彼女には仲睦まじい男子がいた
名前も知らない少女に恋をした。
出会いは薄暗い文化ホール内。色とりどりの音色が木霊するそのホールの座席で、僕は一人管楽器を演奏する同じ年頃の子を見守っていた。
目を離すことは出来なかった。
ホール天井の照明からの光がその少女が握るトランペットに反射し眩く光っていた。一時目を離せば簡単に彼女の美しい真剣な顔が見えなくなりそうな眩きの中、されど一切目を離すことが出来ずにいた。
さっきまで、僕もあそこで演奏をしていた。
同じようなトランペットを持ち、彼女の学校よりも少し拙い演奏で、あそこで課題曲を吹き切った。
僕達の学校は、特段県内でも吹奏楽部が有名な学校ではなかった。
だからか、自らの演奏を終えた今、皆の興味関心はこのコンクールの後に向いていた。
友達と夕飯を食べに行くのかもしれない。
親に、今日までの頑張りを褒めてもらうのかもしれない。
生憎そんな予定はなかった僕は、皆の輪に交じることなく矢継ぎ早に流れる吹奏楽部の音色に耳を傾けていた。
マインドスケープ。
昨今の吹奏楽部コンクールで有名な曲で、序盤の静けさから終盤のけたたましさ。五臓六腑に染みわたる豪華絢爛な曲に、僕は舌鼓を打っていた。これを自分と同じ年頃の子達が演奏していると思うと複雑な気持ちになりそうだった。
最初はそんな調子で演奏を楽しんでいた。
ただ、その少女を見つけてからの記憶は酷く曖昧だった。彼らはどんな曲を、どんな調子で演奏していたのか。
一時品評家を気取った癖に、僕という人間の底の浅さを身に沁みさせられた。
しかし、不思議と悪い気はしなかった。
そんな気持ち忘れるくらい、僕は多分……その少女に一目惚れをしてしまったのだった。
名も知らない少女に、一目惚れしてしまったのだった。
中学最後の東関東大会は、銅賞に終わった。
もう少し上を目指せただろうと思っていたのか、同じ学校の皆は酷く落ち込んでいた。
僕は特段、落ち込むことはなかった。
トランペット奏者として練習は人一倍頑張ってきた自負はあった。しかし、だからこそ彼らの中途半端な演奏には度々辟易とした気分にさせられたのだ。彼らはすぐ、妥協点を探したがる。あれほどの熱意ある先生に指導されてこの程度の結果なのは、多分彼らの拙い演奏のせいだった。
そして、壇上で繰り広げられる美しい光景に目を奪われていたら、銅賞に終わった不完全燃焼の演奏なんてどうでも良くなっていた。
東関東大会金賞。
全国大会へと駒を進める偉大なる賞。
この学校の生徒連中程度では箸にも棒にも掛からぬ賞。
そんな栄誉ある賞に輝いたのは、一目惚れした少女のいた学校だったのだ。
部長であるらしかった彼女は、晴れ晴れとした笑みで表彰状を受け取っていた。その時の彼女の顔もまた、僕にはとても眩く見えたのだった。
そうして中学最後の吹奏楽コンクールも終わり、それからしばらく僕の秘めたる思いは燻った。名前も知らない彼女に抱くには重すぎるこの好意は、早々に行き場を失い僕を悶々とさせるだけのものになり果てたのだった。
しかし、そんな燻りかけた気持ちに再び、火が灯る事件が起きた。
それは高校進学後、仮入部が始まった最初の日のことだった。
吹奏楽部を続けるつもりはあまりなかった。トランペットを吹くことは嫌いではないが、吹くことよりもたくさんのことで足を引っ張られ続けてきた。
