きょうき と のすたるじい
「…償い?乎代子が?」
至愚は頷き、犬の死骸を鉤爪で指さした。
「パビャ子。此岸の生き物はこうなったら同じ人物ではない。違う存在になるんだ。クスはイヨ子の妹にはなれないよ」
「…ねえ、至愚。乎代子からイヨ子の記憶を消してよ」
茶髪オンナの瞳からいつもの能天気さが消えた。
「だって乎代子はこうなったんでしょ?じゃあ、イヨ子じゃないじゃん。だから別人にしてよ!パビャ子しか知らない人にしてよ!」
「パビャ子!それは禁忌だ」
「ヤダヤダっ!乎代子に妹なんていらないっ!元の乎代子に戻してよお!」
しかし至愚は首を縦に振りはしない。冷淡な顔つきで跳ね除けるだけだ。
「なんで、なんでなんで──」
この場から逃げるように、走りだしわんわん泣いた。人目もはばからず涙を流し、拭いもせず駆ける。
気がつけば市を横断する川岸にきていた。
「サイテー、サイテーサイテーサイテー」
ブツクサと吐き出し、向こう側から人の声がするのに気づいた。川面の薄らとした光とザアザアと雑草を揺らす風の合間から。
「パビャ子さんっ!」
嬉しさに駆け寄り、『彼女』の変わりなさに内心安堵する。
「どこいってたんですか?!」
「秘密」はぐらかされ、『リクルートスーツの女性』が歩くのを眺める。
(あの人たち、何者?私に似てるのがいる)
パビャ子と呼ばれた色素の薄い茶髪の彼女は落ち着いている。混乱している頭の隅で、後ろを着いていくのは八重岳 イヨ子だと確信した。
「あそこら辺に座ろうよ」
土手に設けられた階段を指さし、二人は座り込んだ。久しく二人きりだ。
「失望した?」
世間話のように、彼女は開口一番にそんな言葉を吐いた。
「騙して、弄ばれたら普通は嫌いになるよね?私はね、イヨ子ちゃんを利用していたんだ〜。最初から!気づかなかった?チョロすぎて途中から可哀想になっちゃった」
「何も思わないです。嫌いにもならないですし」とイヨ子は答えて水面を眺める。キラキラと反射する光が長閑で気持ちと剥離していた。
「へー、ドライな性格してるね」
「今更感満載な言い方やめてください」
「知ってるよ。イヨ子ちゃんが強がってるの。怖いでしょ。私が」
否定はせず、ため息をついた。しかしパビャ子は同じく水面と野鳥を穏やかに眺め、静かに語り出した。
「…彼岸なんてものはないんだよ。人間が作り出した、偽の世界。この世の者でない部類も、人間が作り出した偽物。偽物がまかり通る世の中。それが人の世界。『なきさわめのかみ』になっても、プラスにならない。虚無で意味のない、悲しい世界。それがこの星」
無意味名 パビャ子はそれをただ涙を伝わせながらしかと焼き付けていた。
あれは二人の約束なのか。
「──あの、私を…生贄にするのなら…この世から八重岳 イヨ子の存在を消して貰えませんか?」
「取引をする気?」
「パビャ子さんの記憶からも消し去ってほしいんです」
「酔狂だねえ」
自分は元からこの世に未練がなかった。だから、最後に『儀式』をする。そうしたら生贄になれる。
「私はパビャ子さんのファンでした。憧れるって時に狂気になりますね」
熱くなる目頭を堪え、イヨ子は告げる。
それを聴いたパビャ子はただ薄らと目を細め、笑うだけだった。
「あー…、そういうの。気持ち悪い」
「気持ち悪いって言うなっ!気持ち悪いなんて!」
ザブザブと川に飛び込んで、向こう岸の『パビャ子』に怒鳴る。二人は面食らった様子でこちらに気づいた。
「私は肯定するよっ!イヨ子ちゃんがその人に憧れてたの!好きだったの!命を捧げてまで、憧れるのは気持ち悪い事じゃないっ!」
八重岳 イヨ子の曇っていた瞳が煌めき、一筋の光を零した気がした。
パビャ子は足を滑らせて、川の深い場所に呑まれる。ザブリと視界が水におおわれる。