福祉イベント
六月初旬から中旬の間に開催される福祉イベントは、学校近隣のホールを貸し切り開催されるイベントだった。実に三十年以上の長きに渡り開催されているこのイベントは、普段コンサートへ出かける機会が少ない乳幼児の子供、ご高齢の人達でも気軽に立ち寄れる演奏会となっていた。
この演奏会は、数少ない全吹奏楽部部員が参加する一大イベントの一つだった。
昨今の世情は、たかだか高校生の身であっても地域活動を重視する肩身の狭い世の中だった。これもいわば、その地域貢献の一つと言って何ら差支えはなかった。
つまりは、僕の嫌う他人に些細な幸せを提供しよう。他人の助けになろう。そういう観点からのイベントだった。
こういうイベント事は、好きではなかった。
先にも言ったように、あくまでこれは地域活動の一つ。そういうのは、自発的に行動するもので強要されるのは違う気がするのだ。
こういうところから昨今話題になる行き過ぎた過剰要求やクレーム騒ぎが生まれるんだと言うのが、僕の持論だった。
ただ、そういうイベント事は嫌いだったが、演奏を出来る場が設けられることに関しては文句の一つもありはしなかった。
トランペットにこれまで捧げた時間。
この演奏会に当たっての曲の練習時間。
好きでもない嶋田先輩との、ペア練習の時間。
そういうインプットの結果を発揮するアウトプットの場が間近にある環境は、多分悪いことではないのだろう。
件のイベントの演奏会では、三グループによる一曲ずつの演奏と、学年別での演奏があった。二曲の演奏練習の時間は、いつもの数倍の集中力を発揮出来てとても身になった。
しかし、憂うことが一つあった。
「ちょっと、遠藤」
梅雨時ながら雨が降らず、外で練習することになった放課後。
体育着を身に纏った僕は、校庭で一人の少女に叱られていた。彼女の名前は……知らない。ただコンクールメンバーの合奏練習の時にチューバを持って参加しているのを見たから、コンクールメンバーの一人なのだろう。
そんな名も知らない少女は、僕に向けて不満顔を露わにしていた。
僕は彼女の怒気に気圧され、眉間に皺を寄せて俯いていた。
「何回同じ間違いするのよ」
「……うるさいなあ」
自らの非は、認める気にはならなかった。
一層、少女は怒ったようだった。
そんな僕達の様子を不安げに見守る吹部一年。正直、結構居た堪れない気持ちだった。
僕達吹部一年が校庭に集った理由。
それは件の演奏会の練習に他ならない。楽器にとって天敵である湿気の多いこの時期に、僕達が屋外で練習していることには理由があった。勿論、練習場所がないからなんて理由ではない。
その理由は、なんともくだらない理由。
少なくとも僕はそう思っていたから、いくらこの少女に文句を言われようと謝罪する気にはならなかった。
「ダンスの練習なんて、必要ないじゃないか」
今度の演奏会は、堅苦しく各校の演奏の順列を付けるコンクールではない。子供も高齢の方にも参加頂く、演奏会なのだ。
だから、特に子供方面への受けを良くするため、学年別の一年の演奏では軽いダンスを取り入れた演奏をしようと相成った。
勿論、楽器によっては軽いダンスをするだけで大変という理由で、本当に些細な、手軽なダンスだったのだが……僕は、運動が大の苦手だったのだ。
「演奏もそうだけど、ダンスだって一体感があった方が綺麗に見えるじゃない。だからなんとか合わせなさいよ」
「運動苦手なんだ、仕方ないじゃないか」
「皆でやるって決めたでしょ」
「僕は反対した。民主制で押し切っただけだろ」
「いいから、やるって決めたんだからやりなさいよ」
横暴な意見にムッとしたが、それを言ってもこの場を乱すだけなのはわかっていたから言葉を飲んだ。しばらくして、再びくだらないダンスの練習が始まった。ステップだとか、何だとか。こんなののどこが吹奏楽なのか。甚だ疑問だった。
それからしばらくそんなことに時間を費やし、僕はパート練習に向かった。名目上は自主練。しかし、これから一時間半は自主練と言う名のパート練が取り行われる。
強制はしていない。個々人の判断での練習。でもサボれば練習不足と断定し、評価が下がる。練習は好きだが、そういう集団社会の醜い部分は大層嫌いだった。かつての敗戦国である国が、軍隊という名前を使えないから自衛隊を作ったみたいな、そんな言葉遊び程、聞いてて馬鹿らしい話はありはしない。
ただまあ、練習を忌避する謂れはない。むしろ家にも帰りたくないし、このまま翌朝までここで練習を続けたい気分だった。
パート練のため、トランペットパートの人達が集う教室に向かえば、夏菜さんと雨宮さんは一足先に教室に舞い戻り他のメンバーと談笑を楽しんでいた。
夏菜さんの顔を見ると、さっきまでのくだらない練習。くだらないお叱りのことも忘れられた気がした。荒んだ気持ちが安らいでいくような気がした。
「おっす」
しかし、背後から僕の肩を叩き入ってきた嶋田先輩の声に気付いて、途端に気持ちは再び荒れた。
「……なんですか、この手」
「なんだよ、つれないな。数少ない同性のパートメンバーなんだから仲良くしようぜ。それとも何か、俺に絡んで欲しくないのか?」
「はい」
「即答。まあお前の気持ちなんてどうでも良いんだけどさ。ほら、行くぞ」
僕は強引に嶋田先輩に引っ張られていった。
最近のトランペットメンバー内のお馴染みの光景に、他メンバーの笑い声だけが教室から聞こえてきた。
「今日は随分苛立ってるな。そんなにダンス練習嫌かい」
「嫌です。僕はトランペットを吹くために部活に入った。なんでそれ以外のことをしなければならない」
「ダンスだって音楽を彩る文化の一つだろう? ラテン音楽なんてその典型だ」
……それは、まあ。
僕は何も言わずそっぽを向いた。
「そんな閉鎖的な考えじゃなくてさ、もっと色々チャレンジしてみろよ。俺より一つ下のくせに、何でも知った気になって現状維持に努めてどうする」
「……先輩、賢そうなこと言いますね」
「これでも成績良いんだぜ? 時たま、夏菜に電話で勉強だって教えてる。まあ、あいつは俺の教え方が下手だと文句を垂れるがな」
夏菜さんの名前に、嫌な気持ちになった。
どうして彼らは、実の兄妹なのにこんなにも仲が良いのだ。
「とにかく、色々チャレンジしてみようぜ。景色が変わる機会は、きっとある」
「……変わったところで」
「ん?」
「なんでもないです」
変わったところで、何がある。
僕は変わっても、人が醜いことは変わらない。人がずる賢いことは変わらない。人が徒党を組んで貶めようとしてくることは変わらない。
なのに、チャレンジして巻き込んで。そんなことして、恨みを買ってどうする。
人は一人では何も出来ない。
父との離婚後、母は一時体調を崩し入院した時期があった。
唯一の生活費の捻出先である母の一時離脱は、我が家の家計に大きな影響を与えたことがあった。
あの時の経験のおかげで、僕は大抵家事とかはなんでも一人で出来るようになった。
だけど、僕でもどうにも出来ないことがあった。
金だ。
あの時の僕達の生活資金は、忌み嫌うはずの父から振り込まれる養育費と、かつて得た慰謝料だけだった。
惨めだった。
裏切られた父に支えられる生活は、とても惨めだった。
またあんな惨めな思いをするくらいなら……。
それなら、現状維持に努めて何が悪い。
あんな体験、僕は二度と御免だった。