だから、学校と言う集団活動の場も。同じく集団活動を強いられる部活動も本当は入りたくなんてなかった。
それでも一年時の間は、部活動への所属が義務付けられているから、とりあえず程度は知れた吹奏楽部の様子を見に行ったのだ。
そして、そこで僕は出会う。
「木澤夏菜、中学ではトランペットやってました」
木澤夏菜さん。
東関東大会の日、僕が一目惚れした少女。
まさしくその人が、今僕の隣に立っていたのだ。
緊張で、心臓が高鳴っていた。
こんな運命的な再会を果たすとは。
こんな至近距離に立つことが出来るとは。
口から心臓が飛び出しそうなくらい、緊張していた。吐きそうだった。
「ねえ、大丈夫?」
視線がおぼつかない中、僕は俯いていた。
「遠藤君、大丈夫?」
「……え」
そんな中僕を呼んだのは、夏菜さんだった。
呼ばれて、僕の自己紹介の番が回ってきていたことを悟った。
「え、遠藤久人です。トランペットを吹いていました」
慌てて頭を下げると、まばらな拍手が先輩間で沸き上がった。
「ん、遠藤君って、どっかで聞いたことのある名前のような……」
先輩の誰かが呟いたが、僕はそれを聞き流した。
仮入部初日は、一つ上の代がいなくなりまもなくの先輩達の新編成での歓迎コンサート、そして雑談の場と相成った。
笑い声が堪えない音楽室だったが、僕は一人隅でぼんやりと立ち竦んでいた。初めて会った人と楽しく談笑だなんて、正直かなり気疲れを起こしていた。
ふと、隅っこから音楽室の様子を眺めた。多分、夏菜さんの姿を探していたんだと思う。
夏菜さんは、お淑やかそうな雰囲気の割に声高らかに笑うことを、さっき知った。おかげで彼女の居場所はすぐにわかった。
そこで僕が見た彼女の微笑みは。
一人の男の先輩と談笑する彼女の見せた笑みは。
どうしてか、酷く僕の気持ちを揺さぶった。
それがどうしてなのか、中々僕はわかることはなかった。
しかし、日に日に彼女とその先輩が一緒にいる時間を見ることが増えていくほど、周囲で二人の関係を色恋沙汰だと愉しむ声を聞くほど、この気持ちの正体に僕は気付いていった。
これは嫉妬だった。
妬ましく、忌々しかった。
かの先輩が、妬ましかった。
夏菜さんの笑顔を独り占めにするあの男が、許せなかった。
吹奏楽部に入部したのは、夏菜さんといる時間を少しでも増やしたいがためだった。しかし、夏菜さんはどうやらあの男に執心らしく……会話の機会にはあまり恵まれなかった。
僕が吹奏楽部に入部して一月。
ゴールデンウィーク直前、いつもより早めに家を出て早朝練へと繰り出した。
どうして自分が吹奏楽部を続けているのか、理由は酷く不明瞭だった。それくらい集団行動は嫌いだった。
しかし日増しに良くなる自分の演奏と向き合うことは好きだった。
達成感を感じることは、難しいパズルを解くような爽快感があった。
校舎の裏手、日陰になっている壁に寄りかかりながら、家に持ち帰っていたトランペットを取り出した。
誰もおらず、誰にも介入されず、一人思い思いにトランペットを吹ける。
僕は、幸福を感じていた。
「おはよ、遠藤君」
僕の吹いたトランペットの音色はから回った。
唐突に声をかけられたからだ。
その人は、夏菜さん。
僕の想い人だった。
「木澤さん。おはよう」
「おはよ、早いね」
