会社に出た幽霊
「うおっ!」
「きゃあ!」
「マジか……」
「だ、誰かなんとかしたまえ!」
「怖い……」
始業時刻、オフィス内に飛び交う声に彼は眉を顰めた。
同僚たちが騒いでいる理由はただ一つ。それは、彼に近づいた一人の先輩の口から語られた。
「お、おい……あそこに、幽霊がいるぞ……」
「あ、そうですか」
「いや、リアクションうすっ!」
オフィスの隅。同僚たちが一点に見つめるそれは紛れもなく幽霊であった。おそらくは髪の長い女であり、全身が溶けているように醜く、見た者の不快感を煽るものだった。
「お前さぁ、もっと他に反応はないわけ? 怖いだろ?」
「別に……。ゴキブリが出たみたいな感じでしょう」
「全然違うわ! マジだぞ! マジモンの幽霊だって!」
「はい……」
「いや、テンション低っ! お前が幽霊かーいって!」
「おぉ、ははは……」
「笑うならもっと大きく笑えよな。はぁ、お前、そういうところあるよなぁ。斜に構えてるというか、飲み会もほとんど来ないよなぁ。おれの指導が悪いとか言われて、ちょっと肩身狭いんだぞ」
「あ、それは……すみません……」
「いや、今度は重い! なんだよ、そのリアクションはよぉ……。てか、あれだな、お前、今日はいつにもまして暗いな。なんかあったのか?」
「いや、まあ……」
「いや、聞かねえよ!? 本物の幽霊を前にしたら、そんなことどうでもいいって! お前の暗い話はあとだ、あと! ほら、お前、もっと近くに見に行けよ!」
「いや、僕はいいです」
「いいから来いって! 来いよ! ん? お前、その段ボール、何してんの?」
「ん、私物を入れてます」
「いや、それは見ればわかる。なんでって聞いてんだよ」
「辞めるからです」
「辞める!? この会社を!?」
「はい。それでは……」
「いやいやいや、ちょっと、え、なんで急に!?」
「おい、君たちは何を騒いでいるんだ! 今はあの幽霊をどうするかみんなで考えるときだろ! ほら、なんか膨らんできてるんだぞ!」
「いやいや、部長。こいつ、いきなり会社を辞めるとか言い出したんですよ」
「は? 辞める? なんで?」
「いや、まあ、ちょっと」
「大体、今それどころじゃないだろ。お前ってほんと空気読めないよなぁ。ねえ、部長」
「まあねぇ。君は以前からそういうところがあったな」
「いや、もともと今日あたりに辞めるつもりだったので」
「いやいや、こっちが予定を被らせたみたいに言うけどさ」
「君、自分の都合を優先させすぎじゃないか? 急に辞められるとみんなが困るじゃないか」
「部長には以前からお伝えしていたんですけど……」
「え、そうなんすか?」
「あー、知らん」
「いや、なんにせよ、今は幽霊だろ!」
「もそも幽霊なんて見てもそんなにテンション上がらないでしょう」
「いや、そうだけど! 状況が状況だろ!」
「そうだよ、君は会社というものが一つの生き物だということを理解していないんだよ」
「はぁ……」
「そうそう、全員で同じものを見るって、うおぉぉ、あの幽霊、触手みたいなのを伸ばし始めたぞ!」
「ほう、凄まじいな。八千二百といったところか……」
「え、なんの数値っすか?」
「ちょっと言ってみたかっただけ」
「ははは! 部長! はははははは! いや、お前も笑えよ!」
「ええと、じゃあ片付いたので、それでは失礼します」
「自由かよ。おい、待てって。ほら見てみろよ、いや、やべぇ! 課長が捕まったぞ!」
「食われたな。うん」
「へぇー、じゃあ」
「いやいや、行こうとするなよ! なあ、お前さ、実は……」
「え?」
「幽霊が見えてないんじゃないか? それで不貞腐れてるんだろう。自分だけどうしてーって、ガキだなぁ」
「ははは、君はそういうところがあったよなぁ」
「……見えていますよ」
「ん?」
「幽霊。見えていますよ。さっきからずっと」
「ほー、じゃあ、今どんな姿してるか言ってみろよ。いや、やべえぞほんとに」
「スーツを着てます」
「はぁ? 全然違うっての! 牙がすげーんだから。うおっ! 社長が食われた!」
「おー、こりゃ昇進確定かな。はははははは!」
「ちょっとぉー、ぶちょー、それはさすがに……いいっすね!」
「だろ! はははははは!」
「嫌いな先輩や上司の姿をしています」
「……は?」
「先輩たち……みんな死んでいるんですよ。社内旅行中の事故で……僕は行くのが嫌だったので病気だって言って、家でゲームしてたから助かったんです。それで、私物を取りに来たらこんな状況で驚いて、少しビビってます。……だから、みんなが見ている幽霊は見えてませんけど、その、お気の毒です……」
「そんな、嘘だろ……」
「ショックですよね……」
「嫌いな先輩ってなんだよ」
「え、そっち!?」
「てめぇ、おれがどんだけ世話焼いてやったと思ってんだよ! おぉん!?」
「いや、それどころじゃないと思いますけど……。先輩、幽霊なんですよ? 死んじゃったんですよ?」
「君、大事な社内旅行を仮病で休んだのか」
「だからそっち!? 部長たち、全員死んでるんですよ!? 一大事でしょ!」
「そんなもん、ゴキブリが出た程度の話だろう」
「それ、僕が言ったやつですよ!」
「今はおれが後輩に嫌われていたかもしれないって話が一番重要だろうが!」
「どう考えても幽霊のほうが一大事でしょうが! あと、かもしれないってなんですか! 前から嫌いでしたよ! パワハラの権化!」
「私のことは好きだよね? さっき、『嫌いな先輩』や上司の姿をしてますって言ったもんね」
「部長も嫌いでしたよ! てか、全員嫌いでしたよ! だからこの会社をやめようと思ってたんですよ! 幽霊になってもそういうところがもう全然変わってないし、いや、むしろ酷くなってる気がする。死んだからかな……」
「……知ってたよ」
「え? ああ、嫌われていた自覚あったんですね。なおさら性質が悪いな……」
「いや、おれらが幽霊だってこと」
「え……? 知っていたんですか? その、ご自分が死んでいることを」
「ああ」
「それは……ん? じゃあ、どうしてすぐにそう言わなかったんですか? 幽霊が出たとか騒いでいたのも嘘なんでしょ?」
「お前を引き留めたかったんだよ」
「あ、そうだったんですか……それはその、すみません、ちゃんと向き合ってなくて。あ、今までも、その、飲み会とか行かなくてすみませんでした……」
「もういいんだ……もういい」
「先輩……」
「もう、足止めは十分したから」
「……はい?」
「そうだとも、ご、ご、ごばぁぁ!」
「部長!? え、消えて、成仏した……?」
「食われたのさ。いや、食わせたのさ。さっきから話していた幽霊にな」
「え、本当にいるんですか、その幽霊って。それに、なんでそんなことを……」
「ははは、部長が言ってたろ? 会社は一つの生命体だってさぁ、あぁぁ、あぁぁ」
先輩はそう言うとフッと姿を消した。部長同様に消える間際のその恐ろしい形相は彼に悪寒を走らせ、さらに彼は頭痛、吐き気、目眩など体に様々な異常に見舞われた。彼は抱えていた段ボール箱を床に落とした。そして、オフィスを出て、ゆっくりと屋上へと向かった。なぜか死にたくなったのだ。