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生活の一部

 母の寝静まった後、父の残した家。その中にある防音機能のある部屋でトランペットを吹いた。無心で、吹いた。そうして眠くなって、眠りに付いた。


 夢を見た。

 特段、面白くない夢だった。

 小学校時代、僕にとって父は自慢の父だった。厳しい一面に涙を流したり、粗暴な一面に涙を流したり、そんな体験の記憶も少なくないが、時たまテレビにも出れるようなトランペット奏者というのは、多分そこいらでサラリーマンにしかなれない他人の父に比べれば栄誉あることで、周囲もそんな人を父に持つ僕を羨んでいたから、そう思っていた。


 羨望の視線。

 子供ながら気持ちが良かった。あの時は今よりももう少し、人当りの良い性格をしていたと思う。そんな僕が変わったのは、やはり父の不貞が発覚した頃から。


 僕の父は、最低な男だとレッテルが貼られた。そのことに関しては、何の誤りもない。父は、僕と母を見捨て、別の女との生活を選んだクズだ。


 最低な父。


 父がそんなレッテルを貼られたばかりに、周囲は僕のことをこれまでの態度から一転、嘲笑の対象へと変化させたのだった。


 お前の父は、浮気者。

 妻がいるのに別の女を愛した浮気者。

 そんな人と血が繋がっているお前も、同じくらいのクズ。


 どこでそんな入れ知恵をされたのか。

 どこでそんな残虐性を身に付けたのか。


 僕は何も悪いことはしていない。僕はただ、生きていただけ。


 なのに周囲は、まるで僕を犯罪者のように祀り上げ……不服だと反抗的な態度を見せる僕に、正義の鉄槌と言いたげに暴力、暴言と言う名の報復を重ねた。


 だから、人が嫌いだ。

 自分よりも上と判断すれば、取り入るべく媚びへつらう。

 下だと判断すれば、自分の承認欲求を満たすためだけに、貶めようと画策する。


 なにもそれは、子供も大人も関係ないのだ。

 人間なんて、そんな悪魔のような存在なのだ。


 あの時の夢なんて、思い出したくもなかった。


 楽しい思い出なんて、ただ一つもないあんな日のことを。


 拒絶反応があったからか、まだ薄暗い時間から目が覚めた。寝るのも嫌だったから、また防音室へと向かい、トランペットを吹いた。

 食欲もなく、朝食を食べずに家を出た。

 

 電車に揺られている時間は、嫌いだ。

 何もしていない時間は、嫌なことばかり浮かぶから、嫌いだ。


 学校に着いて、僕は夏菜さんと早朝練を続けている校舎の裏手へ向かった。

 この時は少しだけ、さっきよりも気持ちも快復傾向に向かっていた。沈んだ気持ちだったが、夏菜さんと会える。一緒に練習出来ると思えるだけで、現金ながら嬉しくなれた。


 しかし、そんな日に夏菜さんが早朝練にやってくることはなかった。

 一人寂しく、トランペットを吹いた。これからまた朝練が始まると思うと、更に気が滅入った。


 でも不思議と、トランペットを吹いている時間はそんな気持ちも忘れることが出来た。



 梅雨真っ盛りの空は、朝方には既に曇天模様だったが、始業くらいには薄きれのような雨を降らせた。その雨は弱まる気配もなく、昼過ぎには本降りへ。そして、放課後にも止む気配は微塵もなかった。


 これだけ雨が降れば、楽しくもない外練も中止になる。

 少しだけ、気が晴れた。ダンス練習なんてするために、僕は吹奏楽部に入ったわけではない。


 トランペットのパートメンバーがいる教室は、既に喧騒としていた。夏菜さんの姿もあった。一人彼女らから離れた場所で練習の準備をしていると、遠巻きから元気そうな夏菜さんの声が聞こえてきて、ホッとした。


「おうい、遠藤」


 安堵したのも束の間、僕は嶋田先輩に呼ばれた。日課になりつつあるペア練習へと、今日も向かった。

 教室へ向かう廊下。

 眠そうに、嶋田先輩があくびをした。


「……眠そうですね」


「ん? ああ、まあな。アイツ、中間で成績悪くてさ。遅くまで勉強の電話に付き合わされた」


 アイツとは、夏菜さんのことだろう。

 早朝練に彼女が姿を見せなかった理由を察して、僕は俯いた。


「……そうですか」


「ああ、まあ俺は勿論成績良かったけどな。お前は?」


「勉強は、キライ」


「嫌いなことばかりだな、お前」


 アハハと嶋田先輩に笑われ、ムッとした。しかし返す言葉は、ない。

 教室に着くと、遠くから色とりどりの音色が響き渡ってきた。丁度、他所でも練習が始まったらしい。


 雨の音と交じり合った音色は、不協和音のように歪で、されど美しかった。


「とりあえず、一回通しで吹いてみよう」


 嶋田先輩の言葉に、こくりと頷いた。

 それから息を吸い、トランペットを吹いた。


 邪念はなかった。


 忌み嫌う父に強要されたトランペット。これを今でも僕が吹き続けていることに、大した理由はありはしない。

 多分、些細な拍子で辞めると思う。


 それくらい、トランペットに対する情熱も熱意もありはしない。




 でも、僕にとってトランペットとは、生活の一部だった。


 腹が減ったらご飯を食べる。誰もそのことに疑問は抱かない。

 夜、眠くなったら眠る。誰もそのことに疑問は抱かない。


 食欲、睡眠欲みたいなことだった。

 食べたい時に食べる。寝たい時に寝る。


 僕にとってトランペットは……。


 好きな時に、吹くもの。好きなことを、吹くもの。


 ダンスになんて興味はない。生活の一部を自由に出来ないことを嫌がるのは当然だ。

 自分の実力は疑わない。最早生活の一部となっているそれは、僕にとって数少ない他人よりも時間をかけたものだから。


 だから情熱、熱意がなくても、僕はトランペットのことで謙遜もしなければ、遠慮もしない。


 謙遜すれば、生活は息苦しくなる。

 遠慮すれば、生活は肩身が狭くなる。




 かつてのようなそんな生きづらい世界を、僕はもう望まない。

 



 一通り吹き終わる前に、嶋田先輩が演奏を止めた。気にすることなく、僕は一通りを吹き終えた。


「なんで止めたんですか」


 文句交じりに、嶋田先輩を見た。これでは練習にならない。断罪してやるつもりだった。


 嶋田先輩は、目をポカンと丸めていた。


「……お前、この曲吹いたことあったっけ?」


「はあ?」


 その質問は、初めてペア練習をした日にも聞かれたことだった。


「吹いたことないですよ。それが?」


「……いや、なんだか随分と上達が早いと思って」


「暇があれば吹いているんだ。当然でしょう」


 生活の一部であることにそんな驚かれることは、意味がわからなかった。


「……なんだかまるで、寝ている時以外はずっと吹いてるみたいに言うな」


「馬鹿なことを言いますね、そんなはずないでしょう」


「ハハハ、そうだよな」


「移動中も、吹いてない」


 それ以外は大体、トランペットを吹いている。


 嶋田先輩は、口ごもった。


「……ご飯はちゃんと食べろよ?」


 嶋田先輩は、優しい言葉をかけてくれた。


 なんだか新鮮な気持ちだった。

 どうしてかは、わからなかった。


「……善処します」


 不承不承気味に、僕は答えた。

こいつよくヒロインに恋したな、と思った(小学生並みの感想)

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何卒宜しくお願いします。

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