おかえり ぱびゃこ
「やっとお姉ちゃんをなぐさめてくれましたね」
視界不良。泡ぶくの中、子供の声がした。まだ未成年者の女の声色。
「お姉ちゃん。ずっと待ってたんです」
黒髪が水中を漂う。目を凝らそうとも全容がつかめない。
柄になく肺に水がなだれ込む。溺れる。
そうか、これが溺れる感覚なのか。底があるはずの川が、深い海の如く下へ引きずり込む。
無意味名 パビャ子はもがきながらも冷たい手に掴まった。
死人の手。
優しい手。
「私はまだ、こちら側にいます。お姉ちゃんがあっちに行けるまで」
「アナタ、誰──」
我に返ると砂利の上に横たわり、川の冷たさに身を任せていた。パビャ子は誰、と口にしてみて、分かった気がした。
妹。
八重岳 イヨ子の妹。
彼女はまだ姉を見守っている。そうしてイヨ子はまだあの時間に囚われているのだろう。
──終わってしまった。わたし、終わっちゃったんだ。
「やっほ。パビャ子だよ!」
「ぱ、パビャ子さん!」
「ん?これ。どうするつもりなの?」
ニコッと明るい笑顔を作り、リクルートスーツをきた女性は遺体を見下ろした。「あ…えっと、衝動的に」
「ならさ、私に任せてよ。それにさ──」
血にまみれた手を握り、その先にある巻かれた赤い布を見やった。金色の瞳を半月に細めて。
「つけてくれてくれたんだ。嬉しいなっ」
無邪気な笑みになんと言っていいか、口をつぐんだ。「パビャ子さんのファンですから」
ファンですから。イヨ子は頬を赤らめて、そう言い放つ。
「憧れ…」
パビャ子というこの世の者でない部類に憧れたが故に、狂った業を手にした少女。
夜明け前の透き通った青い世界でせせらぎと夏の鳥が鳴いている。
苦くて冷たい、憧れという毒々しい言葉の味。
「おいしくないなァ…」
「パビャ子!どこいってやがったんだ!一日中探したんだぞ!?」
アパートのドアを開けると、髪やスーツを乱したラファティが慌てた様子で問い詰めてきた。
「はあ、この世から気配が消えたとか言うから、本当に死んじゃったのかと」
乎代子もわずかに眉を下げ、軽々と言ってのけたが衣服に泥がついているのに気がついていない。
「パ、パ」
クスが寄ってきて、こちらを見あげてきた。ふいにイヨ子の妹の黒髪が水をたゆたう景色がよみがえる。
──お姉ちゃん、元気にやってますか。
拒絶した。彼女の無条件の心配を。
「そうですよね。貴方に殺されたようなものですから」
パビャ子に殴りかかってもよかったのに。
彼女の薄ら笑いを無下にした。
「みいなちゃん」
──…八重岳 美伊奈といいます。八重岳 イヨ子の妹でした。
本当に心当たりがない。何月何日で何年かも、人の名前もロクに覚えてこなかったせいで、彼女がいう人物の顔を思い出せない。
──良いですよ。お姉ちゃんがあちら側で元気にやれているなら。
「ごめんね…」
妹を蔑ろにしてきたのは、こちらだったのか。
クスを抱きしめ、血の通わない体温を感じ取る。彼女はわずかに驚いたようだが、ニコリと笑った。
「パ!」
「みいなちゃんって誰…?」
乎代子が怪訝そうに問うてくる。だが、茶髪オンナはいつも通りにふざけた態度ではぐらかし、抱き上げたままご飯をねだった。