そこまで言ったところで、エスインダル王子の表情が崩れた。いままでの穏やかな笑顔は消え失せた。眉は逆立ち、目は歪み、口元はひくついていた。底知れない恐怖と怒りと絶望がその顔を占めていた。
「よくやってくれた……本当に、よくもやってくれたな、聖女カシナ! いいや、なにが聖女なものか! 貴様のような邪悪なバケモノは、とっとと元の世界に帰ってしまえ!」
罵詈雑言を叩きつけられ、聖女カシナはやれやれと肩をすくめた。酷い言葉に傷ついた様子はない。なぜなら王子の怒りは正当なものであり、この糾弾も当然なものだと、彼女自身も理解していた。
聖女カシナのやったことは、それほどのことだったのだ。