おいしいごはんがない
新しい朝が来たけど希望の朝ではない。とりあえず歩くことにした。今、追われています。
ハイ目が覚めたらベッドの中でした。とかそんな都合のいいことは勿論なく、頭上には綺麗な青空が広がっていた。
薄々感じてはいたが、この近辺の空気はすごく澄んでいる。昨日の夜も見たことないくらいの星空が広がっていた気がするし、嗅ぎなれた排ガスの臭いも、飲食街の朝に広がる何とは言わないが、ハチャメチャに臭いアレも存在しない。
「ア〜〜、これで美味しい飯があればなぁ」
完璧とまでは言わないが、結構いい線行けたと思うのだ。まあ、昨日の夜空を呑気に眺められるほど図太い神経はしていないのだが。
適当に敷き詰めた落ち葉の上に寝袋を置いて作った寝床は、お世辞にもいい寝心地ではなかった。それでもそこそこに休息が取れたのは、何故か鞄の中に入っていた寝袋のおかげだろう。なお、寝袋は教材が詰め込まれたトートバッグに入るほどかわいいサイズではない。
どう考えても質量保存の法則を無視した鞄に好奇心が擽られないこともないが、どちらかと言うと恐怖の方が勝る。人智範囲をそう簡単に何度も超えないでほしいのだ。
森に放り出された前後の記憶といい、森の植生といい、既に不安しかないわけで。そこに現代技術の追いついていない鞄とか、おかしな現実を畳み掛けなくていいからそっとしておいてほしかった。
「帰りてぇ……」
そう簡単に帰れたら苦労しないのだが、口に出すのは許してほしい。レポートの提出とか出席日数とか心配で仕方がないのだ。
おいしいごはんも食べられなければ雨風凌げる場所もない。ついでに成績もヤバい。
教授とはいつの時代も変わり者しかいないので、1回の無断欠席で大幅減点してくる事だってある。既に卒業が危うかもしれない事実で涙目だ。
寝袋を畳み、適当に火を消して簡易濾過装置を確認する。夜中もちょこちょこ起きては継ぎ足してを繰り返したので、500mlのペットボトルにしっかりと水が溜まっていた。ホッと息を吐きつつ、中身の石なんかは重たいので全部ひっくり返して捨てていく。
火事になると怖いので火もしっかりと消し、よっこいせと立ち上がった。
「これレポートにして提出したら評定上がんねぇかな」
鞄がリュックサックならまだ良いが、山道でトートバッグは舐め腐っている。登山玄人の人に見つかったら絶対怒られる格好をしているので、ちょっと憂鬱だ。それでも生きて樹海を脱出するには歩くしかない。
せめて道を見つけ出さなければ自力で救助も呼べないし、湖から続く川辺りに沿って進むことにした。筈だった。
もちろん序盤はそこそこいいペースで進めていたし、時々見かけるちょっと種類がわからない鳥をウォッチングしたり結構呑気していたと思う。食べ物は食べていないが水は飲んだし、食べられそうな木の実も幾らか見繕った。
そのせいで荷物は増えたものの、トートバッグの重みはあまり変わらない。むしろ教材が入っている割にめちゃくちゃ軽いので底に穴が空いていないか確認してしまったくらいだ。
おかげで今、重さを気にせずにめちゃくちゃ走れているのだが。
「なァんでこうなんだよッ!」
背後から聞こえる足音と草を掻き分ける音、それから、めちゃくちゃ荒い息遣い。
こちとらぺーぺーの平成生まれ。高校時代に運動部には入ったものの大学に入って体力が落ちた典型例だ。つまり何が言いたいかというとすでに息が切れて死にそう。
ザクザクと道なき道を踏み分けて走るものの、一向に人とはすれ違わないままだ。そのくせ、どういう訳か今俺はよくわからない生き物に追い掛け回されている。
