チャレンジ
その翌日に放課後は、いつも通り校庭での学年練習から始まることになっていた。
おかげ様、いつもなら一切乗り気がない校庭練習だったが、開始予定よりも少しだけ早く、僕は校庭に出向いた。
校庭に出向くと、そこにいたのはチューバの少女。たった数日ですっかりと僕を叱ることに慣れた、そんな人だった。
「……早いじゃない」
「……まあ」
正直、彼女の名前は未だ知らないが……少しだけ畏怖するような気持ちが芽生え始めていた。生意気な僕に対して、一切臆せず毎日飽きることなく怒る彼女に、僕はすっかり委縮していた。
「言っておくけど、少し早く来てやる気らしきものを見せたって駄目よ」
僕の気持ちから邪念でも感じたのか、彼女は言った。
「来週末にはイベントなんだから。なあなあにしておく時間はないの。だから目に付いたらまた起こるから。覚悟してよね」
「……ねえ、一ついい?」
彼女の要求にさほど興味はなく、僕はいつもより数グラム重めの口を開けた。
「何よ」
彼女の瞳は、冷たかった。
「君、チューバの人だよね」
「……そうね」
「どうして、ダンス練習にそんなに熱を出すの? 君はコンクールメンバーだろう」
「コンクールメンバーだから何よ。任された仕事をこなす。それはとても大切なことじゃない」
「……ふうん」
任されたことをこなす。
僕はいつか、このダンス練習を民主制により無理やり決められたことで嫌気が差していたが……当時、この学年演奏のリーダーを決める時の風景を思い出すと……彼女が、他薦によりその役割に就いたことに気付いた。
彼女の仕事も、また民主制度に則った無理やりのもの。
なのに、彼女は弱音を一つも吐かず……僕に嫌われるのも恐れず、ぶつかり続けてくれていたわけ、か。
強い人だ、彼女は。
嶋田先輩にチャレンジしてみろと言われた。
夏菜さんに振り向いてもらうため、多分それは必要なことなんだろう。僕が、やらねばならないことなのだろう。
でも、どんなことをすればいい。
僕はどんなチャレンジをすればいい。
昨晩からずっと悩んでいた。
ただ答えは、多分思っていたよりも呆気ない。悩んでみて、本当にそう思った。
多分それは、嫌なことから逃げないこと。
それが僕がすべきチャレンジであり、多分それはとても呆気ないことだった。
「……あの、その」
ただ、唯一難解なことが一つある。
それはこの前までの態度を翻すこと。いきなりやる気を出し、その態度を可笑しいと笑われることだった。
人間の醜悪さに、僕は何度も痛い目に遭わされてきたから。
だから、自分から弱みを見せるだなんて……恥ずかしいし、望まない。
しかし、しなければならないのだろう。僕は恥ずかしさから口ごもり、俯いて、目を離していた。
「何よ。さっさと言いなさいよ」
口ごもっていると、彼女に怒られた。
「……だ、ダンス教えてよ」
意を決して、僕は言った。
急激に喉の奥の水分がなくなっていくような感覚に襲われた。僕は今、照れとか恥ずかしさとかそういう感覚を抱いていた。
チャレンジすること。
嫌なことから逃げず、チャレンジすること。
ダンス、勉強、人付き合い。
多分、今の僕にとって一番難解なことは人付き合いだろう。悪魔との対面とさえ思い、最早修行だとも考えている、他者との付き合いだろう。
自信を持てる気はあまりしていなかった。
打ち砕かれて、心が折れない構えをしていたと思った。
彼女は……、
「まず、遠藤君」
冷たい声で、僕の名前を呼んだ。
「は、はい……」
「いきなりどうしてそんな心変わりをしたのか、とか、そういう話は野暮だからしない。ただ一つ。
キチンと、相手の目を見て話して」
「はい……」
そう言われながら、僕は彼女から目を離した。
その様子に呆れていたのは、名も知らない彼女だった。
「吉田美香」
「え?」
「あたしの名前。同じクラスなのに、覚えていないみたいだったから」
「……ご、ごめん」
「いいわ。皆が来る前に、さっさと始めましょう。と言っても、あたしもダンスのことは良く知らない。あたしが気にしているのは、皆のダンスがキチンと揃っているか、ただそれだけ。
