夜は露と星の上に
夜空を見上げてみると何が見えるだろうか。皆は口を揃えて言うだろう。星だ、と。当たり前だ。それはまさしく普遍の真理。例えこの地球が壊れようが、その光景は変わらないものであり続けよう。老若男女、更には未来や昔を生きる人問わずにその常識は知っていて、更には覆ることはないはずだ。ならばちょっと質問を変えてみよう。星の上には何が見えるのだろうか、と。
この質問は非常に難しく答えは多岐に渡る。ある人は「上という概念は存在しないため見ようがない」と。またある人は「その上部には無数の星がまた存在していて、綺麗な輝きを見ることができる」と。皆思い思いの持論を並べ立て、あーだこーだと水掛け論。子供のあどけなさが残る意見から、年寄りの含蓄ある意見まで。それぞれに主張があって、それぞれが等しく価値のある意見だが、それ故に答えはすぐに決められない。例え答えを一つに決めたとしても、納得しない人が必ず出てくるからだ。
万人が意見を揃えることは不可能だと昔から言われている。その代表的な例として『バベルの塔』がある。言語が統一されていた遥か昔、人間は神に対抗しようと天へと続く大きな塔を建てようとした。皆言葉が同じであるから意思統一が簡単にでき、その作業は素早く、そして確実に遂行されていった。
天上へと人間が到達すればどうなるか。神と同じ立場に立つ即ち、人間も神へと到達するのだ。そうなれば人は神と同じような権能を持ち、数が多い分その与えられる権能も多くなっていく。これを危惧した神たちは人間の言語を分裂させ、何百何千もの種類を作り出して地域ごとに割り振った。これにより人間は簡単な意思統一すらもできずに、今もこの天の下に生き続けている。この話は人間が神には抗えないことを示した話として伝えられてはいるが、多様な言語存在の理由の一説としても考えられている。
しかし所詮は伝説。今の世界を見る限り、言語が同じであってもその同じ言語域で意見が統一されている事例はない。人間一人一人にも個性がある。嫌いなもの好きなものは千差万別、統一しようにも言語が同じなだけでは不可能だ。人の個性は言語によって統一することはできない。それ故、人間は意見を揃えることはできず、バベルの塔は建てられないとするのが一般通説だ。
だが、僕はこれを否定する。世界全ては不可能だとしても日本語話者、平仮名が理解できる全ての人の意見を僕は統一させることができる。今ここで、僕は小さいながらもバベルの塔を打ち建てることを、神に打ち勝つことを宣言する。その意見の議題は先の通り、『星の上には何が見えるか』だ。
この技法は少々特殊で、統一にはある道具がいる。一枚の大きめな紙とペン、そしてこの作品を手元に置いてから始まる。まずはその紙に五十音を書いて欲しい。『あ』から『ん』まで全部。できるだけ大きめに、普段書く文字よりも倍ほどの大きさなら十分。よほどの小ささでないならそれでいい。次にこの文の星の上を見て欲しい。夜空にあるものじゃない、この作品にある文字だ。全部で五つ書かれているはずだ。
見つけたならその文字と同じ文字を、さっき書いた五十音の紙から見つけて丸で囲んで欲しい。囲み終わったら五つの点が書かれているはずだ。最後にこれらを線で繋いでいけば、目の前に何かが浮かんでいるに違いない。
僕が提示したその疑問の答えが、着実に打ち建てられているバベルの塔が。
星の上には、大きな星が浮かんでいるのだ。