帰宅間際
コンチャークとイーゴリ公。
嶋田先輩と夏菜さん。
嶋田先輩は、この二つが同意義であるようなことを呟いていた。どうしてか考えてみるも、イマイチ要領は得なかった。
休憩が終わり、僕は再びトランペットに集中した。
吹奏楽部コンクールの自由曲として先生が選択したこのイーゴリ公より。
嶋田先輩とは価値観が相容れることはなかったが、やはりこの曲は僕にとっては仄明るい曲だった。
相容れるはずのなかったイーゴリ公とコンチャークが認め合い、そうしてコンチャークが催した宴とこの歌舞は、イーゴリ公にとっては美しく、煌びやかで……屈辱により苛まれた自尊心の損傷の快復に一役買ったことだろう。
音楽は、人間にとって言葉以外で相手と対話を図れる一種のコミュニケーションツール。そこに国境の壁はない。だからこそ、イーゴリ公も心の底から歌舞を楽しめただろう。
心なしか、トランペットの音色が躍った。三つのピストンバルブを押す指も軽重になっていった。
「遠藤、一人走ってる」
武田先生に注意された。やりすぎた。
指揮に注意しつつ、その気持ちは止まさず。
マウスピースをくわえる口が、綻んだ。
こんなにも楽しく演奏をしているのは、久しぶりだった。
快調に軽重に、練習に励んだ。
楽しい時間は過ぎるのが早いとは、よく言ったものだ。夏至を少し過ぎたばかりのこの時期、まだまだ日が昇っている時間が長いのにも関わらず、外はすっかり真っ暗になっていた。
一日合奏練習も悪くないなと思いつつ、今日の部活動は解散となった。
一年は、机と椅子の整頓をするためにもう少しだけ残ることになっていた。先輩が帰るまでの間にマウスピースを水ですすぎに、僕は向かった。
「あ」
真っ暗な廊下。
そこで出会ったのは、夏菜さんだった。
「……あ」
「はう……」
目が合ったのに、露骨に逸らされ、僕は情けない声を上げた。泣きそうだった。
しかし、ここで泣いていてもしょうがない。
気まずい夏菜さんとの時間。時間が解決するとは吉田さんとの共通見解だったが、そんな悠長なことを言えるだけの懐の深さ、コンチャークではない僕には持ち合わせていなかった。
「……た、大変だった……ね?」
こういう時は、共通の話題から入るべきだとワイドショーで見たことがあった。
音楽室から出る時、皆が口々からそう言うから、僕も試しに言ってみた。個人的にはまるで共感出来なかったから、語尾が疑問形となった。
「久人君でも、大変だと思うことあるんだ」
「……あはは」
誤魔化すように、微笑んだ。
「凄く楽しそうだったね」
しばらくそうしていると、夏菜さんが言った。
「そう?」
「うん。いつもの久人君の三割増しくらい、元気だった」
「あ、ありがとう」
照れくさくて、僕は頭を掻いた。
「意外と、見てくれてたんだね」
こうしてゆっくり夏菜さんと話せる機会が最近ないからか、気付けば僕は少しだけ舞い上がっていた。
口から漏れた言葉は、失言だと僕に思わさせた。意外と、は余計だと思えた。
「ご、ごめん……」
「ううん……」
常闇に染まる廊下で、夏菜さんの顔が赤いのがわかった。また、怒らせてしまっただろうか。
しばらく会話のない、無言の時間が流れた。
「……久人君?」
「何?」
「……えぇとね」
珍しく、夏菜さんは曖昧な態度を見せた。手持無沙汰の手を握ったり離したり、モジモジしたりしていた。
「……ありがとう」
「え?」
僕は、聞き返した。別に聞こえなかったからではない。何に対するお礼か、わからなかったからだ。
「だから、ありがとうっ」
少し、怒気交じりに夏菜さんは言った。その顔は、怒っているように見えた。
「思えば、まだ一度もお礼してなかったから……」
「……えぇと、何に対して?」
「この前、合唱パートの合奏練習に乗り込んで、怒ってくれた件」
「……ああ」
そう言えば、あの件はお礼を言われて然るべき、と複数人から言われていたな。個人的にその後のやらかしのイメージが強く、お礼を言われる日が来るとは思っていなかったわけだが。
「ありがとう。後、ごめん。あたしのせいで、貴重な一週間を棒に振らせちゃった」
俯く夏菜さんの声色が、弱弱しくなった。
僕は、慌てた。
「いや、あの……僕が勝手にしたことだよ。気にしないでよ。それに朝も言ったけど、謝るべきは僕だよ」
「朝も言ったけど、どうせその内バレた話なんだから気にしないでよ」
「……そう言うなら、まあ」
不承不承気味と、僕はおずおずと頷いた。
頷いて、頭を上げて……ふと、気付いた。
どうやら、許してもらえないと思っていた件。僕が思っていたよりもあっさりと許してもらえたらしい。
なんだかまるで、夏菜さんがその件を、彼女が言う通りあまり気にしていなかったように、僕には聞こえていた。
しかし、そうなると一つ疑問も浮かんだ。
「……ねえ、木澤さん?」
「なあに?」
「……この一週間、君とお兄さんのことをばらす助長をしたせいで怒りを買って、避けられたと思っていたんだけど違った?」
「うっ……」
夏菜さんが、苦々しい声を上げた。
「……そうだね」
認めた。
だとしたら。
だとしたら、だ……。
夏菜さんは、どうして僕を避けたのだろう。
夏菜さんは、しばらく俯いたままだった。僕はその間、色々なことを検討し、排除し、時間を送った。無駄口は挟むことはなかった。挟まないほうが、良いと思った。
夏菜さんが意を決したのは、それからしばらくしてのことだった。
「ひ、久人君?」
「ひゃい……」
噛んだ。
「気になる?」
「え?」
「だ、だから……気になる? どうしてあたしが、君を避けたか」
気になるのか、か。
「気になる」
素直に言えば、そりゃあ気になった。一体夏菜さんは、どうしてあの一週間僕と口を聞くことを避けたのか。
どうして今、頬を赤めて僕に熱い視線を寄越しているのか。
「こ、今週の日曜日、暇?」
震える夏菜さんが言った。
「うん」
「そっか。……そっかぁ」
夏菜さんは、どうしてか少し嬉しそうだった。
「じゃあ、交換条件」
今度は楽しそうに、そう言った。なんだかこうして快活な彼女を見るのが、酷く久しぶりな気がした。
「交換条件?」
「うん。日曜日、一緒に遊びに行こう?」
「うん。わかった」
深く考えず、頷いた。
「その代わり、この前のお礼と……その件を、お話させて」
しばらくして、それがデートの誘いであることに、僕は気が付いた。