君はトランペットは部内でも群を抜いて上手な癖に、他のことになるとリズム感が絶望的に皆無。そこ、キチンと直して」
「う、うん……」
振付が揃っているか。リズムに乗れているか。
たった、それだけ。
チャレンジしてぶつかってみて知れた、造作もない彼女……吉田さんの、僕へのお叱り理由。
意外と、呆気ないものだった。
こんなことならもっと早くチャレンジしていれば、こんなにも数日嫌な思いをするくらい、尾を引くことはなかったのかもしれない。
ただ、ぶつかった結果そうなる可能性もある。そういうことを知れたことは、多分小さいようで、大いなる前進なのだろう。
「あれ? 遠藤君、今日は早いじゃない」
吹奏楽部に男子部員は少ない。それは全国でも有数なこの学校でも、同じ話。
確か……ホルンだったか。仲良さそうな女子三人が校庭に現れて、嘲笑うように言った。
「何々、ようやくやる気出た?」
「その言い方はないんじゃない?」
嘲笑われた途端、口を挟んだのは吉田さんだった。
「まだ挽回も効くだろうし、やる気出して皆より早めに来るだけマシでしょ」
「……まあ」
不承不承気味に、女子達が持ち場に向かった。
どうやら吉田さんは、怒りっぽいがフォローも出来るくらいしっかり者らしい。
「ありがとう」
僕はお礼を言った。
「……なんだか、ツンデレね」
「へ?」
「昨日までのあなたとは打って変わっていて。まるで借りてきた猫みたい」
「……うっさいなあ」
「その減らず口、実にあなたらしい」
ふふふと笑った吉田さんに、僕は照れてそっぽを向いた。
それから次々に吹部一年が姿を見せた。
個人練の時間も終わり、全体練習へと移り、そうして僕が協力的になったからかいつもより早めに学年練習は終わった。
居残り練習をすることもなく、トランペットのパートメンバーが待つ教室へと向かった。
チャレンジすること。
そう志した初日の、最初から、どうやら僕はたくさんの功績を出せたらしい。
嫌な時間だったダンス練習を手短に終えれて。
煙たく思っていた少女の優しさを知れて。
意外と、チャレンジも悪くないと思えた。
……僕が、一歩を踏み出したくないと思ったことはたくさんある。
ダンス、勉強、人付き合い。
それ以外にも、たくさん。実に多種多様に、僕は嫌なことが存在する。
こなしていくことは大変なことだろう。
自信がないことを率先してこなすことは、怖い。失敗するのは、怖い。
でも、やると決めたんだ。
僕はチャレンジすると決めたから……だから、意思表示をしようと思っていた。
「あ、あの……っ」
トランペットのパートメンバーの前で、僕は意を決して声を荒げた。
いつもなら静かな僕。仏頂面な僕。
そんな僕が突然、声を荒げた。
最初、パートメンバーは誰が声を出したのか、互いが互いの顔を確認し合っていた。
そうして、声を発したのが僕だと気付き、こちらを目を丸めて振り返った。
嫌なこと、逃げていたことにチャレンジすること。
夏菜さんに振り向いてもらうために、チャレンジすること。
……トランペットには、自信があった。
小さい頃からずっと吹いてきて、それは今や僕の生活の一部だった。だからそれに謙遜もしなければ、遠慮もしない。
でも僕は……。
僕の演奏を誰かに批評されるのが、酷く嫌いだった。
だから、実力には自信があるが演奏会で前に出ようなんて思ったことはなかった。
今回、コンクールメンバーが演奏する曲、ローマの祭り。
この曲は、第四楽章までで構成されていて、第一楽章の『チルチェンセス』は一番最初にトランペットのパートがあった。
その部分は、このコンクールメンバーの中から三人が選抜され、その人達だけが吹く構成となっていた。
今回、顧問からはイベント事での演奏であるためにその三人はパートメンバーで話し合って決めなさいと言われていて、そうして僕は名前が挙がったが前に出たくないからと一度それを断っていた。
しかし、チャレンジをしようと思った僕は……あの時の行いを、後悔していた。チャレンジを恐れた当時の自分の行動を、後悔していた。
「ぼ、僕に最初のトランペットパートの演奏をさせてください」
声を張って、頭を下げた。
周囲からの返答は、しばらくなかった。