歩いているのなら簡単に避けられる草木さえまともに避けられない。時折、何か棘や尖った葉、朽ちた木に引っかかってはそこかしこに小さな切り傷を作ってしまっている。
激痛こそ走らないものの、鈍い痛みはストレスになるし、注意力を削り取っていく。聞こえる荒い息が自分のものか追いかけてきている生き物のものなのか判別も出来なくなり始めていた。
それでも逃げ続けているのは恐怖心からであるし、死にたくないからだ。何が良くて野犬に食い殺されなければならない。と言うか野犬じゃない。
落とさないよう鞄を抱き込み、後ろから聞こえてくる鳴き声に「ヒィッ」と声を上げる。だって。だって仕方がないだろ。
「ギアァ゛ア゛ッ!!」
犬って、こんな鳴き方しないはずだ。こう、可愛く「ワンワンッ」って感じで鳴くよな。なんて意識の端で現実逃避をしつつも動かす足を止めることはない。
「ッ、は…あ……っ!も、しぬッ」
喉がヒューヒューと掠れた音を出し始めている。あふれる汗が肌にまとわり付いて気持ち悪い。もう随分と走っているはずなのに、人っ子1人出会えていない事実に絶望しそうだ。
ギョアギョア鳴く犬さえ居なければ今頃ゆっくり一休みしていたのに。そんな事を考えていたのがいけなかったのだろうか。
とうの昔に限界を迎えていた足がもつれ、そのまま前のめりに体が倒れる。慌てて体勢を立て直すものの、うまく行くはずがない。
数度たたらを踏み、俺の体は地面へと転がった。
鞄を抱えたままでは上手く受け身も取れない。草木の中に顔面からダイブしてしまったし、おかげで色んなところを強打した。
鳴き声から既に犬とは遠く離れているそれ、今まさに俺を餌と見定めて近づいてきているそいつを見る。
怖いもの見たさなのか、自分を殺すやつをひと目見ておこうと思ったのか、答えはわからない。思考は上手くまとまらないし、自分でさえもどうして振り向いてしまったのかわからなかった。完全にミスだ。
地についた4本の足に体を覆う短い毛。鋭い牙。大きな耳と尻尾。そのどれもが記憶の中の犬と目の前の存在を結びつける。けれど、決して同じではないと理解してしまっていた。理解できてしまった。理解せざるを得なかった。
頭の中で絶体絶命のBGMが鳴り響いている。卓を囲んでいた友人がこういう時に嬉々として流す曲があったな、なんて今思い出したところでなんの役にも立たないのに。
体を覆う毛は人口着色とは思えないほど深く青い。足先からは鋭い牙と同じくらい鋭利な爪が覗いている。瞳は赤く、獲物が逃げないようにと、こちらを捉えたまま逸らされることはない。
なんとなく、なんとなくではあるが、目の前の野犬が俺で遊んでいたのだろうと思い至った。
何故か?狩りをする生き物は人間よりも遥かに優れた身体能力を有しているからだ。というか普通の犬がランニングする人間の先を悠々と走って行くのに、ほぼ同じ形をした生き物が犬以下なわけがない。
自分よりも劣っている存在だと理解した上で今の今まで泳がせていたわけだ。これを遊んでいると言わずになんと呼ぶ。
「だ、誰か…ッ!くそ!くそ!ぁあ、助けッ」
ヒュ、ヒュ、と喉が嫌な音を立てる。きっと過呼吸をおこしているんだ。上手く酸素が回っていないのがわかる。思考は定まらないし、会話ができる存在など居ないとわかった上でなおも口からは言葉が溢れ続けてしまう。
「ッひ、いやいやマジで俺なんて食べても美味しくないと思うんだよホラ人間って雑食じゃん。ホモサピエンスは肉も草も食うから美味しくないの。な?頼むこっち来んな。来んなつってんだろクソ!!!」
苦し紛れにそこら辺の草をちぎってぶん投げた。自分が何をしたいのかわからなくなって、でも死にたくなくて泣きそう。正気度はガンガン減っている。