心臓が高鳴った。こうして夏菜さんと二人きりで話せる機会は、一月も同じ部活に所属して初めてのことだった。
「そ、そっちこそ」
「あたしはいつもこの時間だよ」
「へえ」
と言うことは、毎日この時間に来れば彼女と話せるわけか。
良いことを知った。いやしかし、いきなり早朝練に繰り出すようになるのは不自然かもしれない。
程度を見て……いや、しかし。
面倒な自分の性格に、辟易としていた。
「遠藤君、上手いのに偉いね」
「え?」
「多分、一年のトランペットパートでは一番じゃん。なのに早朝練だなんて、偉いなって。あたしはてんでダメダメだから、こうして少しでも上達したくてさー」
夏菜さんは、コロコロと顔が変わる人だった。
喜んで。
落ち込んで。
楽しそうに。
見ていて、飽きない人だった。
「そんなことないよ。木澤さんもとても上手い。さすが、伊達に中三の時全国大会に出てないね」
「あれ、あたし遠藤君に中学時代のこと話したことあったっけ?」
ギクリ。
心臓が、高鳴った。
「……東関東大会、出てたんだよ。で、ひと際上手い演奏をしていたから目に付いた」
「いやだなあ。ひと際上手くなんてなかったよ。せいぜい上から三番目くらい。これでも相当過大評価。誰にも言わないでね?」
僕は、頷いた。
「……ね、一緒に吹いていい?」
「え?」
「一緒に。遠藤君と一緒に吹いたら、なんだか一層上手く吹ける気がするの」
「……わかった」
断る必要性は、なかった。
他人と関わることは、嫌いだ。
周囲は僕を、好奇の目で見る。
周囲は僕を、野次馬根性で観察する。
そんな周囲のことが、僕は嫌いだった。
しかし、夏菜さんなら話は別だった。
好いた彼女となら、たまには合奏するのも悪くないと思った。
彼女のトランペット演奏の腕前は。
確かに、この学校の先輩達と比較しても目立つ音色は感じない。それでも元気いっぱいに音を奏でる彼女の演奏には、時たまついつい微笑んでしまう。
そんな、不思議なエネルギーを持った演奏だった。
「もうっ、遠藤君ったら酷いんだから」
「……え?」
「半音外したくらい、見逃してよ」
……別に、そこで微笑んだわけではないんだけどな。
僕は、もう一度微笑んだ。
「そうだね。そこはもう少し早くブレスしておくと、後々楽かも」
「ためになります。でも、なるべく笑わないでよ。恥ずかしいよー」
笑ったわけではなかったんだ。
ただ、君との合奏が、楽しかっただけなんだ。
……言いかけて、頭に浮かんだのは先輩と夏菜さんが仲睦まじい様子で話している光景だった。
「……嶋田先輩には、練習付き合ってもらえないの?」
嶋田先輩とは、夏菜さんと仲睦まじい様子を見せる男の先輩のことだった。
「え?」
素っ頓狂な声を、夏菜さんが上げた。
「君と先輩、仲が良いから。一緒に練習していれば、多分指摘してくれそうなのになって」
嶋田先輩は、二年ながらこの吹部で一番のトランペット奏者なのではないだろうか。そんな彼と仲良いのなら、こんな指摘とっくにされていそうなものだと思ったのだ。
……そう思うと、劣等感と嫉妬心でどうにかなってしまいそうだった。
どうしてこんな、敵に塩を送るような真似をしてしまったんだろう。
後悔の念が押し寄せていた。
夏菜さんは、
「ああ、ダメダメ。お兄ちゃんそういうの苦手だから」
楽しそうに、否定した。
……ん?
「え?」
今、なんて……?
