男の過去
僕の父は有名なトランペット奏者だった。富も、名声も。地位も。全てを持っている父だった。
トランペットは父から教わった。父の指導は厳しかった。半音外せば頬をぶたれ、練習したくないと半べそを掻けばもっと泣かされた。
そんな父の態度を、母はずっと見かねていた。
僕の自主性を重んじたいという母に、父が暴力を振るう姿を見たことは一度や二度ではなかった。
ただ泣くことしか出来なかった僕は、この地獄のような状況を変えるべくトランペットの練習に身を投じた。幸い、頭を使わなくていい反復練習だとか、そういった類の練習は嫌いではなかった。逆に、作曲者の気持ちを理解しろと言う父の言いつけは難題だった。他人の気持ちなんて、僕にはわかりっこなかった。それでも文句も言わず練習に明け暮れる僕を見て、父はとても嬉しそうにしていた。
この道が正解なんだと、子供ながらに思った。練習に身を投じて、成果を出せばそれよりも辛いことは起きないのだと知った。
だから練習に明け暮れた。
そして、一年。
父が家に帰ってこなくなった。
父は不倫をして、別の女と子供を作った。
用済みとばかりに、父は僕と母を捨てた。
父のシンボルマークであるトランペットは、忌み嫌う対象へと変わり果てた。一時はそれを見るだけで吐き気を覚えた。
周囲は、父の不貞により離れ離れになった僕の家庭を嘲笑った。今思えばあれは、世間一般的に言ういじめみたいなものだった。
小学校を卒業し、中学は吹奏楽部が有名ではない近所の公立校に進んだ。
そこには僕の家の事情を知る生徒が数多く存在した。入学して一層過激さを増す人間の残忍さを知って、僕は遅すぎる後悔を味わった。
おかげで、遠因であったトランペットからはより一層距離を置いた。
しかし、友人もいない。勉強は並。家にいてもやることはない。
そんな中学生活を送っている時、僕は気付いた。気付かされてしまったのだ。
なんと自分の人生は虚無なのか、と。
気付いたらあれほど忌み嫌ったトランペットを、僕は再び吹いていた。
トランペットを吹いている時間は、辛くない。体も脳も、五臓六腑でさえ、僕の体はそうなるように形成されてしまった。
あの地獄のような日々から解放された僕の手元には、トランペットしか残されていなかった。もうあんな地獄の時間を味わう必要はないのに、僕は未だトランペットに縋っていた。
* * *
ゴールデンウィークも終わった五月の中旬、早めの梅雨が地面を濡らしていた。
目を覚まして、朝食は食べずに家を出た。朝はどうしても食欲は湧かなかった。
最寄り駅の始発電車に乗り、片道一時間半の電車旅に繰り出した。目的は通っている高校への通学。余裕で朝のホームルームには間に合う時間だったが、今はそれが目的で早起きをしているわけではなかった。
中学二年の時、僕の通っている公立中学校はまったく名の知れていない吹奏楽部弱小校だった。
そんな学校が翌年には東関東大会出場まで躍進出来たのは、熱意ある教師が顧問になったことも大きかったが、エースと呼べる僕が二年の時途中入部を果たしたことが大きな理由だった。
部員達のやる気を出させ、そうして土台を固めて一年。見事東関東大会出場にまで僕達は漕ぎつけることが出来た。
そんな中学時代があったからこそ、僕は今、推薦で全国的にも有名な奈野原高校へと入学することが出来たのだ。
本当は吹奏楽部に入部するのかは迷ってはいたのだが、夏菜さんという初恋相手がいたばかりに想いは途端に固まった。
その結果、僕は今、奈野原高校吹奏楽部に所属することになり、殊勝な心持の上でこうして早朝練へと繰り出す毎日を送るようになったのだった。
奈野原高校は、自宅がある住所から隣県にある学校だった。
敢えて遠くの学校を選んだのは、顔見知りがいる学校へ通うことを避けるためだった。小学校、中学校時代に父のせいで味わった数々の仕打ちは、僕にとってトラウマ以外の何物でもなかった。
二回電車を乗り換えて、駅から近い高校が見えたのは予定通り家を出て一時間半くらい経った頃。
校舎から吹奏楽部の音色は、まだ聞こえていなかった。なんだかんだ、僕が一番に登校してきたようだ。
……トランペットへの熱意は、まるでない。
強いて言えば、これは暇つぶしの行いに近い。人間を嫌っている今、出来れば集団行動なんてしたくないし、ただ無心になれ成長を感じられるからトランペットをしているだけなのだ。
多分、他にしたいことが見つかれば途端にトランペットなんてかなぐり捨てることだろう。
それが正しい選択だとは思えなかったが、忌み嫌う行為を反吐を出しながらやることも正しいとは思わなかった。
多分、何か他にしたいこと……たった一つの拍子で、僕はトランペットを辞めるだろう。
ただ今ではない。
「おはよ、遠藤君」
夏菜さんと少しでも絡むことが出来るこの行為を捨てるのは、今ではない。
そう思った。
「おはよう、木澤さん」
……しかし。
嶋田先輩と夏菜さんの仲睦まじい様子が脳裏に浮かぶと、途端に全てがどうでも良くなってしまう気がした。
この手の話は主人公に劣等感がある構成に必然的になるので、またもや成長話となる予定です。
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