青いわんこなんてめちゃくちゃサイコーの見た目をしているのに。フィクションなら許せても現実で許せるかと言われるとそうじゃないんだ。今知った事実はもっとあとに知りたかった。具体的には大往生して死ぬ前くらいに。
グルグルと喉を鳴らしながら近づいてくるそいつが大きな口を開ける。真正面からちゃんと見て居なかったので気づかなかったが、真っ赤な舌は蛇のように先が別れていた。なんに使うんだそれ。
ここで死んだらレポートも無くなるし奨学金も返さなくていい。だって死んだらそこまでだ。連帯保証人になってくれた親戚の顔が思い浮かぶことはないけど、その人に迷惑はかけなくて済みそうでちょっと安心かもしれない。
近づいて来たそいつの体は思ったよりも大きくて、2本足で立ったら恐らく俺と同じか、それよりも上だろう。それでも、1回の食事で俺の体がそいつの胃に収まりきるようには思えない。
これは楽に死ねない可能性がある。どこから食われるんだろうか、腹か、足か、腕か、頭かもしれない。ひと思いに殺してほしい。頼むから楽に死なせてくれ。そう思いながらギュウと目を瞑った。
呼吸音が耳の近くで聞こえる。
髪の毛に鼻先を当て、クンクンと匂いを嗅いでいるようだ。もしかしたらお眼鏡に叶わず放って置かれるかもしれない。僅かに出てきた希望に縋るのは当たり前のことだろう。
けれど、いつまで経ってもそいつが側を離れる気配はない上、感じるはずの激痛さえ襲っては来なかった。代わりにべろりと頬を舐められる。それから数度周りをうろつかれて、そのままどうやら座り込んでしまったようだ。
「んェ……?」
頭の上でははてなマークが飛んでいる自覚があるし、実際何が起こっているのかわからない。恐る恐る目を開くと、真っ赤な赤い瞳と目があった。
「ヒョオッ!?!?」
どうやら食べるつもりは本当にないらしい。目があったことに満足したのか、そいつは視線を逸らすとそのまま俺の膝の上へ顎を乗せた。
人の膝を勝手に肘置きにしたそいつをしげしげと見遣る。こちらから触るのは若干どころじゃなく怖いが、見るくらいなら別に危なくないのでセーフ。
「犬というか、青い……オオカミ?」
「グルゥ」
目の前の存在が犬とオオカミの違いを理解できているのかはよくわからないが、応えるように喉を鳴らされたので、ニュアンスだけは伝わったのだと思う。想定よりもめちゃくちゃ頭がいい。
しかし、ここまで友好的だと今まで走って逃げていた意味が一切わからなくなる。いやでもどう考えても肉食っぽい未知の色をした生き物に追いかけられたら逃げるだろう。俺は悪くない。
今は何時くらいなのだろうか。犬改めオオカミから追いかけ回され始めたのが丁度太陽が真上に登ったくらいだったはずだ。それから随分と走った気もするけれど、そこまで太陽の位置は変わっていないようにも思える。
朝は食べていないし、昼も食べられそうなものは見つけないまま先程まで追いかけ回されていた。おかげでやけにお腹が空いている。でも、食べ慣れた味である携帯食は可能な限り取っておきたい。
人間はストレスで死ぬから、なるべくならストレス限界値直前で回復アイテムとして使用したいところ。あと今後食べ物が数日見つからなかった場合の非常食でもある。
問題はお腹がなりそうだということだ。俺の腹の虫くんは結構主張が激しい。この前も腹減り過ぎて実習で作った味噌使ってチンするだけのご飯を焼きおにぎりにした。3限が休講になっていなければできない所業だったと思う。
とりあえず目下の課題はでかいオオカミを膝から退かすこと、それから食べられるものを見つけることだ。生で食べれるものがあることを祈っておこう。
「腹、減ったなぁ」
ぐう、と腹の虫が鳴き始めた。
一人称視点って難しいですね。