「あ、これ言っちゃいけないやつだった」
夏菜さんは、慌ててうっかり屋な口を塞いだ。しかし、もう全てが遅かった。
「嶋田先輩、君のお兄さんなの?」
僕は、尋ねた。さっきまで抱いていた嫉妬心は、どこかへ飛んでいっていた。
「……えぇと、まあね」
「でも、苗字が違う……」
「親が離婚したからね」
なるほど。
「これ、あんまり他言しないでね。悪目立ちするからさ」
……夏菜さんのその言葉を聞いて。
彼女と先輩の関係に納得がいって。
彼女がそれを周囲に黙った理由を察して。
「……アハハ」
僕は、乾いた笑みを浮かべていた。
「笑うのは、酷いよ?」
いつだって楽しそうだった夏菜さんの顔が、少し歪んだ。
「……ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ」
「じゃあ、どういうつもりだったの?」
好きな人に恋人がいなくて良かった。
浮かれた口が、そう口走りそうになった。
寸でで堪えて、僕は言い訳を考えた。
「……二人が、恋人ではなくて良かったなって」
しかし、口が勝手に答えていた。
「え?」
「ぱ、パート内に恋人同士がいると空気は重くなったりするじゃないか。喧嘩されると大変だし。イチャイチャされるのも大変だし……だ、だからそう思っただけなんだ。他意はなかったんだ」
「……パート内の空気を不安視するほど、遠藤君交友的じゃないじゃん」
「う」
まったくの正論に、言葉が詰まった。
なんと言って言い訳を探せばよいのだ。混乱する脳で目を回しながら、僕は必死に考えていた。
「これで、おあいこね」
しかしどうやら僕は、夏菜さんの手のひらの上で転がされていたらしい。
純真無垢な子供のように悪戯を成功させたことに、夏菜さんは少しだけ嬉しくなっていたようだった。舌を出す素振りは、いつもは美しい彼女に似合わなかったが、新たな一面を開拓されたような不思議な魅力があった。
「あんまり喋ってても、時間勿体ないね」
「……うん」
「練習、しよっか」
「うん」
それからしばらく僕達は、再び練習へと戻った。
音色を鳴らし、時たま夏菜さんの顔を見て。目が合って、目を離して。
そんな時間は、楽しかった。
長らく氷河期を迎えていた氷山の一角のようになっていた深層心理の心が、ゆっくりと溶けていくような気がした。
多分、こんなにも晴れやかな気持ちで入れたのは彼女との二人きりの時間が楽しかったからだけではないのだろう。
夏菜さんと嶋田先輩が兄妹であることを知った。
そんな彼女の内なる秘密を知って、彼女への気持ちを再確認して。
燃え上がり始めた彼女への想いを自覚して。
僕は今、気がどうにかなりそうになっていたのだ。
今の僕達の関係は、ただの部活仲間。
その程度の僕が突然口走るには、それはあまりに大それた感情。
でも、何かの拍子に簡単にこの引き金は外れてしまいそうだった。
それくらいの情熱が体の奥で滾り始めていた。
彼女と先輩はただの兄妹だった。
だから、滾り始めたんだ。
……しかし。
「あっ!」
練習途中、何かに気付いた夏菜さんが声を上げた。
僕との練習を放り投げて、見つけた人物へ向けて駆けて行った。
……その時の、夏菜さんの顔は。
さっきまで僕に見せていた微笑みとは、まるで違う笑みを見せていた。
「お兄ちゃん!」
滾った気持ちが、瓦解した。
まるで恋人との再会を喜ぶような、魅力的な笑みを浮かべた夏菜さんを見て。
僕は、固まってしまった。
「ちょっ、おまっ。遠藤が見てるだろっ」
「あ、いけねっ」
「いけねじゃねえよ、この天然バカ」
惨めな気持ちだった。
僕に目配せしてきた嶋田先輩の苦笑を見て、一層そう思ってしまった。
「まー、遠藤君にはさっきばらしちゃったんだけどね」
「え、何平然ととんでもないこと口走ってるの」
仲睦まじい様子の二人を見て、僕は疑った。
彼女達が本当に兄妹なのか、疑った。
「……兄妹、なんですよね?」
その質問は、そうだと言ってくれという思いが言外に込められていた。
そうだと言ってくれ。
そうだと、言ってくれ……。
「……まあな」
「エヘヘ」
そうだと言ってくれた。
しかし、僕の気持ちが晴れることは一切なかった。
(個人的)大人気脳が破壊されないシリーズ。ちょっと脳が破壊されそう。
短編で書いたやつ、運営しゃんからお手紙来たので削除したのですが、別に削除する必要なかったんやな。
バックアップも取っとらんから忘れてくれ。草。
ブクマ、感想、評価宜しくお願いします。




