嵐の前の静けさ1
パーティーの夜から、一ヶ月が過ぎた。
ナイジェルはあれからも、エメリナ様をパートナーにしてさまざまな催しに参加している。
――そして、毎回妙に疲れた顔で帰ってくるのだ。
「姉様……姉様……」
今夜もエメリナ様とパーティーに出たナイジェルは、帰宅するなりわたくしに抱きついてくる。そしてすんすんと匂いを嗅ぎはじめた。義弟のこの挙動にすっかり慣れてしまったわたくしは、風呂に入り軽く香水を振ったある意味準備万端の状態だ。
これに慣れていいものかというのは、悩むところね。
だけど引き剥がすのは難しいのだもの。あまり抵抗しすぎると、悪いことをしてぶたれた犬のような情けない顔をされてしまうし……
「姉様、苺のような香りがしますね」
つむじに鼻先を突っ込まれてすんとひと嗅ぎされてから、そんなことをつぶやかれる。
「エイリンが新しく用意してくれた、石鹸の香りだと思うわ。貴方もお風呂に入れば、同じ香りになるわよ」
「姉様と同じ香り……嬉しいです」
「ナイジェルが纏うには、少し愛らしすぎる香りだと思うのだけれど」
苺の香りを漂わせるナイジェルを想像してくすくすと笑っていると、抱きしめる腕の力がさらに強くなる。そしてなぜだか、首筋を軽く舐められた。
「きゃ!」
「甘い……」
甲高い悲鳴を上げるわたくしの肌をさらにひと舐めしてから、ナイジェルはうっとりとした口調でつぶやく。
「ちょ、ちょっと! やめなさい! 甘いわけがないでしょう!」
「いいえ。姉様は苺よりも甘いです」
「なにを馬鹿を言っているの!」
さすがに恥ずかしくなって胸をばしばしと強く叩くと、味見のような行為をひとまずはやめてくれる。
しかしその腕の力が緩むことはなく、わたくしは困ってしまい眉尻を下げた。
「……どうして、こんなに甘えっ子なのかしらね」
「…………本当に疲れてしまったので。姉様の補給をたっぷりとしないとやってられません」
ナイジェルが出かけている間は、近衛騎士団の女性騎士が護衛に来てくれている。その口からナイジェルの褒め言葉ばかりが零れるのを聞いていると……本当に不思議な気持ちになるのだ。
この甘えてばかりの義弟と、彼女たちから聞く武勇伝の人物がまるで別人のようだから。
――騎士学校で大層優秀な成績を残したとか。
――マッケンジー卿と国境での小競り合いに派兵された際に大活躍したとか。
――国外からいらした要人の警護で、身を挺してしっかりとその役目と果たしたとか。
うっとりとした表情で語られるそれらの話と、この大きな犬猫のように甘えてくる義弟とがなかなか重ならない。
先日暗殺者に襲われた際にはしっかりと守ってくれたわけだから、それらの話は真実なのだろうけれど。
思い返すと、あの時のナイジェルは……その。素敵だったわね。
……それにしても。
エメリナ様とのお出かけは婚約寸前の男女の楽しいもの……のはずなのに、義弟は毎回疲弊して帰ってくる。
婚約する同士といっても相性がいいとも限らないので、あり得る話ではあるのだけれど――
「ねぇ、ナイジェル」
「なんですか、姉様」
「その……ずいぶんと疲弊しているように見えるけれど。なにか困ったことでもあるの? あるなら、わたくしに話してほしいわ。力になれるかは、わからないけれど……」
婚約の話は、覆せるものではないのだろう。わたくしも貴族だから……それは理解できる。
ならばせめて、幸せな婚約であってほしい。
わたくしにとってのナイジェルは――大切な人なのだから。
そんな思いを込めつつ見つめれば、ナイジェルの口からは小さなため息が零れた。




