後悔
ここまで、人に対して明確な怒りを露わにしたことは初めてだった。これまで小中と人にイジメられ、人に対する恨みや憎しみを増幅させてきた。
それでもここまで、怒りを露わにすることはなかった。
裏で文句を言って、現状を嘆いて、泣き寝入りするだけだった。
それなのに、我ながら相当熱くあの女に迫ったと思った。自分の忌み嫌うあいつの名前を出してまで。あいつとの関係性を示してまで、この女を断罪することになるとは思わなかった。
「何とか言ってみろよ」
俯いた女に、僕は死体蹴りの如く言葉を求めた。
「もういいだろ、遠藤」
そう言ったのは、顧問の武田先生だった。
「……いいわけないでしょ。彼女のした行為は、あまりにも愚かだ」
「でもそれは内輪の話だろ。ここにいる数十人の手を止める理由になるのか?」
顧問の正論に、頭に血が昇った。いや、昇っていた血が沸騰された、と言う方が正しいかもしれなかった。
この陰湿な女があまりにも歯ごたえがなくて、怒りの行き場を失っていただけかもしれない。
「先生はこいつの肩を持つんですかっ」
女々しい叫びをあげたことに、僕は気付いていなかった。
怒りの行き先を失って、今度は先生に詰めよろうと大股で教卓に近寄ろうとしていた。
「遠藤君っ」
そんな時、騒ぎを聞きつけたのか音楽室に怒声を発して入ってきた人がいた。
吉田さんだった。
「……何か用?」
「何か用じゃない。出てくわよ」
吉田さんの声は、怒っていた。恐らく僕に向けて、彼女は怒っていた。
間違ったことはしていない。
あの人間の醜悪さを詰め込んだ女に僕がしたこと。
僕があの女を断罪したことは、何も間違ったことではない。
「あなたのしてること、間違ってる」
吉田さんは、いつだって正しい。それはこの数か月、身に沁みさせられたことだった。
しかし今回ばかりは、僕は彼女の正当性に食ってかかざるを得なかった。
「……君もあいつの肩を持つのか」
「そうじゃない」
「じゃあ、なんでだよ」
「……木澤さんが、可哀そうでしょ」
夏菜さんの名前が出て、昇っていた血が下りてきた。
何を言う。
吉田さんは今、何を言っているのだ。
「こんなに大勢の前で、イジメられてたことを明かされて……木澤さんの立場なら、辛いに決まってるじゃない」
何も、言えなかった。
かつては僕も、身勝手な連中に良くイジメられたものだった。その度、辛い思いを味わって。
だけどそれを、僕が他人に相談したことは一度だってなかった。
いつだって僕は、内心で連中への憎しみを増幅させるだけで、報復だって復讐だって、そんなことに手を染めたことは一度だってなかった。
僅かに頼れる人に、僕の現状を相談することもなかった。
それは、何故か。
認めたくなかったからだ。
自分が弱者であることを。
イジメられて半べそを掻くしかない弱者であることを、僕が認めたくなかったからだ。
イジメられているという現状を受け入れたくなくて。
現実逃避をしたくて。
微かな尊厳を、守りたくて。
それだけで僕は……誰にも相談せず、泣き寝入りを続けた。
夏菜さんだって一緒だったんじゃないのか。
白昼堂々、僕がこの場で夏菜さんをイジメたことでこの女を断罪したことは……彼女に辛い現実が巻き起こっていたことを直視させる、悪手だったのではないのか。
視線に、気が付いた。
音楽室の騒ぎに気が付いて。
僕の怒声に気が付いて。
そうして、音楽室の前にたくさんの人が集っていることに、気が付いた。
……その中に。
夏菜さんは、いた。
心臓が鷲掴みにされたような気がした。一瞬、息が止まって、眩暈を覚えた。
気付けば僕は、大粒の汗をたらしながら音楽室を飛び出していた。
「待って!」
背後から叫ぶ吉田さんの声に応答することは出来なかった。
僕は一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
「待ってってば!」
校門。
さっきまで雑音の酷かった音楽室から、随分と遠ざかった。
吉田さんに掴まれた手が、震えていたことに気が付いた。
「……吉田、さん」
「ん?」
「僕は、どうしたらいい……?」
ほんのり暖かい涙が、頬を伝った。
傷つけてしまった。
夏菜さんを、傷つけてしまった。
そんなつもりはまるでなかった。ただ僕は、彼女が辛い目に遭っていると聞かされ……それを聞いたら、内心に湧き上がる激情を抑えきれなくなった。彼女に辛い目を強いる奴を、断罪したいと思っただけなんだ。
でも、言われて気付いた。気付かされてしまった。
そんな高尚なことを出来る男じゃなかった。他人を断罪するだなんて、そんな高尚なことが出来るような男じゃなかったはずなんだ、僕は。
僕がしたことは……あの場でただ、あの女を追詰めただけ。
精神的に追い詰めた。ただ、それだけ。
あの女が夏菜さんにしたことと、何ら変わらないことをしただけなのだ。
嗚咽が漏れた。
犯した行為への後悔が、滝のように僕に降り掛かった。
「……そんなに好きなのね、木澤さんのこと」
「……え」
「普通、好きでもない人のために行動しようだなんて、思わないでしょ?」
優しく微笑んだ吉田さんは、僕を抱きしめて、優しく頭を撫でた。
「好きな人を守りたいって感情は、何も間違ってない。好きな人を苦しめる人を咎めて、助けたいと思うことだって間違ってない。
ただ少し、感情的になりすぎた。それだけ」
優しい吉田さんの言葉は、擦り傷にかける消毒液のように心に染みた。
「あんな公衆の面前でイジメだなんだと言われれば、あの子だって行動しづらくなる。天罰ね。弱みを握った人を苦しめた、天罰。
多分、これから彼女は針のむしろになることでしょう。イジメっ子の烙印を押され、再び同じことをすれば周囲からの信用を更に失うことでしょう。
遠藤君のおかげで、木澤さんがイジメられる可能性は減ったことは事実。
よく、頑張ったね」
「……でも」
僕のやり方では、夏菜さんを余計に傷つけてしまった。
「……失敗したな、と思うことがあってもやり直せないわよ」
「うん」
「後悔したことがあるなら……謝罪して、同じ過ちを繰り返さないように心掛けて、前に進むしかないじゃない」
「……うん」
「……遠藤君なら、きっと出来るよ」
街灯に僕達は照らされていた。
明かりの根源は月明かりと、その点滅している街灯のみだった。
街灯に、吉田さんの顔が照らされた。
吉田さんは、地母神を思わせるような微笑みを、僕に向けていた。




